ザッハー=マゾッホの未知の顔

中澤英雄

 ザッハー=マゾッホ――この名前を聞いて人々が最初に思い浮かべるのは、サディズムやサディストという語と対で用いられることが多い、マゾヒズムやマゾヒストという言葉であろう。異性から精神的、肉体的に虐待されることに快楽を感ずる性的倒錯を指すこの用語は、ドイツの精神医学者リヒャルト・フォン・クラフト=エービングによって造語された。彼は『性的精神病質』(一八八六年)、さらにその続刊である『性的精神病質の領域における新研究』(一八九〇年)という著作の中で、サディズム、マゾヒズム、同性愛、快楽殺人などの性的倒錯の類型を分類したが、彼の用語は今日でも用いられている。

 サディズムという語がフランスの作家サド侯爵に由来するように、マゾヒズムという語はオーストリアの作家レオポルト・ザッハー=マゾッホ(一八三六九五年)に由来する。クラフト=エービングが被虐的な性的倒錯を名づけるのに、ザッハー=マゾッホの名前を用いたのは、この作家の小説にたびたび登場する人物タイプ、および作家自身の性生活の中に、彼が見出した異常性行動の典型が現われていると考えたからであった。こうしたマゾヒスト的人物は、ザッハー=マゾッホの代表作と見なされている『毛皮を着たヴィーナス』の中に、ゼヴェリーンという主人公として登場する。彼は、美しいが残酷な婦人に鞭打たれ、さらに精神的にも虐待されることによって、かえって恍惚感を味わう人物として描かれているが、この人物像にはザッハー=マゾッホ自身の自伝的要素も組み込まれていた。したがって、こうした被虐的な性的倒錯は、まぎれもなく彼自身の性癖の一部であった。

 クラフト=エービングは、他の人々にも見られると彼が考えるこうした性的異常性を、ザッハー=マゾッホの名前を用いて一般化した。この命名によって、作家と性的倒錯との結びつきは不可分のものとして確立した。かくして、マゾヒズムあるいはマゾヒストが存在するかぎり、それとともにザッハー=マゾッホの名前もこの地上に永遠に残ることになったのだが、そのことがはたしてこの作家にとって幸せであったかというと、そうではない。それはまず第一に、自分の名前が性的倒錯の代名詞として用いられることは、ザッハー=マゾッホのような一面においてきわめて道徳主義的な傾向の強い作家にとっては、なんといっても恥辱と感じられたからである。しかも、サド侯爵がすでに遠い過去の人物であったのに対し、ザッハー=マゾッホはまだ生存中の作家であった。ザッハー=マゾッホは当然、クラフト=エービングの不当な仕打ちに強く抗議した。しかし、作家自身にこうした性癖があった以上、自分の名前が性的倒錯の名称に使われたのは、ある意味では「身から出た錆」と言えるかもしれない。これが第一の不幸だとすると、第二のより重大な不幸は、本来きわめて多産で、しかも多面的な作家であったザッハー=マゾッホが、この命名によって、マゾヒズムというきわめて狭い分野の作家に限定されてしまったことである。すなわち、この命名の不幸とは、彼の文学の一面、しかも、晩年においては脱却してしまった一面にすぎないマゾヒズムが、彼のすべてと見られるようになってしまったことである。

 この作家には少なくとも三つの顔がある。その第一は言うまでもなく、マゾヒズムという語と結びつく性的倒錯の作家で、今日の大部分の読者にとって、ザッハー=マゾッホといえばこの顔しか意味しない。その第二は、彼の生まれ故郷であるガリツィアを舞台にした歴史小説家ならびにフォークロア作家の顔である。そしてその第三は、ユダヤ的世界の描写者であり、熱烈な親ユダヤ主義者の顔である。今日までザッハー=マゾッホとして知られてきたものは、ほとんど第一の顔であり、それに付随して、彼がガリツィアの歴史小説家・フォークロア作家であることも、部分的には知られていた。たとえば、桃源社版の四巻本の「ザッヘル=マゾッホ選集」の第一巻『毛皮を着たヴィーナス』と第二巻『残酷な女たち他』は第一の顔であり、第三巻『ガリチア物語』と第四巻『密使』は第二の顔である。しかし、第三のユダヤ世界の作家としてのザッハー=マゾッホは、これまでほとんど――少なくとも日本では――知られていなかった。ここに訳出した『ユダヤ人の生活』は第三の、知られざるザッハー=マゾッホの代表作の一つなのである。

 ザッハー=マゾッホとユダヤ――これは、ザッハー=マゾッホといえばマゾヒズムのことしか考えない多くの人々にとって、意外な組み合わせかもしれない。しかし、これは彼の生い立ちから生じた、きわめて自然な結びつきなのであった。ここではまずこの結びつきの背景を簡単に紹介しておこう。

 レオポルト・リッター・フォン・ザッハー=マゾッホは一八三六年一月二七日、オーストリア帝国の直轄領ガリツィアの首都レンベルクで生まれた。ガリツィア地方とは、今日の国境線で言えば、ポーランドの南東部からウクライナの西部にかけての地域である。その西側の都市はクラクフ(現ポーランド)であり、その中心部にある都市がレンベルクであるが、この町は現在はウクライナ領に属し、リヴォフと呼ばれている。

