ベルリンにおける日中韓ゲルマニスト共同シンポジウム

 

中澤英雄

 

(DAAD友の会会報ECHO第7号、31頁−34頁)

 

 

※このシンポジウム開催の経緯については、「日中ゲルマニスト共同シンポジウム」の解説をお読み下さい。

 

 1991年8月26日から30日にかけて、ベルリンの日独センターにおいて、日中韓ゲルマニスト共同シンポジウムが開かれた。この催しは、1989年4月のソウルでの日韓共同シンポジウム、1990年3月の北京での日中共同シンポジウム、そして同年8月のIVG東京大会といった一連の国際学会の延長線上に位置する、東アジアのゲルマニストの学術交流の学会であった。ソウルと北京での学会の場合は、近隣諸国ということもあって、日本人参加者はいずれも全経費を自己負担したが、今回は会場を提供してくれた日独センターの援助のほかに、渡航費、滞在費についてはDAADとフンボルト財団から財政援助を受けることができた。

 

 そもそも東アジアのドイツ語・ドイツ文学研究者が、このような共同の学会を開催するに至ったのには、前独文学会理事長・木村直司上智大学教授のイニシアティヴと、前独文学会渉外委員長・三島憲一大阪大学教授の実務面での尽力によるところが大きい。私も木村理事長、三島渉外委員長のもとで渉外委員に任じられていた関係で、これら一連の学会に参加し、中韓のゲルマニストと交流する貴重な機会を得ることができた。

 

 《Deutsche Literatur und Sprache aus ostasiatischen Perspektiven》と題された今回のベルリン学会には、日本からは15名が参加した。韓国、中国、ドイツ、さらに台湾からの参加者も含めて、名簿に載った出席者の総数は60名であったが、その他にドイツ留学中の東アジア・ゲルマニストも数名参加した。大部分の参加者は上記いずれかの学会にすでに出席ずみで、お互いに既知の間柄なので、シンポジウムは最初からくつろいだ雰囲気で進行した。シンポジウムは午前中は Plenarvortrag、午後は文学、語学、ドイツ語教育の各分科会に分かれて発表を行なった。8月28日の休憩日を除く4日間で計37の発表が行なわれたが、かなりハードな学会であった。

 

 この学会の学術的な内容については独文学会誌『ドイツ文学』第88号に、新田春夫氏の報告が載ることになっているし、またすべての発表を印刷した Akten も出版される予定になっており、あまり詳しくは述べる必要がないと思うので、以下ではいわばシンポジウムの周辺的な事柄について書いてみたい。

 

 会場となったベルリン日独センター(Japanisch-Deutsches Zentrum BerlinJDZB)は、Tiergarten の近くの閑静な地区にあり、徒歩で Zoo の駅まで20分ほど、ブランデンブルク門まで30分ほどのところに位置している(「徒歩で」というのは、同センターからベルリンの中心部に出るバスや地下鉄の便がないからである)。この建物は戦前日本大使館であったのだが、戦後は長らく廃虚のままに放置されていたものを、1983/84年、中曽根元首相とコール首相の会談によって、文化センターとして再建することが決定された。1987年、ベルリン市750年祭の一部として、皇太子徳仁殿下の臨席のもと落成式が行なわれ、1988年に開館し、センターの活動が開始されている。正面には列柱が立ち並び、その上部には菊の御紋章が輝く威圧的な建物は、文化センターというよりも、やはり戦前の大使館という趣である。もっともこの建物も、ドイツの首都が実質的にもベルリンに移転することが正式に決定されたので、やがては日本大使館として利用されることになり、日独センターはもっと慎ましやかな建物に移転することになるのであろう。

 

 戦前の日本が不幸な過去をもたらした韓国や中国の学者が、こうした会場で学会を開くことをどのように受けとめるか、危惧する人もいたが、日独センターの応援があってこの学会が可能になったので、彼らもその点は割り切って考えていたようであった。このシンポジウムについて報道した Der Tagesspiegel 紙は、日中韓台という、侵略・被侵略という過去の歴史的経緯をもち、また、中韓台という現在でもまだ正式な国交関係のない東アジアの国々が、このような建物でドイツ語によって学術交流のみらず、国際的友好をはかることは、それだけでも小さなセンセーションである、と報じていたが、まさにその通りであろう。

