ユダヤの非合理的な伝承

――カフカの『万里の長城』における「指導部」の問題――

                                                     中澤英雄

 カフカの『万里の長城が築かれたとき』という未完の作品は、古代の中国社会を統一している三つの「社会的装置」――長城建設、謎めいた指導部、そして皇帝への信仰――に関する語り手の考察という形で構成されている。ヨースト・シレマイトやリッチー・ロバートソンは、この作品は一見中国を舞台にしておりながら、その実ユーデントゥームの歴史と現実に取り組むアレゴリー的な作品であることを指摘している。拙稿「カフカの『万里の長城』における民族、国家、宗教」は、彼らのテーゼを出発点としながら、この作品に特にマルティン・ブーバーのユダヤ教解釈とのカフカの対決を見出し、「万里の長城」がユダヤ人国家に、そして作品の中である学者が長城建設をそれと対比している「バベルの塔」が、ブーバーのユダヤ教解釈に対応する、と主張したのであった(1)。前稿はこれら三つの「社会的装置」のうち長城建設についてのみ論じたのであったが、私は本稿では、中国人に長城建設を指揮・命令する不可視の「指導部」について、ユーデントゥームとの関連から考察してみようと思う。

『町の建設』――『万里の長城』の兄弟作品

 さて、『万里の長城』に論を進める前に、この作品と密接に関係しているように思われるもう一つの作品を取り上げることにしよう。この作品は『万里の長城』に、そして特にその謎めいた「指導部」に解明の光を投げかけてくれることになる。この作品は、カフカが一九二〇年の秋にいわゆる「書類束A」に書きとめた短篇作品の一つである。カフカ研究者によってもほとんど顧みられることのないこの作品の全文を以下に引用する。

二、三の人たちが私のところにやってきて、彼らのための町を建設してほしいと頼んだ。私は、彼らは少なすぎるし、一軒の家でも十分の広さがあるので、彼らのための町を建設する気はない、と言った。しかし、彼らは、ほかの者たちがあとから来ることになっているし、その中には夫婦者もいて、子供が生まれることになるだろう、それに町は一度に建設する必要はなく、まずは輪郭だけをきめて、徐々に建設していけばよいのだ、と言った。私が、それではどこにその町を建設してほしいのか、と尋ねると、彼らは、すぐにその場所を見せよう、と言った。私たちは川沿いに歩いてゆき、やがて、かなり高く、川に向かっては急な崖になってはいるが、それ以外の方向にはなだらかに傾斜している、非常に広い丘陵地についた。彼らは、そこの高台に町を建設してほしいのだ、と言った。そこには草がまばらにはえているだけで、樹木はなかった。その点は気に入ったのだが、川への傾斜がきつすぎるように私には思われたので、彼らにそのことで注意を喚起した。彼らはしかし、次のように言った。それは障害にはならない。町は別の斜面の方へ広がってゆくであろうし、河川へは別の通路をつくることも十分できるだろう。それに時がたてば、急な斜面をなんらかの形で克服する手段も見つかるかもしれない。いずれにせよ、それはこの場所に町を建設する障害になるはずはない。それに自分たちは若くて、強健なのだから、崖を軽々と登ることもできる、それをすぐにお見せしよう。こう言って彼らは実際にそれを行なった。まるでトカゲのように、彼らの体は岩の裂け目を素早く登ってゆき、彼らはたちまち上についた。私も登っていって、なぜよりによってこの場所に町を建設してもらいたいのか、と彼らに尋ねた。その場所は防衛のためには格別適しているとは思えなかったからである。地勢によって守られているのはただ川に面した方向だけであるが、まさに川は防御がいちばん不必要なのである。こちらはむしろ、船が自由に、簡単に出港できる可能性があった方が望ましい。しかし、この高台はほかのすべての方角からは容易に接近することができ、この理由で、さらにまたその大きな広がりのために、防衛が困難であった。それに高台の土壌の地力もまだ調査されていなかった。食料を低地に頼り、輸送手段に依存することは、町にとっては常に危険であるし、不穏な時代にあってはなおさらのことであった。また高台で十分な飲料水が見つかるかどうかも、まだ確認されてはいなかった。私が見せられた小さな泉は、頼りないように思われた。

 「君は疲れているんだ」と彼らの一人が言った。「だから町を建設する意欲がないんだ。」「確かに疲れている」と私は言って、泉のそばの石に腰をおろした。彼らはタオルを水に浸して、それで私の顔をきれいにふいてくれた。私は彼らに感謝を述べた。それから私は、一度ひとりでこの高台を見回ってみたい、と言って、彼らのもとを離れた。その道は長かった。私が戻ってきたときには、もう暗くなっていた。みんな泉のまわりに横になって、眠っていた。小雨が降った。

  翌朝、私は同じ質問を繰り返した。彼らは、私がどうして昨晩の質問を朝にも繰り返せるのか、すぐには理解できなかった。しかし彼らは、この場所を選んだ理由を正確に述べることはできない、ただこの場所にすることを勧める古い伝承があるのだ、と言った。すでに先祖たちもここに町を建設しようとしたのだが、なんらかの、これもまた正確には伝承されていない理由から、それを開始するにいたらなかった。だから、彼らがこの土地にやってきたのは、いずれにせよ気まぐれなどからではない。その反対に、彼らはこの場所をそれほど気に入っているわけでさえない。私があげた反対理由は、彼ら自身もとっくにわかっていたし、反駁不可能なものだと認識もしていた。しかし、例の伝承が厳然と存在しているのだし、この伝承に従わない者は滅ぼされることになる。だから、私がなぜ躊躇し、もう昨日のうちに建設を開始しなかったのか、自分たちには理解できないことだ、と彼らは言った。

 私は立ち去る決心をして、川へ向かって崖を降りていった。だが、彼らのひとりは目をさましていて、ほかの連中を起こし、彼らは崖の縁に立った。私はまだようやく崖の中程にいたが、彼らは叫んで、私に戻るように頼んだ。私が戻ると、彼らは私に手を貸して、私を上へ引っ張りあげた。今度は私は、町を建設する、と彼らに約束した。彼らはとても感謝して、私に謝辞を述べ、私に接吻した。(H 304-306<3:227- 229>)(2)

 この短かなスケッチはカフカによって題名は与えられていないが、議論の簡便さのために『町の建設』という題で呼ぶことにする。『町の建設』と『万里の長城』との関係についてはあとで詳しく述べることとして、ここではまず、この短篇が記されている「書類束A」について若干の補足的な説明をしておく。「書類束A」というのは、カフカが一九二〇年九月一五日から記入を開始したばらの用紙である。この用紙は縦 28.8-29.0cm x 22.8cm というから、ほぼA4判の大きさであるが、そこにさらに 0.9cm x 0.4cm の大きさの水色の格子が入っている。この「書類束A」と並んで、同じ用紙に書かれている「書類束B」と「書類束C」も存在する。今日では一応三つの部分に分けられてはいるが、これら三つの書類束はほぼ同じ時期に記入されたものと推定されている。のちにマックス・ブロートは、これらの書類束に記されている多数の記述の中から、芸術的に見て完成の域に達していると判断した作品を、それに適当な題名を与えて『ある戦いの記録』の巻に収録した。たとえば、『ポセイドン』とか『町の紋章』などといった短篇作品がそれである。しかし、ブロートによって不十分であると判断されたその他の記入は、すべて『田舎の婚礼準備』の巻の「断片」の部にまとめて放り込まれることになった。今日『田舎の婚礼準備』の巻に載せられている『町の建設』は、「書類束A」では『ポセイドン』の直後、そして『町の紋章』の数頁前に書かれている(3)

 一九二〇年秋に成立した『町の建設』とは違って、『万里の長城』は一九一七年三月にいわゆる第六の八折判ノートに書かれている。しかしながら、三年以上もの間隔をおいて成立したこの二つの作品の間には、以下でも見るように、偶然とは言えないようなモティーフ上の類似性があり、両者の間には成立史的な関連がある可能性すら排除できない。本稿では詳細に論ずる余裕はないが、「書類束A」は部分的にはカフカが八折判ノートを読み直した結果として、あるいはさらに八折判ノートを書き直した結果として成立した、と私は考えている(4)。ここではただ、「書類束A」の H 324-327<3:241- 243> には、『万里の長城』との直接的な関連を思わせる、中国を舞台にした作品断片がいくつか書かれていることがその状況証拠になっていることを指摘するだけにとどめておこう。今日では『ある戦いの記録』の巻に完成した作品として収録されている『拒絶』、『掟の問題』、『徴兵』も『万里の長城』との類似性を想わせる作品であるが、これらも「書類束A」の同じ位置に書かれている。

 以下では二つの作品のモティーフ上の類似点を列挙してみよう。

 まず第一に、両方の作品において「建設」の問題が主題的に描かれているが、これについては今さらあえて詳論する必要もないであろう。

 第二の共通点は、両作品における建築の方法にある。『万里の長城』では建設には首尾一貫したプランがなく、長城はきわめて断片的、いわばつぎはぎ仕事的に建設される。このような建築方法を語り手は「分割工事」と呼ぶのであるが、彼の見解によれば、この工法こそ建設事業の「核心の問題」(B 71<2:58>)なのであった。これに対して『町の建設』でも、町の建設には首尾一貫した見取り図はなく、この町は一種の分割工事によって建設される。なぜなら、若者たちは語り手に、「町は一度に建設する必要はなく、まずは輪郭だけをきめて、徐々に建設していけばよいのだ」と語っているからである。