 ガリツィアは元来、小ロシア人(ウクライナ人)のキエフ公国が支配する地域であった。しかし、十三世紀に蒙古が侵入し、小ロシア人の支配が崩れ、その後、大ロシア人とポーランド人がこの地を争奪しあったが、十四世紀以来ポーランド領になり、ポーランド人の貴族が土着のルテニア人(ガリツィアに住むウクライナ人に対するドイツ人の呼称)の農奴を支配する体制が続いた。ガリツィアは古来から色々な民族が侵入した土地であったため、多数を占めるルテニア人とポーランド人以外にも、コサック人、ジプシー、アルメニア人、ユダヤ人など種々雑多な民族が混住する地域となった。十八世紀後半に行なわれた三回にわたるポーランド分割によって、ガリツィアはハプスブルク家のオーストリア帝国が支配する直轄領になった。それ以後、この地域には多数のドイツ人の官僚や商人が乗り込み、支配階級を形成した。第一次世界大戦でオーストリアが敗北し、ハプスブルク帝国が解体されるまでオーストリア領であったが、一九一九年以降、ガリツィアの大部分は、多数のウクライナ人が住む東ガリツィアも含めて、ポーランド領に組み込まれた。しかし、この国境線に不満であったソ連は、一九三九年、東ガリツィア(西ウクライナ)を自国に併合した。第二次世界大戦後も、ソ連とポーランドの間ではこの国境線(カーゾン線)が承認され、それはソ連邦解体後の今日でも、ポーランドと新生ウクライナ国との国境になっている。

 さて、作家の父方の祖父ヨーハン・ネポムク・ザッハーは、第三次ポーランド分割(一七九五年)に際して、ボヘミアからこのガリツィアの土地にやってきたオーストリア人官僚の一人であった。彼はヴィエリチカの製塩所所長として実績を上げた功績により、一八三一年にリッター(騎士)という貴族の称号を授けられた。その息子で、作家の父となるレオポルト・ザッハーは、一八二七年、ガリツィアの小ロシア人の貴族で、レンベルク大学学長もつとめたことのあるフランツ・フォン・マゾッホ医学博士の娘シャルロッテと結婚した。レオポルト・ザッハーはその後レンベルクの警察署長として活躍し、とくにオーストリア帝国に反逆をたくらむ亡国のポーランド人貴族の取り締まりにあたった。

 ザッハー夫妻には長らく子供が生まれなかったが、ようやく一八三六年に長男レオポルトが生まれ、その後さらに四人の子宝に恵まれた。祖父マゾッホ博士は一人息子を失っていたので、家名を残すために、ザッハー家にさらにマゾッホ家の名をつけ加えることを希望していた。一八三八年、皇帝によってこの希望が認められ、ザッハー家はザッハー=マゾッホ家と改姓し、それによって、未来の作家はレオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホと名のる運命になる。この作家とともに、マゾッホの家名が、マゾヒズムという名称に使われ、永遠に残ることになったのは、はたして学者であり、温厚な医師であったマゾッホ博士の本意であっただろうか。

 作家の祖父も父もハプスブルク帝国に仕えた官僚であったが、この帝国はその内部にドイツ人、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、ルテニア人などの多様な民族をかかえこむ多民族国家であった。この時代のヨーロッパは、その実態はどうであれ、名目的には国民国家が国家形成のイデオロギーとなり、ナショナルな原理によって国家が形成されていった。そのような時代潮流の中で、ハプスブルク帝国は一種の超民族的な世界であり、そして同時に時代遅れの存在でもあった。時代の民族主義はこの帝国にも波及し、この国家は第一次世界大戦の敗北によって、各民族国家へと解体され、消滅してゆく運命にあった。もちろん、多民族国家とはいいながら、ハプスブルク帝国は決して人種の坩堝であったのではなく、それぞれの民族は古来からほぼ一定の地域に住んでおり、それが後に各民族国家へと独立してゆく基盤になった。さらにまた、各民族はすべて平等な取り扱いを受けていたわけではなく、ドイツ人とハンガリー人が優越的な地位を占めていた。しかし、同じドイツ語圏の国家でも、ドイツ民族性を国家形成の中心にすえたプロイセン・ドイツと比較すると、オーストリア帝国はその超民族的な性格で際だっていた。

 この帝国の諸民族の中で、特異な地位を占めていたのがユダヤ人であった。特異な地位というのは、ユダヤ人は他の諸民族と違って、ハプスブルク帝国の中の一定の地域にまとまることなく、帝国内のほとんどいたるところに散在していたからである。ユダヤ人はこの帝国の中で、他の民族のように、将来自分たちの国家とするべき特定の地域を持たないがゆえに、独自の言語と独自の宗教をもつ民族でありながら、民族を越えていた。それは諸民族の間に住む民族として、文字通りインターナショナルな存在であった。もしハプスブルク帝国のインターナショナルな性格を最も典型的に示している民族を一つ選ぶとすれば、それはまさにユダヤ人ということになるであろう。ハプスブルク帝国というこの超民族的な世界は、ユダヤ人にとっては最も活躍しやすい場であり、かなりのユダヤ知識人は、ドイツ人やその他の民族の明白な反ユダヤ的な傾向にもかかわらず、この帝国の心酔者となった。他方、このようなインターナショナルな世界を愛着する非ユダヤ人知識人の中には、少数とはいえ、この帝国の性格を典型的に体現するユダヤ人の擁護者となる者があったが、本書の著者ザッハー=マゾッホがまさにその一人であった。

