日中ゲルマニスト共同シンポジウム

 

有泉泰男&中澤英雄

 

(ドイツ文学85号、1990年10月、191頁―194頁)

 

※これは、1990年3月に北京で開かれた「日中ゲルマニスト共同シンポジウム」に関する報告で、日本独文学会の機関誌『ドイツ文学』85号の「マルジナリア」に掲載されました。日本大学の有泉泰男氏と中澤の共同執筆という形になっておりますが、実質的には中澤が書いたものです。

 

 日本独文学会では、木村直司氏(当時・上智大学教授)が理事長のころ、東アジアのドイツ語・ドイツ文学研究者との交流を活発化しはじめました。その結果、1989年にはソウルで日韓ゲルマニスト共同シンポジウム、1990年には北京で日中ゲルマニスト共同シンポジウム、1991年にはベルリンで日中韓ゲルマニスト共同シンポジウムが開催されました。さらに、1990年には慶應大学でIVGInternationale Vereinigung für Germanistik)の世界大会も開かれました。この頃、学会の渉外委員をしていた私は、4つの国際シンポジウムに参加する機会を得ました。また、3つの海外シンポジウムでカフカに関する発表も行ないました。

 

 ソウルでのシンポジウムについては報告を書きませんでしたが、北京とベルリンの行事については報告を書きました。これは1990年の北京の行事に関する報告です。ベルリンの報告と合わせてお読み下さい。

 

 さて、北京シンポジウムの前年1989年の6月4日に天安門事件が起こり、政治の自由化を求める反体制派の学生・労働者が数多く虐殺されました。シンポジウムは天安門事件からまだ1年もたっていない時期に開催されました。そのような時代背景を踏まえてお読み下さい。また、北京の町の様子も現在とは大違いであることがおわかりになると思います。

 

 このシンポジウムで私は Über die Chinesische Mauerという発表をしましたが、これには「〔カフカの〕万里の長城について」と「万里の長城を越えて」という二つの意味があり、やはり天安門事件を意識した内容になっています。

 

 なお、【 】の部分は、最初に書いた原稿にはありましたが、字数制限のために、さらにはまた中国人同僚が置かれていた当時の政治状況を配慮して、削除せざるをえなかった部分です。ここでは復活しました。また、学会誌掲載原稿にはありませんが、ドイツ語には〔 〕の中で日本語訳と注を付けました。

 

   *   *   *

 

 1990323日から28日にかけて、中華人民共和国の北京外国語学院で、日中ゲルマニスト共同シンポジウム(中国側呼称:中国日本日耳曼学学者大会)が、日本側から24(浅岡、岩崎、井口、大滝、山田、土屋、岡田、轡田、柴田、三島、井上、新田、大貫、有泉、中澤、木村、池田、田辺、植木、金子、楠根、藤本、中山、E. Scheiffele: 順不同)、中国側から57名、その他にポーランドIDV会長W.Pfeiffer氏など数名のドイツ人学者が参加して開催された。今回のシンポジウム開催にあたって、日本独文学会渉外委員会は、現会長木村直司氏が渉外理事であった2年前の春に、中国徳語学会会長祝彦(Zhu Yan)氏と北京で準備打ち合せをしたことをはじめとし、昨年初頭には三島憲一渉外理事が再度北京にて綿密な計画打ち合せを行なった。ところが周知のように、昨年6月の天安門事件、それに続く戒厳令の施行によって、シンポジウムの開催は一時危ぶまれる状態となったが、中国側関係者の熱心な努力によって事態は好転し、当初の予定通り開かれることになった。

 

 東京近郊在住者は322日、13:45出発予定の中国民航機にて15:00に成田を出発し、19:20に北京空港に到着した。空港には【緑色の軍服を着た】軍人の姿が目立って、【愛想のない入国係官の表情と相まって、】一同緊張感をおぼえた。しかし、出口で祝彦、副会長張玉書(Zhang Yushu)、黄国禎(Huang Guozhen)などの中国徳語学会の主だった面々の出迎えを受け、中国側とはすでに旧知の間柄である木村、三島の両氏によって両国のメンバーが紹介され、ドイツ語で挨拶をかわすうちに、緊張感も春の雪のようにとけて、【前年の日韓共同シンポジウムの時と同じように、】お互いの間にはKollegen〔同僚〕としての親しさがすぐに生まれた。日本人は【二台の】バスで北京市西北部にあるホテル盛唐飯店に向かった。【飛行場から北京市内へ向かう夜の道は韓国のそれよりもはるかに暗く、まわりの風景を見物することもできなかったが、時折り遠方には日本と同じような高層建築物が見えた。同乗した中国人の説明によれば、近年共同住宅が大量に建設されつつあるとのことである。】20時過ぎにホテルに到着し、中国側からプログラムをもらって翌日からのシンポジウムに備えた。日本出発前にはプログラムはできておらず、各人が自分の発表の期日を知ったのはこれが初めてであった。