 第三の共通点は「防御(Schutz)、防衛(Verteidigung)」のモティーフである。『万里の長城』では長城は「北方民族に対する防御(Schutz)(B 67<2:55>)のために建設される。また、第六の八折判ノートで七行(ブロート版全集では)の断片をはさんで『万里の長城』のあとに書かれており、内容的にも『万里の長城』と関連している『一枚の古文書』という作品(5)は、「われわれの祖国の防衛(Verteidigung)に関しては、多くの手抜かりがあったように思われる」(E 155<1:102>)という文章で始まっている。『町の建設』においても、この町は何か の理由から防衛されなければならないものであるらしい。テクストには「その場所は防衛(Verteidigung)のためには格別適しているとは思えなかったからである。地勢によって守られている(geschützt)のはただ川に面した方向だけであるが、まさに川は防御(Schutz)がいちばん不必要なのである。こちらはむしろ、船が自由に、簡単に出港できる可能性があった方が望ましい。しかし、この高台はほかのすべての方角からは容易に接近することができ、この理由で、さらにまたその大きな広がりのために、防衛(verteidigen)が困難であった」と書かれている。

 さらに第四に両作品に共通なのは、語り手の建設事業に対する懐疑的な態度である。『万里の長城』の語り手は、長城がなぜこのような分割工事で建設されるのか理解できない。彼は、「こんな壁では防御できないばかりではなく、建設自体が絶え間ない危険にさらされている」と判断せざるをえない(B 68<2:55>)。彼にとっては長城建設は、大部分の中国人にとってそうであるような自明な事業ではなく、一つの謎であり、この謎を解くために彼は「比較民族史」(B 76<2:62>)という「歴史的研究」(B 74<2:60>)へと駆り立てられるのである。これに対して、『町の建設』においても語り手は、依頼者たちがよりによって町の建設には不向きなこの場所に、なぜ町を建設しようとしているのかが理解できない。彼が彼らにそのことを尋ねると、彼らもまたこの場所を選んだ理由を正確に述べることができない。彼らはただ、「この場所にすることを勧める古い伝承があるのだ」と答えるだけである。彼らの回答は、彼らが合理的な理由によって行動しているのではなく、論理的には説明のつかない「先祖たち」の古い「伝承」に従っていることを示している。

 そしてこの「伝承」というモティーフによって、『町の建設』は再び『万里の長城』と結びつくことになる。というのは、この中国を舞台にした作品でも、中国人は「いかなる現在の掟にも従わず、ただ古い時代からわれわれに伝えられた教えや訓戒のみに聴従する生活」(B 82<2:66>)を送っているからである。「古い時代からわれわれに伝えられた教えや訓戒」とは、伝承あるいは伝統と言い換えることができるだろう。

 このように、ひとつの作品は古代中国で演ぜられ、もう一方の作品はどことも知れぬ荒涼たる高台をその舞台としており、また前者では長城の建設が、後者では町の建設が問題となっている、という相違があるとはいえ、かくも多くの共通点を示す二つの作品は、いわば兄弟に相当する作品と呼ぶことができるかもしれない。もちろん、分量においても生まれた年代においても、『万里の長城』のほうが兄であることはたしかであるが。

 さて、われわれはすでにシレマイトやロバートソンの研究によって、『万里の長城』がユーデントゥームの歴史と現状に取り組むアレゴリー的な作品であるということを知っている。そうであるならば、『万里の長城』の兄弟作品である『町の建設』も同じ問題を扱っている作品ではないか、と考えるのはごく自然な推測ということになるだろう。そして、たとえわれわれがこの短かな作品を、『万里の長城』との関連を考えることなく、それだけで独立した作品として読んだとしても、カフカという一人のユダヤ人作家の書いたこの短篇が、ある特定のトポスと結びついている、という印象を抑えることは難しい――すなわち、その場所はパレスチナという土地である。荒涼とした危険に満ちた土地における町の建設は、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設にきわめて似ている。作品中の「ほかの者たちがあとから来ることになっているし、その中には夫婦者もいて、 子供が生まれることになるだろう」という若者たちの説明は、ユダヤ人のパレスチナへの入植を想起させる。そして、この土地が「先祖」たちからの「伝承」によって定められていることも、パレスチナに関するユダヤ人の太古からの伝承以外のものとは考えられない。実際、ブロートは『田舎の婚礼準備』の巻におけるこの断片作品への注解で、このスケッチにははっきりと「イスラエルにおけるシオニストの建設作業に対する一つの見方が現われている」(H 452<3:334>)と述べている。これほどあからさまなほのめかしに満ちた作品を、ほかの意味に解釈することはまずできないであろう。

 作品中に描かれている場所がパレスチナであるとするならば、語り手に町の建設を依頼する若者たちは、カフカの友人のシオニストたち、たとえばブロートやフーゴー・ベルクマンらを指しているものと見ることができる。事実、これらの友人はカフカにシオニズムに参加するように絶えず呼びかけていたのであった。作品中の依頼者たちが、疲れている語り手とは対照的に、みな若く、活力に満ちているのも偶然ではない。なぜなら、第一次世界大戦前後のシオニズムは主として学生と若い知識人から成り立っていたからである。ベルクマンはシオニズムの月刊雑誌『ユダヤ人』の第一号(一九一六年四月)に発表した「戦後のユダヤ・ナショナリズム」という論文で、反省を込めてこう書いている。

シオニズムは学生運動であったし、大部分のところ、今日に至るまでそうであり続けた。生活面での利害を持たず、日々の仕事を持たない学生、鳥のように自由に、陽気な客人として生のあらゆる杯から飲むことができる過渡期段階にある人間、そういう人間だけが日常の仕事の生活とまったく無縁である運動に完全に没頭することができるのである(6)

 そして、この若者たちが少数であることも、現実のシオニズムに対応している。パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとする運動は、当初、非ユダヤ人にとってのみならず、西欧世界の大多数の同化したユダヤ人にとってさえ、非現実的な夢物語と思われていた。彼らはシオニズムへの参加を拒否したばかりではなく、それをせっかく成功しかかっているユダヤ人の西欧社会への同化を危うくする危険な運動とすら見なした。ウォルター・ラカーによれば、一九一七年のバルフォア宣言以前は、シオニズムとは「青年理想主義者たちの幾分風変わりな運動」(7)にすぎなかった。

シオニズムにおける「歴史」と「伝承」

 すでに前稿でも指摘した通り、カフカとシオニズムとの関係を考える上では、彼のユダヤ民族ホームへの接近、そして、彼のホームへの態度を詳説している一九一六年九月のフェリス・バウアー宛の手紙が重要な手がかりとなるのであるが、この手紙はまた同時に『万里の長城』を読み解く一つの鍵にもなったのであった。この時期のフェリス宛の手紙には、シオニズム運動の若さ、そしてそのユダヤの伝承との結びつきという『町の建設』に登場する主題が論ぜられている。彼は九月一二日のフェリス宛の手紙の中で、次のように述べている。

〔・・・・〕彼ら〔=ホームのヘルパー〕は問題を理解すれば、彼らのなしうるすべてをできるでしょうし、そして彼らがすべてを魂の全力をもって行なうということ、それはまた大したことであり、それだけが大したことなのです。それとシオニズムとの関係は〔・・・・〕ただホームでの仕事がシオニズムから若々しく力強い方法を、一般的に若い力を得ていること、他の努力では挫折するかもしれない場合であっても、民族的な努力が活力を与えること、そして古い巨大な時代が、もっともそれなくしてはシオニズムが生きられないような制限をつけてではありますが、引き合いに出されること、この三つのことだけです。(F 697<11:654>)

 ここでカフカはユダヤ民族ホームとシオニズム一般との関係を三点に分けて整理している。その第一点は「ホームでの仕事がシオニズムから若々しく力強い方法を、一般的に若い力を得ていること」である。その頃のシオニズムがユダヤ人の若者たちによる青年運動であったことはすでに上で述べた。ここでカフカが特に念頭に置いているシオニズムとは、ブーバーの影響のもとにある文化的シオニズムである。ユダヤ民族ホーム自体がブーバーの信奉者であるジークフリート・レーマンによって設立された施設であった。その当時、ブーバーはまだ三八才、カフカと同級生のベルクマンは三三才、カフカの一才年下のブロートは三二才であった。ホームに集い、東ヨーロッパからのユダヤ人難民の子供たちの世話をするヘルパーたちもみな青年であった。カフカはホームに集うこの若い力に、一種の憧れに満ちた注目を寄せるのである。

 第二点は「他の努力では挫折するかもしれない場合であっても、民族的な努力が活力を与えること」である。シオニズムはもちろんユダヤ人の民族主義運動である。ただし、ホームの理念となっていたブーバーの文化的シオニズムは、ただ単なるユダヤ・ナショナリズムの発揚を目指したものではなかった。「民族的信条だけがユダヤ人を変えるのではない。彼はそれを持っていても、それを持たない場合とまったく同様に精神が貧弱であるかもしれない、まったく同様に不安定というわけではおそらくないにしても」(8)とブーバーは言う。ブーバーによれば、西欧のユダヤ人はパレスチナという故郷の大地との結びつきを失って、アトム化した個人となり、ディアスポラの中で民族としてのアイデンティティを見失い、その創造性と活力を喪失してしまった。この西ユダヤ人の病は、精神的、宗教的な基盤なしには、単なるナショナリズムだけでは癒されない。そこで、ブーバーの主要な関心は、パレスチナにおけるユダヤ人国家の創設をめざす政治的運動というよりも、ヨーロッパにおけるユダヤ人の「宗教性」の革新ということになったのである。彼にとってパレスチナは政治的目標というよりも、むしろ「宗教性」によって血を通わされたユダヤ人の共同体のロマン主義的なシンボルになる。ユダヤ人の民族的・宗教的再生の手段としてブーバーは、東欧の民衆宗教であるハシディズムを再発見し、それを西欧近代の知性と結びつけようとした。だが、このブーバー的「宗教性」の立場は、ゲルショム・ショーレムのような生粋のユダヤ主義者の目から見れば、歴史的ユダヤ教とは無縁の単なる「美的な陶酔」にすぎない、と批判されても仕方のない要素も含んでいたのであった (9) カフカもまたショーレムと同じく、ユダヤ民族ホームとその背後にあるブーバーの「宗教性」の立場に含まれていた曖昧さ、すなわち一面においてはユダヤ人の民族主義運動でありながら、他面においてはいわば疑似宗教運動でもあるという二重性に気づいていた。彼はホームのそのような曖昧な性格のうち、その真の活力の源泉になっているのは民族主義的な情熱のほうである、と判断するのである。

