カフカのアフォリズムの謎  (下)

 

                                                           中澤英雄

 

目  次

 


序論 

カフカのアフォリズムの軽視 

アフォリズムをめぐる謎 

新しい資料の出現 

リチャード・グレイのアフォリズム研究書 

『考察』とミレナ体験 

第一章 『考察』の背景としての『チューラウ・アフォリズム』と『彼』 

『チューラウ・アフォリズム』と『考察』 

『チューラウ・アフォリズム』の遠近法的二元論 

『彼』のグノーシス的世界拒否 

第二章 『考察』の謎 

第一節 カフカのオリジナル原稿とブロート版全集との相違 

第二節 構成上の問題 

(一) 抜粋基準と数 

(二) 配列 

(三) 二重番号アフォリズムと分割アフォリズム 

(四) 「・二」のアフォリズムの並記 

第三節 並記アフォリズムの関係 

 

(以上は『外国語科研究紀要』第三七巻第一号に掲載。次の第三章以下が本紀要に発表される。)

 

第三章 書類束A、B、Cと『ミレナへの手紙』の謎 

ビンダーによる『考察』編纂時期の推定 

書類束A、B、Cの執筆時期 

ミレナへの手紙における二九・二番のアフォリズムの引用 

二九・二番のアフォリズムと鞭打ち苦行 

書類束Aのアフォリズムと中国の怪談集からの引用 

引用メモとミレナへの手紙の関係

『ミレナへの手紙・増補改訂版』の日付推定は正しいか 

「幽霊」の正体 

三九a・二番と一〇九・二番 

書類束Aと八折判ノートの関連 

書類束Aの執筆状況 

『考察』の編集時期 

第四章 『考察』とミレナ体験 

ミレナとの出会い 

偉大な世界救済の戦い 

ユダヤ人と非ユダヤ人 

グミュントでの転機 

病の診断と克服 

アフォリズムから文学的創作への移行 

「なぞり書き」作業 

第五章 「究極の事物」をめぐる友人たちとの哲学的対話 

八月時点での八折判ノートの見直し 

ブロート宛の手紙 

ブロートの異教理解 

カフカのニーチェ解釈 

「究極の事物」をめぐる対話 

八九番の自由意志に関するアフォリズム 

ブロートとヴェルチュの意志自由論への反論

柄が灼熱しているハンマー 

無力な小槌


 

 

第三章 書類束A、B、Cと『ミレナへの手紙』の謎

 

ビンダーによる『考察』編纂時期の推定

 

 これまでは『考察』がまとめられた時期は、ごく大ざっぱに一九二〇年夏から秋とだけしか述べてこなかったが、ここではその成立時期をもっと精密に推定してみたい。というのは、あとでも見るように、成立時期の特定はいくつかのアフォリズムの解釈に重要なヒントを与えるだけではなく、カフカがなぜこの『考察』の編纂を思い立ったのか、という問題とも密接に関連しているからである。

 まず、グレイはどう考えているであろうか。彼は、カフカは一九二〇年八月から十一月の間、アフォリズム集を出版する目的で『考察』を編集した、と述べている(Gray 216)。『考察』の編纂の目的の一つが出版であったことはたしかであろうが、これだけでは実はなぜまさにこの時期にカフカが『考察』を編集したのか、という疑問に対する答にはなっていない。なぜなら、出版それ自体が目的であるのなら、『チューラウ・アフォリズム』を書いた直後に編纂作業が行なわれてもよかったからである。『チューラウ・アフォリズム』を書いてから二年以上もたった時期に、カフカがあらためて八折判ノートに戻ったということには、それなりの必然的な理由が存在したはずである。

 また、グレイの八月から十一月という編纂時期の推定は、基本的にはそれまでの定説の踏襲にすぎない。この定説を確立したのは、実証主義的カフカ研究者ビンダーの一九二〇年八月から十月という推定である。彼がこのように考える根拠は、整理すると以下の四点にまとめられる(KK1 245f.; KK2 407)(1)

 

(a)カフカが一九二〇年八月七日のブロート宛の手紙に、『考察』六九番のアフォリズムをやや形を変えて引用していること。(2)

(b)二六・二番のアフォリズムが書類束Aに一九二〇年九月十七日の日付で書かれていること。

(c)二九・二番のアフォリズムがミレナへの手紙に引用されているが、この手紙はその中における新聞記事への言及から、一九二〇年十月九日から数日後に書かれたと推測されること。

(d)五四・二番のアフォリズムは書類束Aの『徴兵』の数頁あとに書かれているが、『徴兵』は同年十月末に書かれたものと推定できること。

 

 これらの状況証拠は、その当時カフカがアフォリズム集の作成に携わっていて、アフォリズムをすぐに「引用」できる状態であったことを示している、とビンダーは推測する。ところが、ビンダーの挙げている根拠のうち、(b)から(d)まではいずれも「・二」のアフォリズムにかかわることであって、これは引用ではなく、新たな作成であることがグレイの研究によって明らかになった。さらに、(c)で言及されているミレナへの手紙は、『ミレナへの手紙・増補改訂版』では十一月半ばのものと推定されている。グレイが『考察』の編集時期をビンダーのように「八月から十月」ではなく、「八月から十一月」としているのは、『ミレナへの手紙・増補改訂版』における新しい日付推定を考慮に入れた結果であろう。ここでは、『ミレナへの手紙・増補改訂版』や原典批判版カフカ全集などの新たな研究成果を批判的に取り入れて、『考察』の編纂された時期をより精密に推定してみる。それは実証研究そのものが目的ではなく、この成立時期の確定が、『考察』の解釈にかかわってくる問題も含んでいるからである。ここではまず(b)から(d)の新規作成の問題から検討し、最後に第五章で(a)の問題を考えることにする。