 帝国内のその他の地域と同様、ガリツィア地方、そしてその首都のレンベルクにも、多数のユダヤ人が住んでいたが、この町のユダヤ人の歴史は古い。十四世紀にはすでにユダヤ人街が成立しており、ガリツィアで最古のユダヤ人墓地もレンベルクにあった。ポーランドの支配下にあった頃から、レンベルクはルテニア地方の主席ラビの居住地であり、ガリツィアのユダヤ教の中心地であった。オーストリアの支配期になると、ユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーンに端を発するユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)運動が流入し、啓蒙派と保守派の間で、時には死者まで出るような激しい闘いが行なわれた。啓蒙主義を受け入れ、ドイツ文化に同化した富裕なユダヤ人は、やがてユダヤ人街の外に住むことが許されるようになった。一九一〇年には、レンベルクの人口は二〇万人あまり、そのうちユダヤ人人口は五万七千人で、人口の二八%であったが、勉強熱心なユダヤ人は、そのころには、レンベルクの弁護士の七〇%、医者の六〇%を占めるまでになった。しかし、第一次世界大戦が始まると、ガリツィア地方一帯は戦場となった。一九一四年八月にはロシア軍がレンベルクを占領し、ユダヤ人を略奪したので、この町のユダヤ人は家も財産も捨て、難民として西側に逃げた。その後この町に住みついたのは、東のロシア方面から逃げてきたユダヤ人たちであった。第二次世界大戦が勃発した一九三九年には、レンベルクは約一一万人のユダヤ人人口(総人口の三三%)を数えたが、これらの人々には、映画『シンドラーのリスト』によって描かれた、クラクフのユダヤ人と同じ運命が襲って、レンベルクのユダヤ世界はほぼ完全に壊滅したのである。

 作家ザッハー=マゾッホが生まれた頃には、レンベルクのゲットーはまだ壁で囲まれていた。彼が生まれる十年ほど前に、ここでコレラが流行した。インドに発生したこの流行病は、一八二九年に最初にロシアに侵入し、ついでヨーロッパ各地に広まった。コレラがガリツィア地方でも猖獗をきわめたとき、非衛生的なゲットーに住むユダヤ人は、この疫病から逃れられなかった。このとき、ユダヤ人を救うために、勇敢にもゲットーの壁を最初に乗り越えたキリスト教徒医師が、作家の母方の祖父マゾッホ博士であった。それまで蔑視されてきたユダヤ人を同じ人間として扱い、彼らに温かな救いの手を差し伸べた博士に、ユダヤ人たちが心からの感謝と敬意を捧げたことは言うまでもない。そして当然のことながら、この尊敬の念はマゾッホ博士の親族全体にも向けられた。作家の父である警察署長がユダヤ人とも親しく交際したのは、すべての民族を法のもとで公平に扱う、よき意味でのオーストリア官僚精神とともに、義父のマゾッホ博士の感化のせいもあっただろう。祖父や父のユダヤ人に対する態度は、当然幼いレオポルト少年にも影響を与えずにはいなかった。こうして、作家ザッハー=マゾッホがユダヤ人の友となり、味方となる運命が定められたのである。

 

 レンベルクの両親の家では主としてポーランド語、ドイツ語、フランス語が話されていたが、母乳の出ない母親に代わって、レオポルトに乳を与えた乳母のハンジャがルテニア人であったので、彼はルテニア語(ウクライナ語)を母語として育った。彼は彼女から、スラブの様々な民話を聞かせてもらい、それが彼の後の文学的世界の基調を形成することになった。一八四八年、父がプラハの警察署長に栄転したのを機に、ザッハー=マゾッホ一家はボヘミア王国の首都に移住した。レオポルトはプラハに移ってからはじめて本格的にドイツ語を学ぶようになり、成人してからもドイツ語で著作するようになった。しかし、彼は自分自身をドイツ人として意識することは少なく、常にオーストリア帝国のスラブ人として意識していた。彼は生まれ故郷のガリツィアを十二歳のときに離れ、それ以後、短期間の訪問を除いて、ガリツィアに長く滞在することはなかったが、彼の魂の中には、愛する乳母の乳とともに吸い込んだガリツィアの息吹が生きていた。そしてまた、彼は多民族国家オーストリアの知識人として、プロイセンの偏狭なドイツ民族主義を嫌い、多様な民族性を愛したので、当然のことのように、この帝国の代表的民族であるユダヤ人を愛した。彼の中には、少年時代に植えつけられたユダヤ人への親愛の情が、生涯変わることなく生き続け、彼は、ガリツィアの民話的世界、農民的世界とともに、東欧のユダヤ人の世界を生き生きとした筆致で描き続けたのである。

 この解説ではザッハー=マゾッホの伝記を書く余裕はないので、その後の彼の人生や作家としての経歴の詳細については、種村季弘氏の『ザッヘル=マゾッホの世界』(筑摩書房)にゆずることとして、ここでは本書『ユダヤ人の生活』に解説の焦点を絞りたい。

