教養学部報 第545

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〈駒場をあとに〉
駒場思い出すまま

中澤英雄

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 私が北海道小樽市の高校を卒業して、東京大学教養学部理科一類に入学したのは一九六六(昭和四一)年だった。入学手続きに付き添いにきた東京在住の伯父に、「駒場寮なんかに入るもんじゃない」と言われた。言われるまでもなく、外観を見ただけで入る気にならなかった。手続き終了後、吉祥寺まで連れて行かれた。当時はまだ急行はなく、各駅停車だけだった。緑色の車体の電車がのんびりと走り、やたらに多くの駅に停まる電車だな、と思った。

 吉祥寺駅前の不動産屋で、井の頭公園近くのアパートを紹介してもらった。六畳一間の屋根裏部屋に簡単な炊事設備、風呂は銭湯、家賃は月六千円だった。当時は一畳千円が下宿の相場だった。学費は半年六千円で、ただ同然。生協食堂はA定食が一二〇円、B定食が九〇円。親からの仕送りは月二〜三万円だったが、アルバイトなしで生活できた。地方出身の貧乏学生でも無理なく東大で学べる良き時代であった。

 サークル勧誘でボート部に誘われた。コンパに出たところ、先輩たちがとても親切にしてくれ、そのまま何となくボート部に入ってしまった。駒場での訓練のときは明治神宮までランニングした。ボートを漕ぐのはもちろん埼玉県戸田のボートコース。時には戸田合宿所での合宿もあった。エイトが漕げるようになって、荒川を下り東京湾に出て、江戸川を上って千葉県市川市の里見公園まで行った。

 練習にかまけているうちに、いつしかあまり授業に出なくなった。とくに第二外国語のドイツ語がわからなくなった。当時は理科系でもドイツ語が文法週二コマ、外国文学という名称で読本が一コマあった。今のシケプリのようなものもなく、ドイツ語を教えてやる、と言っていた先輩も、体操の時の「アインス、ツヴァイ、ドライ」というかけ声と、「これでフライ(自由放免)」という単語以外にはあまりドイツ語を知っていないようだった。ドイツ語でかけ声をかけたのは、一高以来の伝統なのだろうか? 結局、一年留年することになってしまった。

 ボート部のほうは半年余りでやめた。夏場になって、体力の消耗が激しくなってきたからである。北海道育ちの私には、東京の夏は耐えがたかった。その中で激しい運動をして、よく熱中症にならなかったものだと思う。

 翌六七年四月からは心を入れ替えて、授業にも真面目に出席した。ある時、辻王星先生の訳したカフカ作品を読んで、まったくわからない文学があるのか、とショックを受けた。わからないものであれば、よけいになんとかわかりたい。そんなことからカフカにのめり込んで、ついには辞書片手にドイツ語でも読み始めた。ある時、初期短篇作品の謎が解けた。自分でもドイツ文学研究者になれるのではないか、という大それた想いが出てきた。

 ドイツ語文法の担当はニーチェ研究者の氷上英廣先生だった。先生は若き日に、カフカを日本に紹介した中島敦とも親交があった。ずうずうしくも先生のご自宅にお邪魔して相談したところ、「それじゃあ君、教養学科のドイツ科に来なさい。理科系からも進学できるよ。もしその後もカフカをやりたいのであれば、比較文学・比較文化の大学院に来なさい」と言われ、結局その道を歩むことになった。

 六八年になると、例の東大紛争が起こり、学生は全学ストライキに入った。私は無関心派ではなかったが、全共闘などの特定のグループに入る気はしなかった。クラス討論で英語の青柳晃一先生と大学改革をめぐって激しい議論をしたことを覚えている。青柳先生とはその後、留学したドイツでお会いすることになった。

 教養学部生のストは六九年の夏前に終了した。秋から授業が再開され、私は教養学科ドイツ科に進学した。四学期のドイツ語速読を担当した岩崎英二郎先生は、学生紛争に嫌気がさしていて、すぐに慶應に移ってしまった。ドイツ科では主任の吉田正己先生のもと、辻先生のカフカ演習、山下肇先生のユダヤ・ドイツ精神史、神品芳夫先生のリルケ、トーマス・インモース先生の「ファウストとドイツ精神」、ブリギッテ・ドルチィ先生のブレヒトの『ガリレイ』やデュレンマットの『物理学者』など、今から思うとずいぶん贅沢な授業に恵まれた。

 変則的な授業日程で七一年六月に教養学部を卒業し、七月に比較の大学院に進学した。氷上先生は七二年三月に定年退任され、指導教授は内垣啓一先生に交代した。結局、両先生にまともな指導も受けず、独断で修論を書いて七三年三月に修士課程を修了した。

 ちょうどその時、ドイツ科助手のカント学者・久保元彦さんが都立大に移ることになり、四月にその後任に採用してもらった。初任給は手取りで五万円ほどだった。ドイツ科主任の辻先生のもとで助手を二年務めたあと、まだたいした論文も書いていなかったのに千葉大学の講師に採用された。今とは違ってドイツ語関係のポストが多かった時代であった。千葉大で一〇年務めたあと、八五年に駒場に招かれた。

 駒場で最初にドイツ語を教えた理科一類の学生が、何年かたって、「人類を救うためにオウム真理教という団体に入り、理学部をドロップアウトしました。これからドイツに行くので、ドイツのことをお聞きしたいと思いまして」と電話してきた。授業のあとによく質問に来る成績優秀な学生で、名前も顔も覚えていた。その後、オウム真理教の幹部として新聞・週刊誌に名前が出たが、死刑判決は受けなかった。どこでどう道を間違えたのか、残念である。

 私は多くの先生の学恩に恵まれて、なんとか学者の末席に連なることができた。駒場の同僚から受けた恩義については書く紙幅がなくなったが、とくにドイツ語部会と言語情報科学専攻の皆さんには心より感謝申し上げ、駒場のますますの発展をお祈りして駒場を去ります。

(言語情報科学専攻/ドイツ語)

先生:は王へんに星 「王星?」という字です。
 表記できない漢字も含まれています。紙面でお確かめ下さい。

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