ショーペンハウアー生誕200年

                                                              中澤英雄

 

 今年、1988年はショーペンハウアー生誕200年にあたる。XX生誕(没)XX年といった記念行事が好きなドイツのことなので、今年は各方面でショーペンハウアーを再評価する催しが行われているようである。今年早々の『ツァイト』と『シュピーゲル』にもショーペンハウアー関係の記事が出ていた。『ツァイト』紙では、長年にわたってショーペンハウアー協会の会長を続け、ショーペンハウアーの研究者としてばかりではなく、いわば彼の使徒として働いてきたArthur Hübscher 氏の墓が、ショーペンハウアーの墓の敷地内に造られているのは、ショーペンハウアーという Klassiker 〔古典作家〕に対する Grabschändung 〔墓汚し〕だ、という非難が、ショーペンハウアー協会に対して行われていた。明治大学の遠山義孝氏によると、これはショーペンハウアー協会自体の責任というよりも、ヒュプシャー氏の未亡人の希望によることであり、しかも同じ敷地内というのは不正確であって、ヒュプシャー未亡人が隣りの敷地を購入した後で、境界の生け垣が取り去られたため、そう見えるようになってしまったとのことである。

 

 これはどちらかというと些末な取り上げ方であるが、『シュピーゲル』では作家の Ulrich Horstmann が、ショーペンハウアー哲学を現代的視点から再評価すべきである、という論を展開していた。彼によると、ショーペンハウアーはその現実直視によって、「核のニルヴァーナ」の危機に見舞われている20世紀後半の世界を先取りしていた哲学者だということになる。世界は確かに、マルクスが予言していた方向よりも、生への意志の客体化である人間どうしの絶え間ない闘争という、ショーペンハウアーが診断していた方向へと動きつつあるようである。しかし、このような時代の風がショーペンハウアー哲学の再評価につながるかといえば、必ずしも簡単には予見できない。少なくともドイツにおいては、ショーペンハウアー哲学への時代の追風は、米ソ間のINF〔中距離核戦力〕全廃条約の締結以来、やや弱まりつつあるように見える。ショーペンハウアー生誕200年が少なくとも今から4年前、すなわちゴルバチョフ書記長が登場する以前の、NATOの二重決定によって米ソの中距離核が東西ドイツで増強されようとしていた東西対立激化の頃にやってきていたならば、事情はかなり違っていたことであろう。グーハの『核の黙示録』のような近未来世界破滅小説が書かれ、"Besuchen Sie Europa, solange es noch besteht" 〔ヨーロッパがまだあるうちにヨーロッパを訪ねてごらん〕というようなロックがヒットした、その当時の色濃いペシミズムの中でショーペンハウアーを読み直すことは、今よりもっと強い衝撃を与えたはずである。だがINF条約によって、ドイツはこの最悪のペシミズムから抜け出しつつあるようである。どうもショーペンハウアーという哲学者は時流にうまく乗れないらしい。

 

 思えばショーペンハウアーは常に unzeitgemäß 〔時流はずれ〕な哲学者であった。ショーペンハウアーは元来、哲学研究の専門家の間ではきわめて人気のない哲学者である。それは彼の生きていた時代から現代に至るまで変わらない。彼がベルリン大学で、あろうことか時の大御所ヘーゲルと張り合って、彼と同じ時間帯に、「総合哲学、もしくは世界の本質と人間精神に関する学説について」という大仰な題目で自分の哲学を講義しようとした瞬間に、彼の時流からの逸脱は決定づけられた。ショーペンハウアーはもともと歴史には侮蔑感しかもっておらず、「世界の本質と人間精神」を永遠の相のもとで考察することこそ、真の哲学であると思っていたから、ベルリンで味わった屈辱は、彼の時代に対する敵意をいっそう強めることになった。面白いことに、彼の時代からの逸脱、時代を斜めから見ていたその偏屈さが、逆に今日でも通用する彼の先見性になっている。その彼が晩年になって急に有名になり、その知名度の高まりに彼の狷介さも和らげられたということは、余りにも人間的なエピソードであるが、彼の哲学が見直されたのは、1848年革命の挫折という当時の時代状況と無縁ではなかった。彼自身の思い込みとは異なって、彼の哲学の受容も常に時代とのかかわりの中で行われたのであった。そののち19世紀後半から20世紀初頭までの短い期間、ショーペンハウアーの哲学はニーチェからヴィトゲンシュタインにいたるまでの何人かの哲学者に大きな影響を与え、ヴァーグナーやトーマス・マンなどの音楽家、作家に霊感を吹き込み、フロイトやヴァイニンガーなどの精神分析学者に性の形而上学の秘密を明かした。これらのいわばショーペンハウアーの弟子たちが、現代においてもその意義が認められるアクチュアルな存在であるのに対し、彼自身の哲学は今ではもはや時代遅れのものとして、哲学の専門家にはほとんど顧みられることもないようである。これは彼の師のカントや、彼の敵手のヘーゲルや、彼の弟子のニーチェの専門家なら、今でも大勢いるのとはいかにも対照的である。もっとも、彼は大学の「哲学教授たち」には終生敵意を抱き続けていたから、このような無視には、当然彼一流の怒りを爆発させたことであろうが、同時にそれをもって自分の哲学の卓越さの証明だと思ったことでもあろう。