 ミヒャエル・ファリーンのザッハー=マゾッホに関する書誌学的研究書(Michael Farin, Leopold von Sacher-Masoch, Bonn 1987)によれば、生前(一八九五年以前)に、ザッハー=マゾッホは四〇年間で一二〇点の単行本を刊行している。その中には、題名を変えたもの、構成を変えたもの、長い連作小説集を個々に分冊して出版したものなど、重複するものも少なくないのだが、いずれにしても驚くべき数である。そのほか、雑誌や新聞に発表した作品となると、今もってそのすべてが把握できていないようである。

 彼が得意としたガリツィアを舞台とした小説の中には、たびたびユダヤ人が登場するのであるが、ユダヤ人そのものを主人公とした、あるいはユダヤ問題を主題とした小説で最も初期のものは、連作小説集『カインの遺産第二部』(一八七四年)の中の『ハサラ・ラバ』であると思われる。今日、彼のユダヤ小説の中で一般的に最も高く評価されてのいるは、反ユダヤ主義的な偏見をもった画家が、ユダヤ人の娘との恋愛を通して、その偏見を捨ててゆく過程を描いた『ユダヤ人のラファエル』(一八八二年)である。本書『ユダヤ人の生活』(Jüdisches Leben in Wort und Bild)は、最初一八八八年にフランス語訳が出て、一八九一年にドイツ語版が出た晩年の作品である。ザッハー=マゾッホの一二〇点の本の中で、ユダヤ関係の作品は一割ほどで、比率としては決して高くはないが、これらのユダヤ小説は、その当時としては画期的な意義を持っていたのである。

 彼のユダヤ小説は一般的には「ゲットー小説」というジャンルに数えられているが、これはまた、ドイツ語圏に長らく存在してきた「田園小説」という文学ジャンルの亜種に分類されている。田園小説とは文字通り農村を舞台とした物語で、退廃した都会生活と対比して、農村や農民生活の健全さと平穏さを賛美する傾向が強い。文学社会学的には、十九世紀の田園小説は、社会の近代化によって解体されつつある伝統的な農村的共同体(ゲマインシャフト)への憧憬から生じたと見られている。他方、ゲットー小説はゲットーのユダヤ人の伝統的生活を描く小説である。ゲットーは決して農村のようなのどかな、健康的な世界ではなかったが、そこにはやはり前近代的な共同体が生きていた。ゲットー小説は、近代化の中で失われゆくユダヤ人のゲマインシャフトたるゲットーへの憧憬から生まれたと見ることができ、そこに田園小説との類似性が存在する。当然のことながら、その書き手は大部分がユダヤ人で、その代表者としては、レオポルト・コンペルト、アーロン・ベルンシュタイン、カール・フランツォースなどといった名前があげられる。

 ゲットー小説一般の性格について、『カバラーと反歴史』というショーレム論の著者でもあるデイヴィッド・ビアールは、彼のザッハー=マゾッホ論の中で次のように述べている。

「その幾人かの作家たちは、彼らが主題とする民族の風習を熟知していたにもかかわらず、これらの物語は、歴史的または人類学的な正確さでユダヤ人を描写しようと、本気で考えていたわけではなかった。ここに見出されるのはむしろ、ヘンリー・ワッサーマンが《センチメントとしてのユダヤ教》と名づけたものである。たとえば、伝統的なユダヤ人の生活のエートスの中では、ロマンチックな恋愛は、実際のところいかなる役割も演じていないのであるが、ゲットー小説は美しい《セム人》の娘と、彼らのロマンチックな問題に関する物語に耽溺している。それゆえ、ゲットー小説の読者――ユダヤ人と非ユダヤ人とを問わず――の関心を引きつけるのは、現実のユダヤ人というよりも、読者の《失われた時を求めて》という欲求を満足させる、センチメンタル化され、ロマン化された共同体なのである。しかしながら、これらの物語の親ユダヤ的な傾向は、決して誇張されたり、誤解されたりしてはならない。著者たち――彼らの大部分はユダヤ人であった――は大部分自由主義的な啓蒙主義者であって、彼らの東欧ユダヤ人への共感は、宗教的蒙昧さと経済的怠慢さに対する仮借ない批判と不可分に結びついていた。さらにその上、これらの物語はしばしば、中世的なロマンスの枠を超えて、近代と直面したゲットーの、まさに同時代的な問題を扱っている。著者たちの多くは、改宗と異民族間結婚の問題に強い関心をいだいており、いくつかのケースでは、彼らは、彼ら自身の問題と、彼らの読者層の問題を、東欧のユダヤ人に投影しているのが感じられる」(David Biale, Masochism and Philosemitism, in: Journal of Contemporary History, Vol. 17, 1982, p. 306)

 ゲットー小説の著者たちは、一方において、失われつつあるユダヤ共同体を憧憬をもって文学的に定着しようとする。他方、ユダヤ人が西欧近代に参入するためには、ユダヤ人の蒙昧な過去は否定せざるをえない。この二つのベクトルの間に生まれるのが、現実とは離れた、ロマンチックに美化されたユダヤ的世界なのである。