 

 会場の北京外国語学院は宿舎のホテルから大学の専用バスで10分ほどのところにあるが、このあたりは文京地区で、人民大学、北京大学などの有名な大学が数多く集まっている。道路の両側はアジア大会の準備のためにいたるところ工事中であった。【天気がよければかなりほこりぽかったであろうが、会期中は雨が多かった。】道路には歩道の他に自転車用レーンがあり、そこを毎朝大勢の人民が【雨合羽をかぶり】自転車で職場に通っている。中国では自動車は道路の特権階級で、自転車も通行人も人命無視でけちらして行く。道路には交通信号はほとんどなく、道を横断するときには、車の流れの切れ目を見つけてすばやく走って渡らなければならない。毎日これを繰り返したので、日本人一同もかなり敏捷になったと思う。

 

 北京外国語学院のメディア・ホールで開かれた初日23日の開会式では、最初に同大学の学長の王福祥(Wang Fuxiang)教授が歓迎の挨拶をなさり、それに応える形で岩崎英二郎IVG会長が、日中の過去を振り返りつつ、IVG東京大会のテーマ(Begegnung mit dem "Fremden"〔異質なものとの出合い〕)とも関連させながら、日中にとっては他国が互いにfremd〔疎遠〕であるが、このシンポジウムを通して両国がよりよく理解し合うことの重要性を述べられた。そのあとに北京外国語学院・祝彦教授【やその他のEhrengäste〔来賓〕】の挨拶が行なわれた。

 

 シンポジウムは午前中はこのホールでのPlenarvortrag〔全体発表〕、午後は同大学の敷地内にあるGoethe Institut(歌徳学院北京分院)に移動して、いくつかの分科会に別れてのSektionsvortrag〔分科会発表〕という形になった。Sektion〔分科会〕はSprachwissenschaft〔言語学〕、Deutsch als Fremdsprache〔外国語としてのドイツ語〕、Literaturwissenschaft〔文芸学〕 (1)および(2)という4つに分かれた。北海道なみの気温にもかかわらず、北京では3月中旬で建物の暖房が切られるので、発表を聞きながらかなり寒かった。【個人としてはすべての発表を聞くわけにはゆかなかったし、】約60もの発表のすべてについてその内容を要約する紙数の余裕はここにはないし、いずれ論文集も刊行される予定であるから、その必要もないであろう。ただし、深い印象を受けた講演をいくつかあげると、まず初日の張玉書北京大学教授の"Rezeption der deutschen Literatur in China"〔中国におけるドイツ文学の受容〕という発表では、氏はGoetheStormHeineBrechtBöllなどの作品が、その時代の中国の政治との関係の中でどのように翻訳され、どのように読まれてきたかを具体的に論述した。たとえば巴金によって訳された"Immensee"〔みずうみ〕は封建制によって抑圧された中国の運命として、BöllTrümmerliteratur〔廃墟の文学〕は文化大革命後の中国のWundeliteratur〔傷口の文学〕として読まれ、日本とはまったく異なった受容のされかたをした。氏の発表の中には文革への強い批判が見られたが、それはまた中国の現状への批判とも重なっているように感じられた。24日に行なわれた祝彦氏の"Germanistik in China wechselvolle Vergangenheit und Neuansätze"〔中国におけるゲルマニスティク――波乱に満ちた過去と端緒〕も、中国徳語学会の歴史と現状を語るという形を取りながら、文革中に南京では20名の独文関係の教授が自殺したこと、そして現在では若いゲルマニストが西独へ脱出してゆく現実を忌憚なく述べ、今日の中国社会への鋭い批判となっていた。あとで聞いたところによると、現在の中国の学会の中心となって活躍している人たちは、文革期には辺境で肉体労働に従事させられたり、蔵書を焼かれたりして、かなりの辛酸をなめたようである。

 