 

 センターで今回の共同シンポジウムの企画運営を担当してくれたのは、しばらく前まで東京大学教養学部の外国人講師をしていたReini Schwede さんであった。日本滞在経験の長い彼女は私たちの事情をよく理解し、シンポジウムの成功のために多大の尽力をして下さった。

 

 日中韓の参加者のほとんどは、日独センターが手配してくれたホテルに泊まったが、ISVGゼミナール・ホテルという名のこのホテルは、東ベルリンのさらにその東端にあるミュッゲル・ゼーという湖の畔の、良く言えば風光明媚な、悪く言えばひどく辺鄙なところにあった。このホテルは旧東独共産党の幹部養成のための施設であったとのことであったが、私たちの滞在期間中には、旧東側企業の従業員や公務員の再教育の研修が行なわれていた。ホテルの設備は、3室ごとに共通のドアがあり、それらの部屋についてトイレ、シャワーが共同という、今まで経験したことのないつくりであったが、一泊90マルクという料金の割には、かなり粗末であった。ベルリンでは特に大きな催しの行なわれていない期間であったにもかかわらず、日独センターがこのような部屋しか確保できなかったということは、ベルリンのホテル事情がかなり逼迫していることを示しているのだろう。また、ホテルの近くには、コンピューターのソフト・ハウスの看板が出ていたりして、こうした地域にも西側企業が進出していることがうかがわれた。

 

 近くに S-Bahn の駅もない不便な場所なので、宿泊者はホテルから日独センターまで、貸し切りバスで毎朝1時間ほどかけて通い、夕方同じバスでホテルに戻ってきた。東側では外国人に対する感情が良くなく、付近でも最近ベトナム人が襲われて怪我をした、という話も聞いた。私たちは幸いそのような目にはあわなかったが、団体バスで通ったのにはそうした危険を避ける意味もあった。往復のバスの中から東ベルリンの町並みを見ることができたが、西側と比べると、やはり荒廃の感じは否めなかった。

 

 8月28日には、Schönefeld 空港のわきを通って、バスで Potsdam を観光した。新宮殿、サンスーシー宮殿(その庭には数日前に埋葬し直されたばかりのフリードリヒ大王の真新しい墓があった)のほか、戦後体制を確定したポツダム会談が行なわれた Cecilienhof の内部も見学できたことは、日本人のみならず、中韓のゲルマニストにとっても有意義なことであったろう。

 

 シンポジウム開催の前に行ってみたブランデンブルク門では、おみやげ屋がソ連軍の帽子や記章を売っていた。Pariser Platz 付近にわずかに残る壁は、はやくも歴史的遺物の趣を見せていた。私はDAAD奨学生として12年前にベルリンを一度訪れただけであったが、そのときはチェックポイント・チャーリーを通って東ベルリンに入った。今回ブランデンブルク門をウンター・デン・リンデンへと自由に通り抜けて、ここ数年の歴史的地殻変動の巨大さをあらためて感じた。

 

 私がベルリン滞在中に、ソ連で保守派のクーデターが起こり、失敗し、民主派が勝利した。ソ連各地でレーニン像が次々と倒される中、東ベルリンの広場に立つ巨大なレーニン像には、さっそく「最後のレーニン像」という落書きが書かれていた。198911月9日にベルリンで一つの頂点に達した歴史の波動は、次の頂点に向かっていささかもその歩みをゆるめない。この激動の歴史の赴く先が、ドイツにとっても、ソ連を含めたヨーロッパにとっても、そして私たちの日本や人類全体にとっても、より自由で、平和な世界であることを祈らずにはいられなかった。

 

  (なかざわ ひでお、ドイツ文学、1978/80 Bonn、東京大学)

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