 ザッハー=マゾッホのユダヤ小説もこのゲットー小説の系譜に属するのであるが、その特異な点は、それが非ユダヤ人によって書かれたゲットー小説であることである。非ユダヤ人であるにもかかわらず、ユダヤ人の民俗や宗教に関する彼の知識は、彼の前の世代のハイネや、彼の後の世代のカフカなどの、西欧出身のユダヤ人作家たちを凌駕していたばかりではなく、彼と同時代の東欧出身のユダヤ人作家と比較しても遜色がなかった。そしてまた、ユダヤ人のゲットー小説家たちが、伝統と近代の間の緊張に引き裂かれて、ユダヤ的な過去を時には厳しく否定的に描いたのに対して、ザッハー=マゾッホはユダヤの風習や伝統を、むしろ好意的に、温かい愛情に満ちた筆致で描いた。そのため、とくにこの『ユダヤ人の生活』では、すべての物語がことごとくハッピーエンドで終わるという、ある意味では甘い作品になってしまっていることは否定できない。この小説集では、たとえばユダヤ人とキリスト教徒との関係は、現実よりもはるかに友好的である。この中に登場する明白な反ユダヤ主義者は、「レオパルド夫人」のコシェロスキだけである。しかも彼は最後には、ユダヤ人のレオパルド夫人に手ひどくやりこめられる。また、ロシア皇帝アレクサンデル二世の暗殺(一八八一年)がきっかけになって、ロシア各地ではユダヤ人虐殺の嵐が起こったにもかかわらず、一八八八年に出版されたこの小説集には、反ユダヤ暴動については一作(「子猫のペーテルジール」)で描かれるだけで、しかもそれもハッピーエンドで終わっている。もし、明るい軽やかなタッチで描かれたこの小説集の中に、十九世紀後半のヨーロッパのユダヤ人の現実を見るとしたならば、それは誤りである。

 ビアールはこのような点をとらえて、ザッハー=マゾッホは他のユダヤ人のゲットー小説家と同じように、ユダヤ人の生活をロマン化して描いている、と批判している(Biale, p. 310)。この批判は一見妥当するように見えるが、ザッハー=マゾッホのユダヤ小説全般を視野におさめれば、必ずしも正当なものとは言えない。なぜなら、彼は他の様々の作品の中で、ユダヤ人の置かれた厳しい現実も描き出しているからである。ユダヤ人とキリスト教徒の関係ということであれば、『ハサラ・ラバ』では、ポーランド人貴族はユダヤ人を数え上げるという嫌がらせをするだけではなく、ユダヤ人を鞭で打擲することを趣味としている。ガリツィアの寒村におけるユダヤ人の生活もまた、決して明るく牧歌的なものではない。女主人公ハイケは、コレラの厄払いのために、見ず知らずの青年バルーフと墓地で結婚させられる。ユダヤ人たちは、バルーフが戒律を犯したという理由で、彼のみならず、ハイケとその子供たちも村八分にし、彼女を犯罪に追いやる。最終的には預言者エリヤの出現によってハッピーエンドで終わるとはいえ、『ハサラ・ラバ』のユダヤ人世界は暗く因習的である。また、一八八二年に書かれた短編『老司祭』では、東欧の農村におけるユダヤ人迫害と、ユダヤ人を救う勇気ある教会の老司祭の姿が描かれている。ここには一八八一年のロシアのポグロムが明白に影を落としている。ザッハー=マゾッホは東欧のユダヤ人の悲惨な現実もはっきりと知っていたのである。

 しかし、これらの作品と比較すると、『ユダヤ人の生活』の世界は、牧歌を思わせるほど明るく楽天的である。この短編小説集では、大部分の物語は男女のロマンスを中心にして展開され、それらのすべてが見事なくらいハッピーエンドで終わっている。中には、『毛皮を着たヴィーナス』の女主人公ワンダを思わせる、攻撃的なたくましい女性や、過度に自虐的な男性のような、いわば典型的にザッハー=マゾッホ的な登場人物もいないわけではないが、そうした人物像はこの短編小説集の主流を形成してはいない。この短編小説集でザッハー=マゾッホが高く価値づけているのは、あくまでも男女の歪みない恋愛関係であり、健全な家庭生活である。「ザッハー=マゾッホ=性的倒錯」という等式を鵜呑みにしている読者には、『ユダヤ人の生活』の世界は、あまりにも健康的に、あまりにも家庭的に、あまりにも月並みに見えるであろう。ここに描かれているのは異常ではなく、日常であり、被虐ではなく、諧謔である。ただしその日常生活が、ユダヤ人の生活という、われわれ日本人にとってばかりではなく、西欧人にとっても異質でエキゾチックな世界の生活であるところに、この本の特徴がある。そして、その点に、つまりユダヤ人の生活や風習の紹介という点に、この本の意義も価値もあるように見えるのだが、その価値は今日もちろんきわめて高いものがある。なぜなら、ナチスのホロコーストによってヨーロッパのユダヤ人世界が壊滅し、ここに描かれた世界が文字通り完全に「失われた世界」になってしまったからである。この「失われた世界」を伝える証言として、本書は十分に一読に値するであろう。ただし、そうした風俗描写を越えた、現実を批判し、現実に衝撃を与えるような真の文学的な力量がこの作品集にあるとは、なかなか思えない。