 筆者の一人が出席したSektion Literaturwissenschaft (2)では、田辺玲子氏の"Möglichkeit und Fähigkeit einer feministischen Literaturwissenschaft"〔フェミニズム文芸学の可能性と能力〕という発表をめぐって、日中両国の参加者から、互いに相手の国における結婚・家庭問題、社会における男女の地位、職業や給与、性差別の問題などについて活発な質疑が交わされ、このシンポジウムが独語・独文学についての学問的成果の交換だけではなく、日中両国の理解と友好の場であることをあらためて確認した。また、広州外国語学院の王霹(Wang Pi)氏は、Gabriele Wohmann"Verjährt"〔時効〕を現代中国の人気女流作家・湛容(Shen Rong)の最新作『懶得離婚』(Nicht aufgelegt, eine Scheidung anzustreben)と対比しつつ、自分の知的レベルに見合った職業を持てず、劣悪な住宅環境の中で、妻との軋轢に消耗してゆく中国知識人の姿を赤裸々に語ったが、日本人は中国の学者の置かれている厳しい現実を知らされる思いがした。その他にもこのSektionでは、中国側はドイツ文学を常に中国文学や中国の現状に引きつけて考察する発表が多かった。

 

 ここでは残念ながら紹介することができないが、Plenarやその他のSektionにおける日本人側の発表もそれぞれレベルの高い、大変興味深いものであった。また、中国側の発表は、私どもの印象では質的にはかなりばらつきがあったように思われたが、彼らのドイツ語の能力の高さはいずれも目を瞠るものがあった。"Über den Übergang vom Stabreimvers zur Endreim-Dichtung"〔頭韻詩から脚韻詩への移行〕というすぐれた発表を行なった南京大学の劉海寧(Liu Haining)氏という若いゲルマニストは完璧なドイツ語を話したが、ドイツでは数カ月語学講習を受けただけだ、ということを聞いて、日本人側はもう一度びっくりした。

 

 道案内やガイドなどの雑用をして、今回のシンポジウムを支えてくれた縁の下の力持ちは、日本でいえば大学院修士課程に相当する北京外国語学院のAspirant[in](〔院生〕という東独の用語を用いている)の諸君であるが、彼らは一度もドイツに行ったことがないのに、実に自然な、立派なドイツ語を話したことには感心した。これは中国におけるドイツ語教育が、1クラス十数名の少人数教育で、しかも中国人の教官でも授業の90%はドイツ語で行なうという徹底ぶりによって生み出されている成果なのであろう。日本人側からは、ドイツ語に上達するには、ドイツに留学するよりも中国に留学したほうが早い、という冗談とも本気ともつかない感想がもらされた。しかし、こうしたすぐれた能力をもつ若い中国人が、天安門事件以来の政治的締めつけの強化によって、海外留学の道を閉ざされていることはまことにかわいそうなことであった。

 

 今回のシンポジウムは【昨年の】韓国での学会とは違って、かなり長い期日が取られたので、研究発表以外にも京劇の鑑賞や中国サーカスの見物など盛り沢山のプログラムが組まれた。25日には北京から車で1時間ほど行ったところにある万里の長城を観光した(ただし、バスが故障し、山道をしばらく歩く羽目になった)。バスの中で【私の隣にガイド役で座った】ある中国人【Aspirantin】が、"Wissen Sie, warum die Chinesen die Große Mauer gebaut haben?"〔中国人がなぜ万里の長城を建設したか知っていますか〕と尋ねたので、Ja natürlich, um das Land der Mitte gegen die barbarischen Nordvölker zu schützen"〔もちろん知っていますよ。中華の国を北方の匈奴から守るためですね〕と答えると、"Nein, um China zu isolieren"〔違いますよ、中国を孤立させるためです〕という答が返ってきた(【現在の政治体制を風刺する】Witz!)〔ジョーク〕。訊いてみると、彼女をはじめ今回奉仕して下さっている大部分のAspirant[in]は昨年6月天安門広場に行っていたそうだ。それを語る彼女の顔は悲しげで、私は心が重くなった。

 

 久々の晴天、しかも日曜日ということもあって、長城はいかにも観光地という【華やいだ】雰囲気があふれていた。外国人の姿は少なかったが、服装や持ち物から台湾や香港あたりから来たと思われる中国人が目立った。その日は長城から明の十三陵を回って、北京に戻った。【また翌26日夜には京劇を見たが、観客は大部分年配の中国人で、こうした伝統芸能は若い人にはあまり人気がないように思われた。Aspirantの一人は"Einfach zu langweilig"(ともかく退屈)といって眠り込んでしまったが、その気持ちは私にもわかる。】