 次にカフカがあげる「古い巨大な時代が、もっともそれなくしてはシオニズムが生きられないような制限をつけてではありますが、引き合いに出されること」という第三点は、シオニズムと歴史の関係にかかわっているが、この論点はシオニズム運動の命運を決する核心をついている。以下においてこの問題にやや詳しく触れてみたい。

 シオニズムとはそもそもいかなる運動なのであろうか。それはユダヤ人が民族国家を持とうとする運動であるから、もちろん民族主義の一種には違いない。しかしそれは、被植民地民族が宗主国から独立しようとしたり、多民族国家の中の少数民族が自分たちの独立国家を創ろうとしたり、あるいはその内部での民族的自治権を獲得しようとする運動とはどこかが違っている。一般的にすべての民族主義運動は、民族の歴史的伝統の強調や、過去からその土地に生き続けてきたという、領土所有への歴史的権利などといった「歴史」の問題ともちろん不可分であるが、それと同時に、その地域にはなんらかの意味で、何かからの解放や独立を願う民族が現に存在する、あるいはその民族を民族的自立に駆り立てるなんらかの圧力や矛盾が作用している、という「現在」がまずもって存在しなければならないだろう。この「歴史」と「現在」とが結びついたとき、その民族主義はある種の正統性を獲得し、民族独立に向けてのエネルギーが充電されると言えるだろう。一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけての西欧および東欧のユダヤ人にも、全ヨーロッパ的な反ユダヤ主義の風潮あるいはポグロムという形で、この「現在」はもちろん存在した。しかし、シオニズムはユダヤ人の民族的自立なり解放を、彼らが今おかれているヨーロッパ諸国の中で達成しようとはせず、その当時ユダヤ人がほとんど住んでいなかったパレスチナの土地、しかも無人の真空地帯ではなく、アラブ人が長年にわたって、それこそ根をおろして生活していたパレスチナの土地において実現しようとした。このため、シオニズムにおいてはユダヤ人の「歴史」と「現在」とが分裂し、他の民族主義運動が「歴史」と「現在」との結合の中からその正統性をくみ出すのに対し、パレスチナの土地を要求するとき、シオニズムはただ「歴史」にしか依拠できなくなる。これが他の民族主義運動にはないシオニズムの特異な問題点であった。

 シオニズムという言葉は、テーオドール・ヘルツルがはじめてつくったものではない。それはヘルツルが登場する以前のユダヤ・ナショナリズム運動の最も傑出した人物であった、ウィーンの作家ナータン・ビルンバウムによって初めて造語された。ビルンバウムはこの言葉をこう定義している。

シオニズムという語はシオンという語に由来する。シオンとはエルサレムにある丘の名前であるが、すでに太古の時代からエルサレムのことを指す詩的な名称であり、さらにまた、この都市がユダヤ人の国の焦点であると見なされていたので、さらに広くユダヤ人の国自体の詩的な名称であり、そしてまた、ユダヤ民族がパレスチナの大地に根ざし、パレスチナの大地と一体に結びついていたかぎりにおいて、ユダヤ民族のことを指す詩的な名称でもあった。ローマの軍団がこの一体性を解体したとき、「シオン」という語は憧憬のニュアンスを帯びるようになった。この語の中には民族的再生への希望が体現されたのであった。〔・・・・〕シオンは、二千年にわたってユダヤ民族の生と苦悩の道の途上において同伴した、ユダヤ民族の理想になった。この理想がシオニズムの基盤であるが、無意識的な情動から思索的な意識が、苦悩に満ちた憧憬から活動的な意志が、不毛な理想から救済的な理念が生まれたときはじめて、シオニズムはこの理想の上に築かれることになったのである(10)

 シオニズムとはその名称が示すように、ユダヤ人がシオンすなわちパレスチナの土地に回帰しようとする運動である。パレスチナという、一九世紀の終わりから二〇世紀の初めにかけてはユダヤ人がごくわずかの少数派の地位しか占めていない土地を、ユダヤ人の土地として要求するシオニズムは、そこが「太古の時代から」ユダヤ人の土地であったという歴史、あるいはもっと正確に言えば、その土地はユダヤ人の太古の歴史と不可分に結びついているがゆえにユダヤ人はそこに帰らねばならない、というユダヤ人の「憧憬」に基づいている。この点においてシオニズムは、まさにカフカが言うように、「太古の時代」を「引き合いに出し」、ユダヤ人の歴史によってみずからを正当化していることになるのである。

 それでは、このユダヤ人の歴史あるいは憧憬を保証する証人は何か。それは二千年前までユダヤ人がそこに住んでいたという事実である。だが、その事実を具体的に証明するものは何か。もちろん、「嘆きの壁」と呼ばれるエルサレムの破壊された神殿の廃虚や、ディアスポラ以後もパレスチナに存在し続けたユダヤ教の学院(イェシヴァ)もユダヤ人とその土地との結びつきを証言するが、とりわけ聖書と呼ばれるユダヤ人の歴史書がその最大の拠り所となる。パレスチナはユダヤ人の土地である、とユダヤ人が要求できるとしたら、その根拠はユダヤ人がその土地の先住民族であるからでもなく(ユダヤ人はその土地の先住民族を武力で征服した)、ユダヤ人がその土地に長く住み続けてきたからでもなく(その土地には現にアラブ人が長く住み続けている)、聖書の記録に存在することになるだろう。

 しかしながら、この書物は単なる歴史書ではなく、同時にユダヤ人の神がその民と交わした約束を記し、そして神がユダヤ民族に対して行なった数々の奇蹟を伝える宗教書でもある。一口で言えば、それは単なる歴史的事実のみならず、事実と言えるかどうかわからない神話時代からの民族の伝承をも書き記した書物である。そして、ユダヤ民族にとっては、この伝承を信じ続けることと、自らが存続することとは一つであった。そもそもなぜユダヤ人がユダヤ人国家が滅亡してから二千年もの長きにわたってシオンに憧れ続けてきたかといえば、その土地をユダヤ人の土地にすると約束した、聖書に書かれた神の言葉=「伝承」をユダヤ人が信じ続け、その聖書を民族の生活の中核、ハイネが述べたように「携帯用の祖国」(11)として保持し続けてきたからにほかならない。もし、「伝承」を信じ続け、保持し続ける強固な宗教的信念がなければ、迫害に続く迫害の歴史であった二千年もの離散生活の間に、ユダヤ人はとうに消滅していたに違いない。ヤーコプ・クラツキンも主張するように、ユダヤ教こそユダヤ人を周囲世界への同化的消滅から守った防護壁なのであった(12)。そして、最も正統的な信仰を持つユダヤ人は、シオンは神がユダヤ人に与えた土地であるがゆえに、その土地はユダヤ人のものである、と主張するに違いない。信仰という現世的、相対的な領域を越えた立場に立つユダヤ人にとっては、シオンへの要求を正当化するに際して、もはや「歴史」も「現在」も必要ではない。聖書に記された神の言葉=「伝承」があれば十分なのである。

 しかし、シオニズムは自らを決して宗教的民族運動とはしなかった。シオニズムは自らを信仰によって根拠づけない、あるいはむしろ、信仰によって根拠づけることをあえて避けようとした、とさえ言える。これには二つの理由があったと考えられる。その第一は、一九世紀の後半というすでに自然科学万能の時代風潮の中で、今さら神の約束などという古くさい根拠を持ち出すことができなかったことである。特に当時のユダヤ知識人にとっては、ユダヤ教はユダヤ人の生き生きとした精神的発展を阻害してきた因習的な戒律であり、拘束的な制度でしかなかった。ブーバーは、

ユダヤ民族の力を抑えたものは、外部からの圧力だけとは限らなかった。すなわち、恐怖と苦悩、逆境と生活苦だけでもなかったし、またユダヤ民族が寄生する国の「宿主民族」の圧制だけでもなかった。それらに加えて、内側からの「戒律」の圧迫、つまり、誤って理解され、煩瑣にされ、しかも歪められた宗教的伝統の圧迫であり、またさらに、硬直した、生気のない、非現実的な義務の呪縛であった(13)

と述べている。また、東欧のハシディズム的環境に生まれ育ったアイザック・ドイッチャーは、

われわれはタルムードを学び、ハシディズムの神秘主義の教えをいやというほどうけている。そうしたものをいかに理想化してみても、それはわれわれにとって眼をくもらせるごみでしかなかった。われわれはそうしたユダヤ的な過去の中で育った。十一世紀、十三世紀、十六世紀のユダヤ人の過去はすぐ隣り、いや、わが家の中にすらそのまま生命を保っていた。われわれはそれからのがれて二十世紀に生きたいと思ったのである(14)

と語っている。シオニズムに参加した大部分のユダヤ知識人にとっては、ユダヤ教は克服すべき蒙昧な過去でしかなかった。ユダヤ教の戒律や儀式をユダヤ的アイデンティティの源泉として高く評価したクラツキンは、その当時にあっては例外であった。