 では、ザッハー=マゾッホはこの小説集で、ゲットー小説の通例として、ただ読者の異国趣味や懐古趣味におもねっただけなのであろうか。いや、この本の真の狙いは別のところにあった。なぜなら、著者は「今日再びこの民族に対する大きな迫害が進行中である」(240)ことを十分に知っており、彼はこの作品を、「イスラエルのため、その戦いと苦悩のため、その解放と高揚のための記念碑として捧げ」(248)ているからである。

 本書の真の意義を理解するためには、それが書かれた時代背景を考慮に入れなければならない。ここでは詳しく述べる余裕はないが、ザッハー=マゾッホが生きた時代は、まさにヨーロッパにおいて反ユダヤ主義が高まってきた時代であった。この小説集は、ザッハー=マゾッホが時代の反ユダヤ主義に対して上げた抗議の声である。彼はユダヤ人の生活を描写することによって、ユダヤ人が西欧人と同等な民族であり、豊かな人間性とすぐれた文化をもった人間であることを示そうとした。彼は西欧のキリスト教徒読者に対して、ユダヤ人の惨めな境涯を強調して、その結果彼らを、西欧の「文化民族」(241)とは異質な人間として描くことはできなかった。彼が擁護する人間は、近代ヨーロッパ文明の基準を満たす、すぐれた人々でなければならなかった。この作品集に登場するユダヤ人が、その様々な人間的欠点にもかかわらず、根本的にはすべて善良な人々であるのは、まさにそのためであろう。いや、ただ善良なだけではない。彼はさらに、ユダヤ人はドイツ人のような戦闘的な民族などよりもはるかにすぐれた、「秩序正しい模範的な国体、善良で理性的で人間的な戒律、純粋な宗教、崇高な祭祀、高貴な礼節、唯一正しい道徳、偉大で素晴らしい文学を持っていた民族」(241)であることを示そうとさえした。彼がここで描き出したユダヤ人は、現実のユダヤ人というよりも、かなりの程度理想化されたユダヤ人であったと言えよう。この点において、彼はゲットー小説の系譜につながると同時に、『賢者ナータン』(一七七九年)で、キリスト教徒以上に心正しく、英知あふれるユダヤ人を描き出したゴットホルト・エフライム・レッシングの後継者でもあった。そのザッハー=マゾッホが理想とするユダヤ人とは、「ユダヤ人気質の中の、善きものや理性的なものはすべて情熱をもって擁護するが、旧態依然とした先入観や慣習からは解放されて」(164)いるようなユダヤ人、ユダヤ的な伝統とヨーロッパ近代の啓蒙的理性とを両立させた人間、「和魂洋才」をもじって言えば、「猶魂洋才」の人間であった。この「猶魂洋才」を素直に信じられるザッハー=マゾッホは、親ユダヤ主義者であると同時に啓蒙主義者であった。

 親ユダヤ主義者としての彼の真骨頂は、トライチュケの反ユダヤ的な著作が大きな影響を与えていた時代に、ユダヤ人に、次のように誇り高く語らせている場面に表われている。「私たちは事実、ユダヤ人なのです。つまり、リヒテンシュタイン家やアウエルスペルク家などよりも古い先祖の子孫なのです。そして、その先祖から私たちは二つの特徴を受け継ぎましたが、それは遅くに文明化した民族の息子であるフォン・トライチュケ氏は、多分持ち合わせていないものなのです。その二つとは、流血への臆病さと、慈善に満ちたユダヤ人の心なのです」(210)。彼は差別と蔑視の対象とされていたユダヤ人という言葉を、高貴な人間性へと価値転換する。彼にとってはユダヤ民族とは、「精神の気高さを誕生の気高さと一つに結びあわせ」た「新しい貴族階級」(237)であり、文字通りの「神の選民」なのであった。だが、こうしたユダヤ人観は、ザッハー=マゾッホが生きた時代のオーストリアやドイツでは、まさに人々の心を逆なでする、途方もない反時代的な主張であった。

 そもそもザッハー=マゾッホは、多民族国家オーストリアの知識人である自分を、プロイセンのドイツ民族主義に対する敵対者として明確に意識していた。一八六六年にベルリンで彼の喜劇『フリードリヒ大王の詩句』が上演されたとき、そのあまりに反プロイセン的な内容のために、この公演は一大スキャンダルになったほどであった。彼はまた、政治的には自由主義の立場に立ち、この面からもプロイセン・ドイツの民族主義と軍国主義に敵対した。だが、このようなザッハー=マゾッホが、ドイツでは「反ドイツ的」、「ドイツに対する冒涜者」として嫌悪されたことは当然であった。彼はむしろドイツの敵国フランスで高く評価された。

 この『ユダヤ人の生活』が最初にフランスで出版され、そのあとでドイツ語版が出たのも、そうした事情を反映している。この本の豊富な挿し絵は、主としてフランスのユダヤ人画家によって描かれたが、これだけの絵を用意するには、かなりの資金が必要だったと思われる。ザッハー=マゾッホのためにそれをしてくれたのも、フランスの出版社だからこそであった。だが、彼がフランスで高く評価されればされるほど、彼はドイツ民族主義に対する裏切り者と見なされた。ユダヤ人解放がフランスから始まっただけに、ドイツ人のフランス嫌いと反ユダヤ主義は密接に結びついていた。そして、ユダヤ人と彼らのフランス好きもまた。ドイツ民族主義への敵対者であり、ユダヤ人である例のハイネも、パリを拠点としていたではないか。フランスでもてはやされるザッハー=マゾッホは、いわば第二のハイネと見られたふしがある。彼はしばしば、ユダヤ人の血が混じっている、と非難攻撃された。これに対して彼は、「もし私自身がユダヤ人であったならば、私はどうして自分の作品の中で、これほど公然とユダヤ人に味方し、愛情細やかにユダヤ人を描くことができただろう」(Sacher-Masoch, Jüdisches Leben, Dortmund 1987, S. 357)と反論するのを常とした。

