L・v・S=マゾッホ著『聖母』(中央公論社、藤川芳朗訳)

               中澤英雄

 

 

 レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ(以下では「マゾッホ」と略称)は、「マゾヒズム」という精神病理学的現象の語源となった作家として、その名は非常に有名であるが、代表作とされる『毛皮を着たヴィーナス』を除いては、その作品が必ずしも広く知られているわけではない。ドイツ語圏でもマゾッホの本はあまり出版されないし、マイナーな作家として研究もそれほど盛んではない。日本でも事情は似たようなものである。桃源社版の『マゾッホ選集』全四巻が刊行されたのは、今から三〇年近くも前のことである。最近、そのうちの二巻『毛皮を着たヴィーナス』と『残酷な女たち』が河出文庫に収められたが、残りの二巻はまだで、現在では図書館にでも行かなければ読むことができない。河出文庫の二冊はいずれもマゾヒズム系の作品で、そのため、ますます「マゾッホ・イコール・マゾヒズム」という固定観念が強化されることになる。

 

 しかしながら、マゾッホは非常に多産で多面的な作家であり、マゾヒズムは彼の作品世界の――もちろん重要ではあるけれども――一つの要素にすぎないのである。フランスの哲学者ドゥルーズはマゾッホについて、「その作品全篇は、ハンガリー=オーストリア帝国の少数民族問題、国籍問題、革命運動の問題の影響をとどめている」と指摘している。マゾッホの別の魅力は、東欧を舞台にした歴史小説や、その地のユダヤ人やポーランド人や小ロシア(ウクライナ)人の生活と文化の描写である。近年になって、桃源社版選集に収められた以外の作品も少しずつ邦訳・出版されはじめたことは、彼の全体像を知る上でよろこばしいことである。

 

 本書『聖母』の訳者である藤川芳朗氏は、すでに数年前に『魂を漁る女』(中公文庫)を邦訳している。『魂を漁る女』(一八八六年)は、キエフの異端宗派をめぐる恋愛と殺人の猟奇的物語である。『聖母』(一八八三年)もまた、ガリツィア地方を舞台として、美貌の女教祖を中心とする異端教団を描いている。両作品の類似性は看過し得ない、というよりもむしろ、『聖母』は『魂を漁る女』の前駆的作品と評することさえできるのである。

 

 『聖母』では、女教祖は信徒に絶対的権力をふるい、信徒は教祖を神の使いとして無批判に崇拝する。教祖は信者に財産を教団に寄進することを要求し、教団の規律に違反した信徒と裏切り者は裁判にかけ、リンチ殺害する。こう書いてくると、オウム真理教を思わせる現代のカルト教団の要素はすべてそろっていることになるが、一九世紀ロシアには、こういう犯罪的カルトが実際にいくつか存在したようだ。『聖母』の教団名をマゾッホは作品中で明言している。それはドゥホボール教である。

 

 ドゥホボールというと一般的には、「汝殺すなかれ」という戒律を遵守し、武器を取って戦うことを拒否したがために、帝政ロシアによって大弾圧を受けた教団として知られている。トルストイが、ドゥホボールの徹底的非暴力の生き方に深い感銘を受け、彼らのカナダへの移住を援助するために、中断していた『復活』を書き上げ(一八九九年)、その印税をすべて寄付したことは、有名なエピソードである。トルストイとは反対に、マゾッホはドゥホボールを暴力的な邪教として描いている。この落差は何か。

 

 木村毅氏の『ドゥホボール教徒の話』(恒文社)や中村喜和氏の『武器を焼け』(山川出版社)によれば、一八世紀半ばのロシアに生まれたこの宗派の歴史の中には、実際に裏切り者を裁判にかけ、処刑した一時期もあったという。一九世紀後半の女性指導者ルケーリアは、ヴェリーギンという美青年を寵愛し、彼を教団の後継者にしようと考えていたらしいが、彼を指名する前に一八八六年に急死した。教団は内紛を起こし、ヴェリーギン派と反ヴェリーギン派に分裂した。『聖母』はその三年前、ルケーリアがまだ健在の頃に書かれている。『聖母』の女教祖マルドナは、おそらく部分的には彼女をモデルにしているだろう。

 

 反ヴェリーギン派はロシア社会との妥協の道を選んだが、いわば原理主義者のヴェリーギンは頑固に非暴力の道を貫いた。トルストイが一八九〇年代の初めに知ったドゥホボールは、このヴェリーギン派であった。同じドゥホボールといっても、トルストイが接触した教団は、マゾッホが『聖母』を書いた頃とは様変わりしていたのである。

 

 マゾッホはいくつかの作品でユダヤ教や東欧の異端宗教の世界を描いている。ただし、彼は基本的には啓蒙主義者であり、宗教への敵対者であった。宗教を描くときはしばしば彼の皮肉が感じられるのだが、この作品でもそうである。作品の教団はかなりデフォルメされているだろう。青年サバディルがマルドナによって十字架上で処刑される場面は、あまりにも露骨にイエスの磔刑のパロディである。ちなみに、十字架死の場面は『魂を漁る女』にも登場するが、そこでは十字架にかかるのは教祖のほうである。また、『聖母』のいくつかのユーモラスな場面は、のちの『ユダヤ人の生活』(柏書房)でも反復されている。濫作家マゾッホが同じ材料を手を変えて再利用していることがよくわかる。

 

 『聖母』は、宗教的世界の意匠を借りての、男女の恋愛と嫉妬、裏切りと憎悪、加虐と被虐、そして諧謔というマゾッホ・ワールドなのであり、読者は、そういうものとしてこの作品を楽しめばよい。そして、巧妙なストーリーテラーとしてのマゾッホの手腕に裏切られることはないだろう。

 

出典:『図書新聞』2751号、2005年11月26日

 

トップページへ戻る

 

inserted by FC2 system