 ビルンバウムがシオニズムを定義づけるにあたって、 「太古の時代」からの歴史に根ざしたユダヤ人の「憧憬」を言い立てながら、この「太古の時代」がユダヤ民族が神とともに生きていた神話時代であり、この「憧憬」が元来、聖書とユダヤ教という「伝承」なしには存在しえないものであることに言及しないのは、彼がシオニズム的情熱の宗教的起源を隠蔽し、シオニズムを宗教とは無縁の近代的な民族主義として位置づけようと意図するからにほかならない。シオニズムの事実上の創始者となったヘルツルは、シオニズムの世俗化を徹底する方向に進んだと言えるだろう。彼はこの運動をできるだけ非宗教的な政治運動にしようと欲した。彼の構想する「ユダヤ人国家」はまず第一に、ユダヤ人の民族的独立国家でありさえすればよいのであって、彼の想い描く「古くて新しい国」はドイツやフランスと同じような西欧的な世俗国家であり、そこではユダヤ教という宗教は重要な役割を演じてはならないのであった。彼はまた彼のパンフレット『ユダヤ人国家』の中で、ユダヤ人国家はパレスチナに創るべきか、それともアルゼンチンに創るべきか、という問題提起をしている(15)。彼にとってはもちろん父祖の土地であるパレスチナがユダヤ人国家の最終的目標であるが、反ユダヤ主義の高まりの中では、一時避難的に別の土地にユダヤ人国家を創ることもやむをえないことなのであった。ロシアでポグロムの波が荒れ狂ったとき、彼はパレスチナではなく、アフリカのウガンダにユダヤ人国家のための土地を求めようとしたことさえある。しかし、これはシオニズムの理想への裏切りだとして、東欧のシオニストによって激しく非難されたのであった(一九〇三年第六回シオニスト会議)。

 シオニズムが自らを非宗教的な運動とした第二の、そしてより本質的な理由は、ユダヤ教の持つメシアニズムにある。ユダヤ教は、ユダヤ民族の救済、すなわちイスラエルの再建は、世の終わりにメシアによってのみ成就される、と信じている。ユダヤ民族の救済はただ神のみ手にあるのであって、「メシアの時の到来のためには、ユダヤ人はただ神への信仰的な奉仕、律法の履行、生活態度の敬虔な変化によってのみ貢献できる。終末を、確実にして良き終末を《強要する》こと、人間的手段によって、定められているよりもそれを早く呼び寄せようとすることは、《神を試みる》ことである」(16)とユダヤ教は教える。そして、ユダヤ民族の数々の反乱が暴力的に鎮圧されたあとでは、「メシア信仰はすべての自然的な援助に対する諦めに満ちた断念と、神の奇蹟による救済への神秘的な希望に変化した」のであった(17)

 これに対して、シオニズムはメシアという超自然的な力の歴史への介入に頼らず、人間の力によってユダヤ人国家を創ろうとする運動である。正統的なユダヤ教信仰から見れば、シオニズムはまさに禁じられた「神を試みる」業にも等しい。このため、当初シオニズムとユダヤ教とは一種の敵対関係にあった。ヘルツルの『ユダヤ人国家』が出版されたとき、正統派のラビたちはヘルツルを、ユダヤ人の歴史に度々登場した偽メシアの一人だと非難した。ラカーも述べているように、「ヘルツルと親交のあったウィーンの主席ラビ・ギューデマンは、小冊子の中でヘルツルの思想を激しく攻撃し、《ユダヤ民族主義の悪魔》に反対して、ユダヤ人はひとつの民族ではなく、神への信仰を共有しているだけであり、シオニズムはユダヤ教の教えとは相入れない、と主張」したのである(18)

 すべての民族主義運動は「歴史」と「現在」をその根拠とするのだが、パレスチナへの要求においては「現在」を持たないシオニズムは、自らの根拠として「太古の時代」を「引き合いに出す」しかない。その際シオニズムは、この「太古の時代」への「憧憬」を生みなしている基本的な力であるユダヤ教の宗教的観念=メシアニズムを否定しなければ自己が存立できない。そこでシオニズムは信仰と結びついた「伝承」を非宗教的に解釈して、単なる民族の「歴史」とせざるをえない。しかし、シオニズムが考えるように、パレスチナの土地を要求するに際して、歴史と神、歴史と宗教は本当に分離しうるものなのであろうか。信仰なくして、先祖が二千年前もの大昔に離れた土地を故郷と呼べるだろうか。大部分の西欧のユダヤ人にとっては、彼らが現在住み、生きている国が故郷であったからこそ、彼らはヨーロッパ世界への同化を望んだのではなかったか。だが、そのヨーロッパが彼らを受け入れないので、シオニストは同化を断念し、彼らの歴史的な故郷に戻ろうとするのである。

 しかし、信仰を捨象した、自分たちの先祖が二千年前までそこに住んでいたという単なる「歴史」は、その土地を再びユダヤ人の祖国とするべきだという「現在」の要求を、どの程度正当化できるだろうか。ポグロムに苦しめられていた東欧のユダヤ人はなるほど国外への移住を強く望んでいたが、ヒトラーが登場する以前の西欧、中欧の大部分のユダヤ系市民にとっては、パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとするシオニズムの理念は、決して自明のプロジェクトではなかった。それはただ単に現実離れした「風変わりな運動」であったばかりではなく、ユダヤ人は国家内の別民族である、という反ユダヤ主義の主張に論拠を与えることによって、ユダヤ人の同化を妨げる危険な運動でさえあった。そして、たとえユダヤ人の中の少数派であるシオニストが、「歴史」は「現在」を正当化できると考えたとしても、パレスチナに住むアラブ人は決してそうは考えなかったことはたしかである。「歴史」によって自らを正当化しようとしたシオニズムは、実のところ世俗的な衣装をまとった宗教運動、超越的なメシアの力を頼まず、人間の力をメシアとする偽メシア運動だったのではないか。

 シオニズムがユダヤ教と手を切ったということは、ブーバーの場合には完全には当てはまらないであろう。彼はパレスチナの故郷と結びついたシオニズムの「宗教性」を再び強調するからである。ブーバーの文化的シオニズムは、シオニズムの世俗化に抵抗する宗教的方向への揺り戻しと見ることができる。しかし、彼の「宗教性」は決して伝統的ユダヤ教のそのままの復活ではない。彼はユダヤ教、特にハシディズムを実存主義的に解釈し直すが、ショーレムによれば、それは歴史的ハシディズムとは無縁の「まったくの近代的理念」にすぎないのである(19)。そして、本来ならばシオニズムを否定するはずのメシアニズムに対する彼の関係について言えば、あとでも見るように、彼はそれを超越的な力の歴史への介入という信仰の次元から、人間的な努力による理想的な人類の形成という人間中心主義的な次元に移し変えている。彼のユダヤ教解釈もまたやはり近代ヨーロッパの世俗化の流れの中に位置しているのである。

 ここでカフカの手紙に戻るならば、シオニズムは「古い巨大な時代」を、「もっともそれなくしてはシオニズムが生きられないような制限」をつけてではあるが、「引き合いに出」している、と彼が言うとき、彼はシオニズムにとって死活的な問題である歴史と宗教の絡まりあい、すなわち「伝承」の問題を鋭く見抜いている。カフカはビルンバウムのようにシオニズムが単に「太古の時代(den ältesten Zeiten)」ではなく、「古い巨大な時代(die alten ungeheuern Zeiten)」を引き合いに出している、と言う(20)。この「古い巨大な時代」はカフカにあってはまさにユダヤ民族が神とともに生きていた旧約聖書の時代なのである。彼は一九二一年一月一三日のブロート宛の手紙の中で、両者の女性関係における不幸を互いに比較しているのだが、それをさらに「古い偉大な時代」とも対比する。

君と僕のケースを――いや僕のケースは斟酌して比較しないほうがいい――古い偉大な時代(den alten großen Zeiten)と比較してみるがいい。その当時の唯一の現実的な不幸は女たちの不妊だった。しかし、彼女たちがたとえ不妊のときでも、強制的に妊娠させられたのであった。(Br 291<9:325>)

 ここでカフカが言及しているのは、たとえばユダヤ人の始祖アブラハムの妻サラが、老年に至るまで不妊であったのに、神の力によって息子イサクを「強制的に妊娠させられた」というエピソードである。カフカが言う「古い偉大な時代」は、現代とは違って、ユダヤ人が神と現実に交わっていた旧約聖書の時代である。彼の見解によれば、聖書時代のユダヤ人の歴史は神話と一つにとけあっており、まさにそこにカフカが生きる現代とは違ったその時代の「偉大」さがあるのである。

 ビルンバウムの「太古の時代」が神を捨象した「歴史」を指すとしたら、カフカの「古い巨大な(偉大な)時代」は、神話時代からの「伝承」に対応する、と言えるだろう。カフカによれば、シオニズムは自らの根拠としてユダヤ人の歴史を引き合いに出すのであるが、その歴史は本来、神話と一つになっている「古い巨大な時代」であるがゆえに、それは結局のところ、宗教的な自己正当化と紙一重である。しかし、完全に宗教的立場に立てば、シオンは世の終わりにメシアによってのみ再建されうることになり、シオニズムの存立基盤が崩れ去る。したがって、シオニズムは「古い巨大な時代」を「引き合いに出」しはするが、ユダヤ人の「伝承」をまったく非宗教的に理解する、すなわち神とは無縁の「歴史」にするという「制限」をつけざるをえない。そのような「制限」なくしては「シオニズムは生きられない」からである。

伝承と指導部

 フェリスへの手紙で論じられた「古い巨大な時代」というユダヤ人の伝承の問題は、本稿の主題であるカフカの二つの兄弟作品にもそのまま現われてくる。 『町の建設』においては、若者たち、すなわちシオニストたちにこの場所に町を建設するように命じている「伝承」は、作品中では一種非合理的なものとして描かれている。町の建設に消極的な語り手のみならず、彼に建設を依頼した若者たちも、この場所が町の建設には不適切であることは十分にわかっている。それにもかかわらず、彼らはこの非合理的な伝承に従うのであるが、それはその伝承が強い権威を持っているからである。「この伝承に従わない者は滅ぼされることになる」という若者たちの説明は、この伝承の神的な性格を端的に示している。この伝承とは「古い巨大な時代」から伝えられたユダヤの伝承、パレスチナの土地にユダヤ人国家を建設することをユダヤ人に約束もしくは命令する、旧約聖書以来の神的な伝承にほかならないであろう。