 ザッハー=マゾッホ自身の語るところでは、ザッハー家の祖先は十六世紀にスペインからボヘミアにやってきた騎士である。彼の家は代々カトリックであり、もしユダヤ人であれば、保守的なオーストリア帝国によって、彼の祖父が貴族の称号を与えられるはずはないではないか、と彼は言っている。だが、スペインには十五世紀末までユダヤ人の共同体が繁栄し、スペイン王家にさえユダヤ人の血が流れていたのだから、スペインからやってきた祖先がユダヤ系であったという可能性は皆無ではない。しかし、こうした血筋の調査は、あまり意味あるものとは思われない。たとえザッハー=マゾッホの中にユダヤ人の血がかすかに流れていたとしても、彼自身は自分をあくまでも非ユダヤ人の親ユダヤ主義者として意識していた。自分を非ユダヤ人と意識していたからこそ、彼のユダヤ人の描写は、ハイネやカフカなどのユダヤ人作家に時おり見られる「ユダヤ人の自己憎悪」からまぬがれた、屈折のない肯定的な色調に満ちているのであるし、彼のユダヤ人擁護は常に非利己的なトーンに貫かれているのである。

 だが、彼のフランスでの人気、彼の親ユダヤ主義、反ドイツ的な思想のために、彼はドイツの民族主義者、反ユダヤ主義者たちからは、退廃した文学者のレッテルを貼られた。「アーリア的=健康的、ユダヤ的=病的」という等式がまかり通っていた時代に、親ユダヤを表明することは、それだけですでに世間の常識に挑む、反社会的ないかがわしい行為であった。そのいかがわしさをさらに決定的に印象づけたのが、彼の書いた「マゾヒズム的」な小説であった。『毛皮を着たヴィーナス』のような作品は、なんといっても中産市民階級の倫理観を挑発した。こうして、親ユダヤ主義といういかがわしさと性的ないかがわしさは一つのものにされ、いかがわしい作家ザッハー=マゾッホというレッテルは完成する。ミヒャエル・ファリーンは彼の研究書の中でこう述べている。

「生存中は、性的倒錯の元祖、節度なき濫作家、ユダヤ人とフランス人の味方として誹謗され、烙印を押されながら、彼は実際のところ、文学的世論を自分の味方に引きつけることを一度として心得なかった。しかし、彼を憎まれ者にしたのは、どちらかというとたしかに錯乱的な性や、いつも同じ屈従の儀式への偏執的なこだわりばかりではなかった。彼を悪意ある攻撃の十字砲火にさらした原因はさらに、プロイセン・ドイツにおけるオーストリア人としての彼の立場、批判に対する彼の傲慢な態度、一八七〇/七一年以降のフランスで、ドイツの作家として成功したことなどであった」(Farin, S. 18)

 ファリーンが言うように、ドイツ人がいかがわしい倒錯作家ザッハー=マゾッホに眉をひそめたとき、彼らはその実、反ドイツ主義者、親フランス主義者、親ユダヤ主義者であるザッハー=マゾッホを非難していたのではなかったか。クラフト=エービングが被虐的性的倒錯に「マゾヒズム」という用語を発明したのは、すでにザッハー=マゾッホがいかがわしい作家として見られていたからであろうが、あるいはこの用語は、親ユダヤ主義者ザッハー=マゾッホをいかがわしいポルノ作家として、社会的に抹殺するための手段でさえあったのかもしれない。このドイツ人精神医学者が、攻撃的性的倒錯にはフランス人の名前を用い、被虐的性的倒錯にはオーストリアの親ユダヤ主義者の名前を用い、そのどちらにも生粋のドイツ人の名前を用いなかったのはなぜであろうか? 彼がどの程度の反ユダヤ主義者であったかということは、残念ながらまだ調べがついていない。しかし、ユダヤ人の側では、ザッハー=マゾッホという親ユダヤ主義者の名前が性的倒錯の代名詞にされたことに、反ユダヤ主義的な気配を感じていたことはたしかであったように思われる。後に『ユダヤ人の自己憎悪』という著作を書くことになるユダヤ人哲学者テーオドール・レッシングは、ザッハー=マゾッホを擁護する論文の中で次のように主張している。