 

 27日は日本人参加者は3グループに分かれ、北京外国語学院、北京大学、北京外国語師範学校で、それぞれの大学におけるドイツ語授業の実際を見学させてもらうことになった。【私は北京大学に行く組に入ったが、】北京大学ではまずそのキャンパスの広壮さ、中国風の建物の美しさに圧倒された。【北京外国語学院は日本にも普通にあるようなキャンパスであるが、それと北京大学の相違は、新田春夫氏が述べたように、まさに駒場と本郷以上の差であった。美しい】迎賓館で北京大学副学長から受けた説明によれば、このキャンパスはもと清朝の宰相の邸宅を大学にしたものであるとのことであった。張玉書教授は、雨が降って道が悪いから、日本の客人が教室に行くより、学生をこちらに来させよう、ということで、北大(Beida)のドイツ語授業の様子は参観することはできず、迎賓館で学生たちとの雑談ということになった。我々の相手になってくれたのは北大の三年生であったが、日本の大学の独文専攻の三年生とは比較にならないくらい上手で、自然なドイツ語を話した。張教授は、学生諸君は今日は日本の教授に試験してもらわなければなりません、とおっしゃったが、日本人側が中国人学生に試験されているようなものであった。学生は、中国に来てKulturschock〔カルチャーショック〕を感じたか、と質問したが、中国人のドイツ語が最大のKulturschockであった。

 

 その日の午後、北京到着以来初めて町の中心部に出て、天安門広場から故宮博物館を見学した。【民主化運動一周年にはまだ少し時日があるということで、】3月下旬の霧雨に煙る天安門広場はまだ一般観光客にも開放されていた。広場中央の大理石の人民英雄記念碑には弾丸の跡や、階段のところには戦車によってつけられたのであろう、かなり大きな破損箇所がそのまま残っていた。明の十三陵の地下大宮殿を見学したときも感じたのであるが、とてつもない規模の紫禁城を見ても、中国の歴代の権力者たちが日本の天皇や将軍などとは比較にならないほどの強烈な世俗的欲望と権力欲の持ち主であったことを思わされた。この国にあっては、共産主義者であってもこの中国伝統の権力の病から逃れられないのであろうか。

 

 その夜は祝彦氏の招待によって、北京の有名なレストランで、北京ダックをご馳走になった。シンポジウム中は朝食はホテル、昼食と夕食はたいてい大学の留学生食堂で食べたが、大学食堂という名称からは想像もできないような美味な中華料理を毎回堪能させてもらっていた。しかし、その夜の北京ダックはさすがに格別であった。その味は"Ente gut, alles gut"〔ダックよければ、すべてよし。「Ende gut, alles gut (終わりよければ、すべてよし)」の諺のもじり〕という見事な洒落で結ばれた祝氏のスピーチとともに、いつまでも記憶に残ることであろう。ご馳走ということであれば、さらにシンポジウム最終日の28日夜にはWang Fuxiang北京外国語学院学長によって、北海公園内にある倣膳飯荘という豪華なレストランで、清朝の宮廷料理に招待された。その典雅な料理は、岩崎IVG会長の答礼のスピーチと同じくらい高い気品があり、味わい深かった。

 

 こうして、互いに数々の刺激を受け、人間的交流を結んで、日中共同シンポジウムは成功裡に終わった。29日に半分ほどの日本人はさらに古都西安へ観光旅行に旅立ち、残りは日本へ帰国した。この学会をきっかけに両国ゲルマニストの交流は、8月のIVG東京大会やそれ以降も継続されることになろう。今回のシンポジウムには、天安門事件を理由に参加を取り消された方も多かったが、それはそれでもっともな態度決定であったと思う。しかし参加者としては、こうした学問的交流は中国のゲルマニストを精神的に支援したことになったと確信している。

 

 終わりにあたり、木村会長と三島渉外理事、そして様々の困難にもかかわらずそのGastfreundlichkeit〔親切なもてなし〕によって見事なシンポジウムを運営してくれた中国人学者とAspirant[in]の皆さん、特に倦むことのない善意で日本人を世話して下さったGeschäftsführer〔事務局長〕の黄国禎氏に心から感謝申し上げたい。

 

※なお、この報告の一部(「中国人がなぜ万里の長城を建設したか」に関する政治的ジョークの部分)が、花園莞爾氏著『石原莞爾独走す』(新潮社)411頁に紹介されています。

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