 すでに見たように、この「伝承」というモティーフは『万里の長城』にも出現する。しかし、この作品においては語り手は、長城建設は伝承によって定められたものだ、とは明言していない。しかしながら、彼の見解によれば、皇帝が長城建設の指令を出したのでもなければ、北方の蛮族が建設の原因であったのでもない。長城建設を決定したのはむしろ「指導部(Führerschaft)」であり、そして合理的には説明できない「分割工事」という建築方法を定めたのも、やはりこの指導部なのであった。この指導部はおそらく大昔から存在しており、「長城建設の議決」もそれと同じくらい古くから存在していたのだろう、と語り手は言う(B 76<2:61>)。この指導部がいかなる存在であるか、語り手は以下のように描写している。

指導部の部屋――それがどこにあり、そこにどんな人がすわっているのか、私が尋ねても、誰も知っていなかったし、今も知っている人はいないのだが――この部屋ではおそらく、人間のあらゆる想念と願望が渦を巻き、また人間のあらゆる目標と成就が逆の渦を巻いていたのであろう。(B 73<2:59>)

 この指導部は不可視の存在である。人々はそれがどこにあるかは知らないが、それが存在するということは知っている。なぜなら、「長城建設の議決」と指導部の「指令」は読むことができるからである。長城建設に関しては皇帝よりも権力があり、大昔から存在していながら、不可視であるというこの謎めいた指導部はいったいいかなる存在であるのか。この指導部は政府や党や宗教団体といった人間組織につきものの指導部、少数の特権的人間からなる指導部ではなさそうである。ここで、『万里の長城』と『町の建設』という兄弟作品を比較してみれば、『万里の長城』における指導部は、『町の建設』における「伝承」とほぼ同じ役割を演じていることがわかる。すなわち、この両者とも、太古の昔から存在している、人々を建築事業に駆り立てる非合理的な力なのである。

 ただし、『万里の長城』の「指導部」を『町の建設』の「伝承」と完全に同一視することはできないであろう。なぜなら、伝承というものが一般的には文書あるいは口承として定着されたものを指すとするならば、それは決して不可視ではないからである。そのような可視的な伝承に対応するものは、『万里の長城』ではむしろ指導部の「指令」のほうであろう。それに対して、指導部はそのような伝承を産出する根源の力、民族の生と思念の総体を指すと理解すべきであろう。そうすると、先に引用したテクストにおける「それがどこにあり、そこにどんな人がすわっているのか、私が尋ねても、誰も知っていなかったし、今も知っている人はいない」という文章は、この指導部がいわば民衆が接近不可能な共産党の中央委員会やKGBのような秘密組織、どれほど隠されていても、やはり生身を備えた人間からなる秘密組織なのではなくて、この指導部が文字通り「想念」的な存在性格を持ち、それゆえに不可視なのである、という意味に解釈できる。カフカは「この部屋ではおそらく人間のあらゆる想念と願望が渦を巻き、また人間のあらゆる目標と成就が逆の渦を巻いていたのであろう」と書いているが、「この部屋」にはおそらく人間は一人も存在せず、ただ「人間のあらゆる想念と願望」と「人間のあらゆる目標と成就」しか存在しないのだ、と考えることができる。すなわち、この指導部とは「人間のあらゆる想念と願望」と「人間のあらゆる目標と成就」の集合体なのであり、まさにこのような想念的エネルギーの総体が伝承もしくは伝統を形成する根源の力なのである(21)。民族の太古からの想念の集積それ自体は不可視であるが、その「指令」は文書として、口伝として、すなわち伝承として可読的あるいは可視的になる。私は、カフカはこの箇所において、伝承の起源と本質を実に適切に描いていると思う。なぜなら、伝承を形成する民族の集合的意識(あるいは無意識と言うべきであろうか)をそれ自体としては誰も見ることはできないし、またそれがどのようにして存在し始めたのか、決して合理的には説明できないが、過去から現在まで続くそうした想念の集積は、今日の社会の中でも生きて働いており、現実に人々を「指導する(führen)」力を――時としては望ましくない方向にすら指導する力を――持っているからである。

 もしこのように「指導部」を民族の集合的(無)意識のアレゴリー的形象、そして指導部の「指令」をそうした集合的(無)意識から生み出された伝承のアレゴリー的形象と解釈することが許されれば、カフカの記述からはユダヤ的伝承に関する数多くの興味深い考察を読み取ることができる。語り手は中国人、すなわちユダヤ人と指導部の関係について、次のように述べる。

われわれは――私はここではおそらく多数の人々の意見を代弁しているのだが――実はまず最高指導部の指令を一語一語あとからなぞること(Nachbuchstabieren)によってはじめて、われわれ自身を知り、そして、指導部がなければ、われわれの学校的知識も、われわれの常識も、われわれが大きな全体の中で持っている小さな職務をはたすのには不十分である、ということを見出したのであった。(B 73<2: 59>)

 もし指導部の指令がユダヤの伝承のアレゴリーであるとするならば、「最高指導部の指令を一語一語あとからなぞること」とは、ユダヤ人の歴史の中で常に中心的な役割を演じてきた聖なる文書の解読という行為、すなわち聖書の解釈、トーラー(律法)の朗読、そしてタルムードとして結集されたラビたちの教えや規定や伝承の研究、といった営為を指すに違いない。語り手はここで、「われわれ」すなわちユダヤ人は、「われわれ自身」を、ユダヤ人のユダヤ人であることを、つまりユダヤ的アイデンティティを、ユダヤ的伝承との彼らの結びつきを知ることによってはじめて認識できるのであるし、また個人とユダヤ精神との結びつきを知ることによって長城建設、すなわちユダヤ人国家の建設という「大きな全体」的事業の中における各人の職務も正しくはたせることになるのだ、と語っていることになる。ただし、これは語り手自身の見解というよりも、彼が「多数の人々の意見を代弁して」やっているだけなのではあるが。

 このユダヤの伝承はただ単に民族の歴史や風習を伝えるだけではなく、とりわけ宗教的、信仰的な性格を持っている。伝承の宗教的内容に対しては、おそらく取りうる二つの極端な態度が存在するだろう。一方の態度はすべての聖書的伝承を神的、神に与えられたものと見なす。この態度は敬虔なるユダヤ教徒の立場と呼ぶことができる。絶対的信仰の立場に立つユダヤ教徒は、シオンが神によってユダヤ民族に与えられた土地であるがゆえに、シオンは本来ユダヤ人のものであり、ユダヤ人国家の建設は神の意志である、と考えるだろう。これに対して、もう一方の態度は伝承というものはすべて民族の生活の中から歴史的に成立した人間的な構成物なのであって、とくに神的な起源を持つものではない、と考える。この態度は啓蒙主義者の立場と呼ぶことができよう。『万里の長城』の語り手はどちらの立場に立っているだろうか。彼がすべてのユダヤ的伝承を神的と見なす敬虔なユダヤ教徒でないことは明白である。なぜなら、もしそうであれば、彼は長城建設に関して、すでに前稿でも見たような批判的な「歴史的研究」を、決して行なうはずはないからである。彼は指導部が「人間のすべての想念と願望」の総体にすぎないこと、したがってそれが発する「指令」が人間的な起源のものであることをよく知っている。この点において、彼はたしかに啓蒙化された知識人である。しかしかといって、彼はニーチェのように、宗教の起源をイデオロギーとして徹底的に暴き出す醒めた啓蒙主義者でもない。というのは彼は次のように書くからである。

しかしながら、窓からは神的な諸世界の残照が設計図を引く指導部の手の上に落ちていたのであろう。(B 73<2:59>)

 この文章は実に微妙である。語り手は指導部が描く設計図=指令の起源が神的であるかもしれないという可能性を完全には否定できない。しかし彼は、敬虔なるユダヤ教徒のように、長城建設の設計図が神から直接に与えられたものだと信ずることもまたできない。彼の見解によれば、指導部、すなわちユダヤ民族の集合的(無)意識に反映しているのは、おそらくは「神的な諸世界の残照」なのである。直接的ならざる弱々しい輝きとしての「残照(Abglanz)」という語は、神的な起源への結びつきと同時に、それからの隔たりをも示している。したがって語り手は、信仰にも啓蒙化された合理主義にも完全に身をまかせることのできない懐疑家なのであって、このような懐疑家として、指導部とその指令に関する彼の考察は二つの極の間を揺れ動くことになる。ただし、全体的に見れば、彼はやはり啓蒙主義的、暴露的な考察に傾いていることは否めない。

 「公正無私なる観察者」(B 73<2:59>)である語り手にとってとりわけ不可解なのは、「もし指導部が本気でそうするつもりだったのなら、一貫した築城工事を妨げたあの困難をもなぜ克服できなかったのか」(B 73<2:59>)という問いである。つまり、長城建設はなぜ「分割工事」というちぐはぐなやり方で行なわれなければならないのか、という「核心の問題」の謎である。この問題を考えるとき、彼は「指導部は分割工事を意図したのだ」という結論に達せざるをえない。

しかし、分割工事は急場の間に合わせでしかなく、不得要領であった。したがって、残る結論は、指導部は不得要領なことを欲した、ということである。――なんとも奇妙な結論だ!(B 73<2:60>)

 作品の比喩的な言葉を現実の言葉に置き換えれば、語り手の問いかけはおそらくこういうことになるであろう――もしユダヤ人国家の建設が、ユダヤの伝承が主張しているような、神的な指令であるのならば、その事業はなぜこうも不得要領にしか進まないのか? それが神が達成を望む神的な事業であるならば、それはなぜもっと順調に進行しないのか? もしこの問いを最後まで論理的に考えるならば、そのときはおそらく、このような指令を発した指導部そのものが不条理だ、という結論も可能となるであろう。しかし、このような結論は指導部の指令の神的な起源への信仰を根底からくつがえし、ユダヤ人国家は神の意志などではなく、ユダヤ人の非合理的な願望にすぎない、ということを暴露することになろう。だが、こうした結論は長城=ユダヤ人国家の建設という民族の永遠の悲願を、不条理なものとして地に失墜させ、同時にユダヤ的アイデンティティの基盤を完全に掘り崩してしまうことにもなるだろう。