「クラフト=エービングがありとあらゆる形態の苦痛への快楽、鞭打ち、受動性に、《マゾヒズム》という名称の烙印を押したことは、とてつもない不正だと私は思う。彼はそんなことをするいかなる倫理的な権利も持っていないし、とりわけ、いかなる事実的な権利も持っていない! このような名称は放棄すべきであろう。このような名称によって、まず第一には、この詩人に関するきわめて一面的で、それゆえ間違ったイメージが生まれるからである。連作小説集『カインの遺産』のきわめて重要な作品、彼の歴史学的著作、彼がユダヤ人のためや、ユダヤ人に関して書いた著作、彼の後期の社会小説、彼の愛嬌があり上品な喜劇を読んでみるがいい。そこには、どれほどの造形力がみなぎり、どれほどの真摯で直接的なファンタジーが横溢し、何と多くの魅力的な細部描写と繊細な美しさがあふれ、何と強固な倫理的、社会的、人間的核心が存在しているであろうか。例のエロチックな要素はわずかな分量、しかも、この浩瀚な文学の中のごくごくわずかな分量でしかないのだ」(Theodor Lessing, "Meine Lebensbeichte". Eine Ehrenrettung)

 レッシングの文章の中には、「マゾヒズム」という用語が一人歩きし、それがザッハー=マゾッホの文学全体、彼の人間性全体を貶めることに対する怒りが表われている。

 だが、クラフト=エービングが作った「マゾヒズム」という用語は見事に成功した。この名称によって、レッシングが危惧したように、「この詩人に関するきわめて一面的なイメージ」が確固として定着した。このイメージは今日まで生き続け、その陰に隠れて、ザッハー=マゾッホが親ユダヤ主義者であったことの文脈や衝撃はすっかり忘却されてしまった。ましてや、ユダヤ問題と直接関係のない日本においてはそうならざるをえなかったのである。この『ユダヤ人の生活』は、これまで知られることの少なかったザッハー=マゾッホの一面を伝える佳作であると言えよう。彼の死後百周年を来年にひかえて、本訳書が日本の読者に彼の未知の顔を伝えることができたら幸いである。

*   *   *

 この訳書の底本として用いたのは、Harenberg社の

 Leopold von Sacher-Masoch, Jüdisches Leben, Dortmund 1987

であるが、Fourier社からも同じ内容の本が出ている。これらはいずれも一八九二年にBensheimer社から出た版のファクシミリ版である。Harenberg社版には、ファリーンによる資料集が付録として付加されている。

 本訳書は原著の全訳ではない。原著にはさらに、出版社側による序文と十編の物語が含まれている。原著全体の翻訳原稿はすでに完成していたのであるが、出版社側の事情によりこれらの部分を割愛せざるをえなかったのは、訳者としてはまことに残念である。ここに印刷できた諸篇に劣らず興味深いこれらの作品群も、いずれなんらかの形で紹介できる機会があることを望んでいる。さらにこの解説も、最初の分量のほぼ半分に圧縮し、数々の重要な論点を省略せざるをえなかった。

 本訳書は原著とは作品の配列順が若干異なる。原著では「イスラエル民族について」は出版社の序文の直後に置かれているが、訳書では最後にまわした。原著では冒頭近くにある「見捨てられたカバラー学者」はユダヤ教関係の訳注が多くなり、やや読みづらいところがあるので、少しうしろにまわした。各短編作品の題名も、原題では不適切なものは適当な題名に改めた。また、残念ながら、原著の美しい挿し絵のすべてを採用することもできなかった。

 翻訳にあたっては、東京大学大学院総合文化研究科大学院生の久保山亮君と櫻井健君に下訳を手伝ってもらった箇所があるが、それには中澤が全面的に手を入れた。聖書の章句の訳文は基本的には新共同訳を用いた。訳文からも想像できるように、ザッハー=マゾッホのドイツ語自体は平易なのであるが、翻訳はかなり困難であった。それはただユダヤ関係の専門用語が頻出するから、というだけの理由によるのではない。訳注にいちいち断わり書きはしなかったが、ザッハー=マゾッホのヘブライ語、イディッシュ語のアルファベットへの転写がまことにいい加減で、そのままのスペルではどんな辞書にも事典にも載っていないのである。したがって、まず類似の音の語を多数想定し、それらの中から、前後の文脈からその意味に妥当する語を求めるという作業を強いられた。訳注にあたっては数多くの書物や辞書、事典類のお世話になったが、とくに助けられた書物三点をあげておく。

 Jüdisches Lexikon. Ein enzyklopädisches Handbuch des jüdischen Wissens in vier Bänden, Frankfurt am Main 1982 (Nachdr. d. 1. Aufl., Berlin 1927)

 Jüdisches Fest, jüdischer Brauch (hrsg. von Friedrich Thieberger), Königstein/Ts. 1979 (Nachdr. d. 1. Aufl., 1937)

 吉見崇一『ユダヤ人の祭り』(エルサレム宗教文化研究所、一九八六年)

 この作品に関しては、西成彦氏の「レオポルド・フォン・ザヒェル=マゾッホ《ユダヤ・コント集》――抄訳および解題――(熊本大学文学会「文学論叢」一九号、一九八五年)という論文がある。これはフランス語版からの二つの短編の翻訳を含む簡単な紹介である。翻訳に際しては参考にさせていただいた。

 ドイツ語に関する訳者の質問に対して懇切に答えてくれた東京大学教養学部の同僚 Peter Giacomuzzi氏には、この場を借りて感謝の意を表したい。そしてまた、本書を訳出する機会を与えてくれた柏書房の山口泰生氏にも深く感謝したい。この稀覯本に着目する氏の慧眼がなければ、この書は日本語になることはできなかったであろう。

 

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