〈本の棚〉森井裕一
中澤英雄著『カフカとキルケゴール』〈オンブック 3300円〉

 カフカとキルケゴールというどちらも決して明るいイメージを持たれていない二人が、なぜかちょっとロマンチックな雰囲気を醸し出しながら描かれた本書の表紙には、何かを期待させる魅力がある。このちょっとかわいらしい表紙と物理的な本書の成り立ちについてはあとがきで説明されているが、このような研究の成果がインターネットの世界における新しい展開によってまとめられ、誰しも入手できるような形で出版されることはとても喜ばしいことである。

 カフカとキルケゴールが生きた時代は全く重なっていないはずだが、果たして二人の間にはどのようなつながりがあったのだろうか。実存主義哲学者と非条理文学の作家の間のつながりとはどういうものであろうか。本書は新しく入手可能になった資料を巧みに利用しながら、キルケゴールの著作のカフカへの影響を見事に描き出している。カフカがいかにキルケゴールを読み、その思想をどう理解し、ブロートら友人たちとの思想的対話を行いながら、批判的に理解し解釈していったかを、明らかにしている。この点において本書は、著者も冒頭で指摘しているように「カフカのキルケゴール読書に関する実証的研究を基盤にした比較思想研究」なのである。

 しかし、私のようにドイツ文学にも思想にも宗教にも基礎的な知識を持たない読者でも興味深く読み通すことができる本書の魅力は、キルケゴールの著作を生身の人間としてのカフカがどのように受容したかを、カフカの恋愛とその挫折、それに伴う苦悩などと有機的に結びつけながら分析していることにある。キルケゴールとカフカは40歳を少し過ぎたばかりのところでどちらもその短い生涯を終え、愛する女性に巡り会いながらも、結婚という選択肢をみずから放棄した。今日的な幸福感の基準にはとてもあてはまらないこのような人生の対比には、それだけで読者を引きつけるものがある。そしてカフカの恋愛、結婚などをめぐる苦悩が、まさに彼の思索の原動力ともなっていることを知ることによって、長く遠ざかっているカフカの作品をもう一度手に取ってみようという刺激を与えてくれるものとなる。

 本書が対象としている時期は、第一次世界大戦からいわゆる戦間期の前半にかけての時期なので、第一次世界大戦や戦争終結後のさまざまな国際政治上の出来事がカフカの思索にも大きく影響を与えているのではないかと思われたが、日々のニュース的出来事が本書の中にはほとんど出てこないのは意外であった。「行動主義」という文学運動やシオニズムなどはもちろん登場するが、具体的な事件や歴史的出来事はほぼ登場しない。そのような表面的な問題ではなく、シオニズムやユダヤ人のアイデンティティー問題、そしてその背後にあるユダヤ教とキリスト教というミレニアムを超えて続くヨーロッパの大問題こそが、カフカの苦悩の背後には存在していることが本書を読むとよくわかる。

 カフカはキリスト教世界のチェコに少なからず住むユダヤ教徒である。キリスト教文化圏で西欧文化に同化し、実務と商売に勢力を注ぎ、ユダヤ教の信仰に篤くないカフカのような西ユダヤ人は、他の地域に生きるユダヤ教徒と比べると、宗教的に確固とした精神的な基盤を欠くが故に、弱く脆いという自己認識が、カフカ思想の重要な前提である。カフカは、自らの個人としての弱さを西ユダヤ人やユダヤ民族、さらには宗教的・形而上的な問題へと展開させているが、本書はキリスト教徒の一つの象徴的存在であるキルケゴールを題材として、友人たちとの書簡のやりとりなどを通じて議論している様を描き出しながら、カフカの思想的展開を見事に分析している。

 キルケゴールをめぐるカフカとその友人たちとの思索の交流を丹念に跡づけた本書は、キリスト教とユダヤ教、神と愛というヨーロッパ文化の基層にある根源的な問題に目を開かせる。魅力的な表紙から新しい世界が開かれる本書は、ヨーロッパ理解にはこのようなアプローチ方法もあることを再認識させてくれる。

(地域文化研究専攻/ドイツ語)

 

 

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