 語り手は彼の「歴史的研究」によって、この危険な、ユダヤ人にとってはあまりにも危険な最後の一線にまで近づくが、彼自身はその限界を越えない。その代わりに、彼はその時代の中国人=ユダヤ人を観察して、こう述べる。

その当時は次のようなことが多くの人々の秘密の原則、それどころか最善の人々の秘密の原則であった。その原則とは、全力をもって指導部の指令を理解するように努力せよ、しかし、それもある一定の限界までのことであって、その限界では思慮分別をやめよ、というものであった。(Br 73 <2:60>)

 語り手の見解によれば、数多くの中国人、すなわちユダヤ人は、それどころかその中の「最善の人々」でさえも、彼と同じ問いかけの前に立たされたのであった。「この最善の人々」ということで、カフカはユダヤ民族ホームに集う若い情熱的なシオニストたちのことを考えていたことは確実である。彼はシオニズムとホームとの三つの関係について述べているフェリス宛の同じ手紙の、先に引用した箇所の少し前のところで、ヘルパーたちのことを「われわれの時代の教養あるユダヤ人」の「最善のタイプ」と呼んでいるからである(F 697<11:653>)。カフカにとっては、彼の父に代表されるような、ヨーロッパのブルジョア社会への同化を目指すユダヤ人は、ユダヤ的伝統とのつながりを失い、かといってヨーロッパ社会に完全に受け入れられもしない根無し草的な存在であった。これに対して、そうした親の世代への反逆者である若いシオニストたちは、最大限の努力を払ってユダヤの伝承=指導部の指令を解釈し直し、再生させて、そこから現代におけるユダヤ的な生への新たな指針を見出そうとする。彼らは、ヨーロッパへの同化を目指していた大部分のユダヤ人の中にあっては、間違いもなく「最善の人々」であった。しかし、そのような彼らでさえも、彼らのユダヤ的アイデンティティを危険にさらさないために、この「秘密の原則」によって彼らの思索を「限界」の前で中断し、その必然的な論理的帰結を差し控えたのであった。

ユダヤ的メシアニズムにおける民族と人類

 語り手はこの「秘密の原則」についてさらに考察を続ける。

これはなかなか賢明な原則である。ちなみに、この原則は、のちになってよく繰り返された次のようなたとえ話によって、さらに敷衍されたのであった――お前に害が及ぶから、さらなる思慮分別をやめよ、と言っているのではない。お前に害が及ぶかどうかということも、まったく確かではない。この点に関しては、そもそも害があるとか、ないとかということを議論することはできないのだ。お前の事情はちょうど春の川のようなものになるだろう。川は水かさを増し、流れはより力強くなり、その長い両岸の土地をますます豊かにうるおし、さらに海の中にいたるまでは自分自身の本質を保持し続け、そして海とますます等しいものとなり、海は川をますます歓迎する。――そこまでは指導部の指令について思慮分別するがよい。――だがしかし、川がそれから増水しすぎて両岸を越えると、輪郭と形姿を失い、流勢をゆるめ、その使命に反して内陸部に小さな湖をつくろうとし、農地に害を与える。そして、このように広がった状態では、やはり自分自身を保持することができず、もとの両岸にまた流れ集まるが、それに続く暑い季節には、みじめにもすっかり干上がってしまいさえする。――そのようになるほどには指導部の指令に思慮分別を加えてはならないのだ。(B 73f.<2:60>)

 語り手が見るところでは、人々は「秘密の原則」によって指導部の指令についての考察に限定をはめたばかりではなく、「春の川」の「たとえ話」によって、このような思考中断に一種積極的な意義さえ付与しようとし、そのことによって指導部の指令の起源は完全にタブー化されることになるのである。この「たとえ話」はこの作品が書かれる少し前に、ユダヤ人の間で展開されたシオニズムをめぐる論争を背景にすえることによって、よく理解できるものになる。私の解釈では、「たとえ話」における川と海という一対の形象は、ユダヤ教のメシアニズム理念におけるユダヤと人類という対概念に対応している。この理念においては、民族的な要素(ユーデントゥーム)と普遍的な要素(人類)とが複雑に絡まりあっているのだが、それについてアレックス・バインはこう解説している。

ユダヤ的なメシア観においては、当初から二つの見解が区別できる。一方において、それはダビデ家の子孫から生まれる地上的・自然的な救済者にして支配者の形姿であって、彼はユダヤ民族を解放し、集め、その国へと連れ戻す。他方において、それは超自然的な存在者、世の終わりにおける神的なメシアの理念であって、彼は世界審判と死者の復活によって神の国を到来させる(21)

 ショーレムはやや違った角度からではあるが、この二つの要素を「復興的力」と「ユートピア的力」と名づける。「これら二つの傾向は互いに深く絡まりあっているが、同時に対立的性質を帯びており、ただこの両者の中からのみメシア的理念は結晶するのである」と彼は述べる(22)。この二要素の関係は、「イスラエルの救済は人類救済の序幕であるか、あるいはそれと同じ意味である」(23)と理解された。すなわち、メシアの時には、パレスチナにユダヤ人国家が復興されると同時に、すべての民族が唯一の神、イスラエルの真の神を仰いで、そこに人類の永遠の平和が実現される、と考えられたのであった。

 しかしながら、ヨーロッパ近代においてはユダヤ的メシアニズムも世俗化せざるをえなかった。ショーレムによれば、「メシアニズムは永遠の進歩という理念、完成しつつある人類の無限なる課題という理念と結びつく。その際、進歩の概念それ自体の中で、非復興的な要素が合理的なユートピアの中心に押し出される」のである(24)。このような「ユダヤ教におけるメシア的理念の自由主義的・合理主義的な再解釈の卓越した代表者」(25)は、ユダヤ人の新カント派の哲学者ヘルマン・コーエンであった。彼はユーデントゥームにおける民族性と宗教性を分離し、ドイツに住むユダヤ系住民は、ユダヤ教の信仰を持ちながら、同時にドイツに対する祖国愛を持ちうるとしたのであった。彼の理解するユダヤ教とは、超越的な一神教と、それに基づく普遍的な倫理の教説である。コーエンはメシアニズムの根拠を一神教におく。一神教は唯一神がすべての民族によって崇拝されることを要請するので、「統一的な人類」を措定するが(26)、この人類の統一こそメシアの時代を意味する。「世界史の究極的な価値」としての「メシア的な人類」とは、「一神教における人類の統一および一神教に基づいた道義性の統一」であり、ユダヤ人の「国家を持たない孤立における民族的特徴は、国家連合による人類の統一の象徴である」(27)とされる。コーエンはこのようにメシアニズムの二つの要素のうち普遍的・ユートピア的要素を強調し、民族的・復興的な要素を「完全に清算」(28)することをもくろむ。このようなコーエンにとっては、

ユダヤ人国家の破滅は肯定しうる出来事であった。なぜならそのおかげでイスラエルはその普遍主義的な使信を実現できるからであった。コーエンは〔・・・・〕流謫はイスラエルの罪に対する罰である、という考えを逆転させて、その中にメシアニズムの発展への大きな好機を見出した。コーエンは、シオニズムに対する有名な論争の中で、メシアニズムの国際的なパン種としてのユダヤ人は、その必要性を民族国家に取り代えてしまった、と述べた(29)

 つまり、コーエンにとっては、ユダヤ民族のディアスポラ=離散は一神教という理念を世界中に広め、「統一的な人類」というメシア的な理想を実現するための前提であり、今さらユダヤ人の民族国家を建設しようとするシオニズムは、まさに時代錯誤的な愚行にほかならなかった。

 これに対して、ユダヤ人国家の再建を目指すシオニズムは、離散をユダヤ人の病的な生存状態として否定する。その代表的イデオローグで、コーエンの論争相手となったのはブーバーであった。彼にとっては、西欧社会の中でアトム化した西ユダヤ人の病を救う道は、パレスチナの土地に根ざしたユダヤ人の理想的な共同体の建設であった。シオニズムを世俗的な政治運動としようとしたヘルツルとは異なって、ブーバーはユダヤ的宗教性を革新しようとしたが、彼もまた世俗化という歴史的潮流の中に位置しており、メシア的理念をやはり近代的に解釈し直そうと試みた。その際、彼はコーエンのユダヤ自由主義的な立場とは反対に、再び民族的要素に重点を置き、メシアの時にはまずもってユダヤ人国家が建設されなければならない、と主張した。とはいっても、彼も人類普遍的な要素を完全に無視したわけではない。なぜなら、普遍的な要素がすっかりなくなってしまえば、メシア的理念はただ単なるユダヤ排外主義、ユダヤ帝国主義を意味するだけになってしまうからである。プラハのシオニズム学生団体「バル・コホバ」の主催で行なった『ユダヤ教に関する三つの講演』のうち、一九一〇年一二月の第三回目の講演「ユダヤ教の革新」――カフカもこの講演を聞いていると思われる(30)――の中で、ブーバーはメシアニズムについて次のように語っている。

メシアニズムはユダヤ教の最も深く独創的な理念である。〔・・・・〕ユダヤ人は未来の王国において人類のための家、真実の生という家を建設することを企てたのである。〔・・・・〕そして〔世の終わりに〕到来するとされたものは、おそらくはしばしば相対的なもの、つまり苦しめられた民族の解放であり、神の聖所の周囲への民族の集合であったが、その頂きにあったものは絶対的なもの、すなわち人間精神の救済であり、世界の救済であった(31)