 

 哲学専門家の間におけるショーペンハウアーのこのような人気のなさには、いくつかの理由が考えられる。その一つは、カントからヘーゲルにいたるドイツ観念論の流れ、そしてヘーゲル哲学の崩壊の中からキルケゴール、マルクス、ニーチェの哲学が生まれるという一般的に確立した哲学史の図式の中に、ショーペンハウアーがうまく納まりきらないことにあるのだろう。しかし、哲学という営みが既成の学説の受け売りではなく、それに対する根源的な懐疑であるならば、この無視されてきた哲学者の再評価はきわめて興味深い企てであるに違いない。もう一つの理由は、一読して目につく彼の哲学のどうしようもない矛盾の大きさであろう。これらの矛盾は彼の哲学の過渡期的、折衷的性格から生まれており、そこには余りにも多くの考察が無理やり一つの体系の中に押し込まれている。だが逆に言えば、その矛盾の中に彼の魅力も隠されているわけで、ニーチェやフロイトたちはショーペンハウアーの哲学を彼らなりに脱構築して、そこから彼らの新しい洞察を導き出したとも言えよう。現代思想の原点のひとつとしてのショーペンハウアーの中には、今なお数多くの未発掘の鉱脈が眠っているのかもしれない。

 

 また周知のように、ショーペンハウアーは彼の哲学にウパニシャッドや仏教といったインド思想を積極的に取り入れようとしたが、この関係も比較思想的に見て興味深いテーマであろう。さらに、ケーベルの講義や、姉崎正治の翻訳を通じて日本の哲学界、文学界、仏教学の世界に与えたショーペンハウアー哲学の影響も、まだ充分には解明されていないようである。

 

 ショーペンハウアーとドイツ文学の関係といえば、従来からトーマス・マンの場合が有名であるが、そのほかにカフカもショーペンハウアー哲学に親しみ、八折判ノートの彼のアフォリズムの中には、ショーペンハウアーの影響を明白に示すものがいくつか残されている。そのカフカにショーペンハウアー哲学の魅力を最初に教えたのはマックス・ブロートであったが、ブロートは若い一時期、「狂信的なショーペンハウアー主義者」であって、彼の初期の作品はショーペンハウアー哲学ぬきには理解できない。カフカ、ブロート周辺のいわゆる Prager Kreis 〔プラハ・サークル〕の文学者たち、さらに彼らと同時代のカール・クラウスなどユダヤ系作家たちには、ショーペンハウアーは直接、間接に影響を与えているが、これらの影響関係もこれから解明されるべき課題として残っている。

 

 以上はショーペンハウアー哲学とその周辺ということで私が思いついた数少ない項目にすぎない。そのほかにも、もっと多様な視点からショーペンハウアー思想の歴史的・現代的意義を解明することができるであろう。ショーペンハウアー生誕200年にあたる今年、わが国の数少ないショーペンハウアー研究者、あるいはショーペンハウアーに関心を抱く色々な分野の人たちが集まって、「日本ショーペンハウアー協会」が設立された(事務局は武蔵大学兵頭高夫研究室)。これがきっかけになって、ショーペンハウアーが新たに見直され、またショーペンハウアーの視点から現代が見直されることになれば有意義なことだと思う。

 

出典Brunnen(郁文堂) Nr.305, 1988年7月、5頁7頁

Web掲載に際して、ドイツ語に日本語訳を付した。

 

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