 ブーバーによるメシア的理念の解釈によれば、ユダヤ人国家の創設はなるほどその重要なモメントではあったが、それはやはり「絶対的なものへの手段である相対的なもの」にすぎなかった。この「相対的なもの」よりももっと本質的なのは、「絶対的なもの」、すなわち「人類の中で、そして人類によって達成されるべき目標」であるところの「人間精神の救済と世界の救済」なのであった(32)。しかしながら、この絶対的な目標はまた、ただ「相対的なもの」の道を通って、つまりユダヤ民族のパレスチナへの集合を通してのみ、到達できるのであった。そこでブーバーは雑誌『ユダヤ人』(一九一六年八月号)に発表したコーエンとの論争の論文「概念と現実」の中で、彼のシオニズム的理念の先駆者であるモーゼス・ヘスの「われわれにはわが民族の歴史的理想を実現するための国土が欠けている。この理想とは、地上における神の支配であり、われわれのすべての預言者たちによって告知されたメシアの時以外の何ものでもない」という言葉を引用する(33)。そして、ブーバー自身のテーゼは、「我々はパレスチナを《ユダヤ人のために》欲するのではない。我々はその土地を人類のために欲するのだ。なぜなら我々はユダヤ精神の実現を欲しているからだ」(34)というものであった。

 ブーバーにとっては、コーエンのユダヤ自由主義的な見解は、メシア的理念の歪曲にほかならなかった。なぜなら、「その見解はメシアニズムを引き合いに出しながら、離散を、屈従を、ユダヤ民族の祖国喪失を、絶対的に価値あるもの、恵み豊かなものとして賛美し、それがメシア的な人類を準備するがゆえに、保持されねばならないものとする」(35)からである。ブーバーはこのようにメシア的理念における民族的要素を再度強調したのではあったが、先にも述べたように、人類普遍的要素をすっかり捨て去ったわけではない。彼もまた、「メシア的な人類の中では、ユーデントゥームもいずれ解消し、人類と一つにとけあうかもしれない」と認める。しかし彼は同時に、「メシア的な人類が生まれるために、ユダヤ民族が今日の人類の中で没落しなければならないということは、われわれは理解することができない」と付け加える(36)。なぜなら、「人類はユーデントゥームを必要としているのだが、ここ〔=ヨーロッパ〕における分断され、引き裂かれ、根拠を失ったこのようなユーデントゥームは、人類がユーデントゥームから必要としているものを、人類に与えることはできない。自分自身の国土において再生したユーデントゥームにしてはじめてそれができる」(37)からである。ブーバーはコーエンとは反対に、ユダヤ民族がその民族的アイデンティティを完全に発揮してはじめて、メシア的な人類を準備することができる、と主張するのである。

 このようにコーエンとブーバーは、人類普遍的要素を強調するか、民族的要素を強調するか、という相違はあるものの、メシアの時の到来を、いずれも超越的な力の歴史への介入に依拠することなく、人間的な努力の延長線上に見ているので、本来のユダヤ教のメシアニズムを世俗化している点においては変わりはない。人類普遍的な要素を強調するように見えるコーエンの解釈ですら、ユダヤ民族を「自分の国家を持たないがゆえに、最も人類普遍的な民族」(38)として位置づけているから、ある意味ではブーバーとは別の形でユダヤ民族の特権性を語っていると言えなくもない。また、民族的要素を強調するブーバーにしても、メシア的理念を最終的には「絶対的なもの」という普遍性によって正当化せざるをえない。両者の見解の相違は、両者が思い込んでいるほど大きなものではない。

 「春の川」に関するカフカの「たとえ話」の中に、シオニズムをめぐるコーエンとブーバーの論争の反響を見出すことは容易である。この比喩における「川」はユーデントゥームに、ブーバーの見解によれば民族共同体として「自分自身の本質を保持し続け」ねばならないユーデントゥームに対応し、「海」は人類に、ユダヤ民族も含め、すべての民族がやがて合流するはずの「メシア的な人類」に対応する。川=ユダヤ民族は「自分自身の本質」=自らの民族的特質を保持することによってはじめて、「両岸の土地をますます豊かにうるお」す、つまり「人間精神の救済と世界の救済」という人類への貢献をはたすことができる。しかし、世の終わりには、すなわちメシアの時には、川は「海の中」へ流れ込み、「海とますます等しいものとなり、海は川をますます歓迎する」。すなわち、「メシア的な人類の中では、ユーデントゥームもいずれ解消し、人類と一つにとけあう」ことになるだろう。指導部の指令、すなわちユダヤ教という伝承をこのように解釈すること、この限界まで解釈することは、シオニズムは認める。

 しかし、『万里の長城』の語り手がそうしたように、その解釈の限界を踏み越えて、ユダヤの伝承がなんら神的な起源を持たず、ただ単にユダヤ人の非合理的な願望にすぎない、という結論に近づくとどういうことになるであろうか。そのときは、ユダヤ人国家の建設と一緒に「メシア的な人類」が生まれるという「歴史的理想」はその根拠を失うことになるだろう。そしてそれと同時に、ヨーロッパ諸民族の間でディアスポラの生を生きるユダヤ民族は、民族的アイデンティティという「輪郭と形姿」を失い、ヨーロッパ各地にせいぜい「小さな湖」にも似たユダヤ人コミュニティを形成するだけだろう。いや、離散というこのような「広がった状態」では、ユダヤ民族は「自分自身を保持することができず」、周囲世界に同化吸収され、やがて「みじめにもすっかり干上がってしまいさえする」、すなわち「今日の人類の中で没落」することになるであろう。だから、ユダヤ民族がその「使命」を達成し、「人類に対するその奉仕を真に遂行するために」(39)は、ユダヤ人の民族的アイデンティティの基盤である指導部の指令=伝承に、そこまでの「思慮分別を加えてはならない」のである。――このように、カフカの「春の川」の比喩は、ブーバーに代表されるシオニズムのイデオロギーとして解読できる。

 語り手は中国人=ユダヤ人の「秘密の原則」の背後に、長城=ユダヤ人国家の建設にとって死活的な問題である、ユダヤの伝承の起源に関する思考停止を嗅ぎつける。このように「秘密の原則」の背後をのぞき見た語り手は、当然のことながら長城建設に素朴に熱狂することはできない。すでに前稿でも述べたように、語り手の建築事業に対するイローニッシュで懐疑的な立場には、カフカ自身のシオニズムに対する態度が反映しているだろう。

 カフカは一九一六/一七年、婚約者のフェリスを介して一時的にシオニズムに接近した。ロバートソンも言うように、『万里の長城』をはじめとしてこの時期書かれた短篇作品群――その主要なものは短篇集『田舎医者』に収められている――のいくつかは、シオニズムあるいはユダヤ問題と対決した作品として読むことができる。だがこの時期のカフカは結局のところ、友人のブロートやベルクマンのような熱心なシオニストになることはできなかった。彼自身は一九一七/一八年、病気療養のために隠棲した北西ボヘミアの農村チューラウにおいて、シオニズムが自らに課している伝承解釈の「限界」を踏み越え、伝承すなわち聖書の問題に、まったく別の角度から取り組むことになる。その成果が二冊の八折判ノートに書かれた数多くのアフォリズム群であった。ここではこれらのチューラウ・アフォリズムの内容に触れる余裕はないが、本稿との関連でその特徴を一言で要約すれば、それらは「民族」という問題に言及しないという点において、非シオニズム的と呼ぶことができるだろう。

 このように、一九一七/一八年以降、シオニズム問題からひとたび離れたカフカが、『町の建設』にも見られるように、一九二〇年の秋になぜ再びこの問題を取り上げたのか。『町の建設』がシオニズムを取り扱ったこの時期の唯一の作品であるならば、それは単なる偶然、すなわち八折判ノートを見直した際に、たまたま昔の作品『万里の長城』に触発されて出来上がった例外的作品だと見なせるかもしれない。しかし、「書類束A」で『町の建設』の直後に書かれている短篇、浮浪者である「私」が道路で一人の農夫に出会う短篇(H 306-311<3:229-232>)も、ブロートが解説で述べているように、シオニズムとの関連において解釈できるというか、読めばたちまちそれとの関連を思い浮かべずにはいられないような作品である。ブロートはこの作品に「諸民族の間におけるイスラエルの平和的使命」というシオニズム・イデオロギーの「戯画」を見出しているが(H 452<3:334>)、このイデオロギーは第一次世界大戦のさなか、雑誌『ユダヤ人』の第一号に発表されたブーバーの雑誌創刊の辞に典型的に表現されている。ブーバーはそこで、

〔・・・・〕われわれががユダヤ的実質に一つの中心的な場所、パレスチナにおける有機的な中心点を与えようと欲するとき、この瞬間互いに戦いあい、相手の隙をねらいあっている多数の民族性にもう一つの民族性を付け加えることをもくろんでいるわけではない。ユーデントゥームの本義は諸民族の分断に貢献することではなく、諸民族の連合に奉仕することなのである。(40)

と主張している。

 カフカの短篇では浮浪者(=ユダヤ民族)は農夫の家庭の不和(=諸民族の対立)を解決してやると称して、ずうずうしくも衣類、肉、酒を要求し、さらには農夫の家まで乗っ取ろうとする気配である。これはまさに、「互いに戦い」あっている「諸民族の連合に奉仕」してやるから、パレスチナの土地をユダヤ人に渡せというシオニズム・イデオロギーの「戯画」以外には考えられない。

 さて、一九一七年の『万里の長城』と一九二〇年の『町の建設』とを比較すると、そのモティーフ上の類似性にもかかわらず、その結末において重大な相違がある。それは、『万里の長城』の語り手があくまでも客観的、批判的な観察者にとどまるのに対して、『町の建設』では、語り手は伝承の非合理性を十分に承知しているにもかかわらず、町の建設に参加することを依頼者たちに承諾することである。この結末部をもって、カフカのシオニズムへの参加の意志だと解釈することは性急であろう。なぜなら、浮浪者と農夫の短篇におけるシオニズム・イデオロギーへの当てつけは、『万里の長城』のイロニーよりもはるかに露骨で、痛烈であるからである。「主題的につながっている」とブロートが言う「書類束A」の二つの作品は、ユダヤ問題に関する二つの異なった文学的思考実験と見ることができるだろう。しかし、いずれにせよこれらの作品は、カフカが一九二〇年秋にシオニズムの問題圏に再度接近したことを証言している。そして事実、カフカの伝記を見るならば、彼はこののち最晩年にいたるまで、自己の民族的ルーツにますます強く回帰してゆくことになる。周知のように、彼は一九二三年に東ユダヤ人女性のドーラ・ディアマントと共同生活を送り、彼女と一緒にパレスチナに移住することを夢見る。一九二〇年秋のユダヤ問題を扱ったいくつかの作品は、カフカの民族的回帰の開始を告げている。

 私の見るところ、この時期のカフカのユダヤ問題への再接近は、一九一七年一一月のバルフォア宣言や、第一次世界大戦後新しく生まれたチェコスロバキア共和国における反ユダヤ主義の高まりといった、彼の周囲の社会的状勢の変化ばかりではなく、彼自身の人生上の出来事、特にミレナ・イェセンスカとの恋愛という事件と深く関連している。一九二〇年秋に起こったこのキリスト教徒チェコ人女性との恋愛の破局は、他者との正常なる共同生活を営むことのできない西ユダヤ人として自己の病の深刻さを、カフカにあらためて思い知らせ、彼のユダヤ人意識を再び強化したのであった。それがまた同時に、彼が一九二〇年になってなぜ一九一七/一八年の八折判ノートを見直し、またさらには書き直したのか、という問題、そして、『万里の長城』という作品からなぜ『町の建設』という兄弟作品が生まれたのか、という問題をも説明することになるのであるが、この点については私はすでに拙稿「カフカのアフォリズムの謎」で詳論したところなので、ここではあらためて触れることはしない。

(1)  中澤英雄「カフカの『万里の長城』における民族、国家、宗教」(『思想』〔岩波書店〕第七九六号、一九九〇年一〇月)。以下ではこの論文を前稿と呼ぶことにする。

(2)  カフカの作品からの引用は文中に以下のような記号と頁数をもって表示する。

E = Franz Kafka, Erzählungen, 17.-23. Tausend, Frankfurt/M. 1967.

B = ders., Beschreibung eines Kampfes. Novellen, Skizzen, Aphorismen aus dem Nachlaß, Frankfurt/M. 1954.

Br= ders., Briefe 1902-1924, 7.-9. Tausend, Frankfurt/M. 1966.

F = ders., Briefe an Felice, 6.-9. Tausend, Frankfurt/M. 1967.

H = ders., Hochzeitsvorbereitungen auf dem Lande und andere Prosa aus dem Nachlaß, 7.-9. Tausend, Frankfurt/ M. 1966.

KT= ders., Tagebücher. Kritische Ausgabe. Hrsg. von H.K. Koch, M. Müller und M. Pasley, Frankfurt/M. 1990.

 またこれに対応する日本語訳は『決定版・カフカ全集』(新潮社)の巻数と頁を<>の中に示す。

 E=第一巻、B=第二巻、H=第三巻、KT=第七巻、Br=第九巻、F=第一〇、一一巻。

 ただし、邦訳は必ずしも新潮社版と同じではない。

(3) J. Born/L. Dietz/M. Pasley/P. Raabe/K. Wagenbach, Kafka- Symposion, Berlin 21966, S. 68ff.; Hartmut Binder, Kafka- Kommentar zu sämtlichen Erzählungen, München 21977, S. 240, S. 252.; Franz Kafka, Das Schloß. Kritische Ausgabe. Apparatband. Hrsg. von Malcolm Pasley, Frankfurt/M. 1982, S. 26f. ただし、カフカが書いた用紙の本来の順序は、現行のブロート版全集の配列とは異なっていることが確実である。このことを私は最近シレマイトの次の論文から知ることができた。Jost Schillemeit, Mitteilungen und Nicht-Mitteilbares. Zur Chronologie der >Briefe an Milena< und zu Kafkas >>Schreiben<< im Jahr 1920, in: Jahrbuch des Freien Deutschen Hochstifts, Tübingen 1988.  書類束の正しい配列――あるいは少なくともより誤りの少ない配列――は近日中に刊行される予定の断片類を集めた原典批判版カフカ全集によって知ることができるだろう。

(4)  この点に関しては詳しくは、拙稿「カフカのアフォリズムの謎(上)」(東京大学教養学部外国語科研究紀要第三八巻第一号、一九九一年三月)、および「カフカのアフォリズムの謎(下)」(東京大学教養学部紀要・比較文化研究第二九輯、一九九一年三月)、特に「下」の第三章を参照されたい。この論文は前記のシレマイト論文を参照する以前に書かれているので、ブロート版全集の配列を正しいものと前提している。したがって、細かな部分では修正しなければならない点もあるが、書類束と八折判ノートの関係に関する基本的なテーゼについては今もなお妥当するものと考えている。

(5)  J. Born/L. Dietz/M. Pasley/P. Raabe/K. Wagenbach, ibid., S. 77.; Binder, ibid., S. 221.

(6)  Hugo Bergmann, Der jüdische Nationalismus nach dem Krieg, in: Der Jude, Heft 1 (April 1916), S. 9.

(7)  ウォルター・ラカー『ユダヤ人問題とシオニズムの歴史』(第三書館、一九八七年)七頁。

(8)  Martin Buber, Mein Weg zum Chassidismus, in: ders., Werke. Band 3, München/Heidelberg 1963, S. 967 ブーバー『祈りと教え』〔理想社、昭和四四年〕一八頁

(9)  Gershom Scholem, Von Berlin nach Jerusalem, Frank- furt/M. 1977, S.102ff.ショーレム『ベルリンからエルサレムへ』〔法政大学出版局、一九九一年〕八四頁。またショーレムのブーバーに対する批判については、拙稿「カフカにおける《ユダヤ人》問題」(『へるめす』〔岩波書店〕第二五号、一九九〇年五月)も参照されたい。

(10)  Nathan Birnbaum, Die Prinzipien des Zionismus, wiederzitiert aus: Alex Bein, Die Judenfrage. Band I, Stuttgart 1980, S. 273.

(11)  Heinrich Heine, Geständnisse, in: ders., Werke und Briefe in zehn Bänden. Band 7. Hrsg. von Hans Kaufmann, Berlin 1962, S. 138.

(12)  中澤英雄、前稿、一一九頁。

(13)  Martin Buber, Renaissance und Bewegung, in: ders., Der Jude und sein Judentum, Köln 1963, S. 272.

(14)  アイザック・ドイッチャー『非ユダヤ的ユダヤ人』(岩波新書、一九七〇年)六〇頁。

(15)  ヘルツル『ユダヤ人国家』(法政大学出版局、一九九一年)三三頁。

(16)  Bein, ibid., S. 42.

(17)  Ibid., S. 275.

(18)  ラカー、前掲書、一四一頁。

(19)  Gershom Scholem, Judaica I, 11. und 12. Tausend, Frankfurt/M. 1986, S. 170-190(ショーレム『ユダヤ主義の本質』〔河出書房新社、一九七二年〕一四三一五九頁)。ならびに拙稿「カフカにおける《ユダヤ人》問題」五九頁も参照されたい。

(20) フェリスにこの手紙を書いたとき、カフカがビルンバウムのことを意識していたかどうかはわからないが、彼は一九一二年一月にビルンバウムの講演を聞いている(KT 360f.<7:175>)Vgl. Hartmut Binder, Leben und Persönlichkeit Franz Kafkas, in: Hartmut Binder (Hrsg.), Kafka-Handbuch. Band 1, Stuttgart 1979, S. 435.

(21)  Bein, ibid., S. 45.

(22)  Scholem, ibid., S. 11邦訳八頁

(23)  Bein, ibid., S.43f.

(24)  Scholem, ibid., S. 54.(邦訳四一頁)。

(25)  Ibid.

(26)  Hermann Cohen, Religion der Vernunft aus den Quellen des Judentums, Darmstadt 21988, S. 284.

(27)  Ibid., S. 296.

(28)  Scholem, ibid., S. 54.(邦訳四一頁)。

(29)  David Biale, Kabbalah and Counter-History, Cambridge/Massachusetts/ London 1979, S. 151(ビアール『カバラーと反歴史』〔法政大学出版局、一九八四年〕二〇五頁)。

(30)  Binder, ibid., S. 376.

(31)  Martin Buber, Die Erneuerung des Judentums, in: ders., ibid., S. 41f.

(32)  Ibid., S. 42.

(33)  Martin Buber, Begriffe und Wirklichkeit. Brief an Herrn Geh. Regierungsrat Prof. Dr. Hermann Cohen, in: Der Jude, Heft 5 (August 1916), S. 287.

(34)  Ibid.

(35)  Ibid., S. 286f.

(36)  Ibid., S. 287.

(37)  Martin Buber, Zion, der Staat und die Menschheit. Bemerkungen zu Hermann Cohens "Antwort", in: Der Jude, Heft 7 (Oktober 1916), S. 425f.

(38)  Boris Groys, Vorwort, in: Theodor Lessing, Der jüdische Selbsthaß, München 1984, S. VIII.グロイス「ユダヤの逆説、ヨーロッパの逆説――テーオドール・レッシングの『ユダヤ人の自己憎悪』によせて」『思想』〔岩波書店〕第八〇六号、一九九一年八月、一〇一頁

(39)  Buber, ibid., S. 425.

(40)  Martin Buber, Die Losung, in: Der Jude, Heft 1 (April 1916), S. 3.

〔追記〕本稿は一九九一年八月ベルリンで開かれた「日中韓ゲルマニスト共同シンポジウム」における発表(原文ドイツ語)に加筆したものである。

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