 

書類束A、B、Cの執筆時期

 

 すでに述べたように、新たに『考察』に付加された「・二」のアフォリズムは、二篇を除いてすべてパスリ/ヴァーゲンバッハによって書類束AとBと名づけられた用紙に記されている。二つの書類束は同じ大きさ、同じ紙質で、同じ水色の長方形の格子模様が入っている、ばらの用紙である。同じ紙質のばらの用紙としてもう一つ書類束Cも存在する(Sy 68ff.)。用紙の同一性から、現在はA(H 301-352<3:226-263>)、B(H 355-383<3:264-284>。ただし、ブロート版全集ではこの間に書類束Bとは別の時期の断片もまじっている。詳しくは Sy を参照されたい)、C(H 249-266<3:188-266>)に分けられているが、元来は同じまとまりであったと考えられている。原典批判版の校注巻(Apparatband)によれば、この用紙の大きさは縦 28.8-29.0cm x 22.8cm というから、ほぼA4判の大きさである。そして水色の格子は 0.9cm x 0.4cm の大きさである。ただし、A、B、Cではその使用法が若干異なる。この用紙は元来は二つ折の用紙であったのだが、書類束AとBではこれが広げられて、一枚の大きな用紙として記入されている。しかし、書類束Cはもとの折り畳まれた状態で記入されている(KSA 26f.)(3)

 「・二」のアフォリズムの成立時期の推定は、この三つの書類束の執筆時期の推定と深く関連している。この三つの書類束の執筆時期を確定しようとすると、書類束A、B、Cと『ミレナへの手紙』には、従来のカフカ研究ではまったく顧みられることのなかった数々の謎が浮かび上がってくる。この謎は『考察』の謎と密接に関連しており、この謎を解明することは過去の定説をくつがえすことになる。

 さて、カフカはチューラウ以来、文学的にはきわめて非生産的であった。一九二〇年には、この年の初めにアフォリズム集『彼』を書いただけで、それ以外には日記もつけず、文学的創作も行なっていない。一九一七年以来ほぼ三年ぶりに彼が創作活動を再開したのは、この年の八月の下旬である。彼は八月二十六日のミレナ宛の手紙で、

「私はここ数日来、私の《軍務》生活、あるいはより正確には《機動演習》生活を再開していますが、これは数年前、私にとってしばらくの間は最善の生活であると発見したものです。午後はできるだけ長くベッドで眠り、それから二時間の散歩、それからできるだけ長く目を覚ましているのです。[・・・・]軍務に服しているというのは、成果が上がらない場合でも、やはりいいことです。事実また成果が上がることなどはないでしょうが、まず《舌をほぐす》ためには、私にはこうした半年が必要なのです。そして、もうおしまいだということ、服務許可がおしまいだということがわかるという次第です」(MN 229; M 208<8:159>)

と書いている。この「軍務生活」=「機動演習生活」というのは、文学的執筆活動のことである。

 ビンダーの推定によれば(KK1 239f.)、この時期カフカが《舌をほぐ》した結果が、『カフカ・シンポジウム』(Sy)でいう「青の四折判ノート」(H 282-301<3:212-225>)と書類束A、B、Cに書かれた短篇作品や断片類である。ブロートはこの中から『町の紋章』や『夜』など十篇余りを、完成された作品として全集版の『ある戦いの記録』の巻に収録した。このような文学的に活発な時期は、カフカが十二月十八日、病気療養のために、ホーエ・タトラの保養地マトリアリに旅立つことによって終了した。

 ビンダーは彼の『カフカ注解』(KK1)で、ブロートの全集版では「断片」に入れられている「青の四折判ノート」が、八月終わりの最初の文学的助走を示すものと考えている。それは、このノートの記載がいずれも不完全な書き出しだけで終わっているからである。さらに、このノートの最後近くに書かれている『帰郷』(Sy 70)の執筆時期は、カフカの伝記上の出来事との類似性から八月下旬/九月上旬と推定している(KK1 240f.)。ただし、書類束A、B、Cの順序についてはビンダーは混乱しているように思われる。彼はある場所では「B(とおそらくCも。しかし、CはAの後に書かれたものかもしれない)はAに時間的に先行する」と述べる。それはA、B、Cの中でいちばん完成度が高いのはAで、BとCは「青の四折判ノート」と同じレベルの未完成な書き出しが多いからである(KK1 240)。ところが彼は別の場所では、「BのほうがAより少し新しい」と述べている。それは、Aの冒頭に日付がついている以上、Aが最初に書かれた古いものと見なければならないからである(KK1 252)。結局、ビンダーはA、B、Cの順番については不明確なままである。

 ビンダーが混乱しているのは、書類束Aにおける作品の完成度の高さと日付の記入という相反する事実を統一的に説明できないからである。冒頭に日付の記載がある以上、書類束Aは新たな開始を示している。にもかかわらず、それは内容的には開始とは思えないほどの完成度に達している。この矛盾はどう説明できるだろうか。

 結論から先に言えば、一九二〇年八月以降の創作断片は、

 

《「青の四折判ノート」A+B》

 

という順番になると私は思う。「青の四折判ノート」がその最初に来ると考える理由は、ビンダーと同じである。次にA、B、Cの創作断片を比較して、完成度が最も劣るのはCである。ブロートによってCの中から完成した短篇作品として採用されたものがないことも、このことを間接的に裏づける。また、AとBは用紙が広げられているのに対し、Cだけ折り畳まれたままである。この点において、CはAともBとも異なっている。さらにCのAとBに対する最大の相違点は、AとBはアフォリズムを含むのに対し、Cのみがアフォリズムを含まないことである。このことは「・二」のアフォリズムがいつから、いかなる理由で書き始められたか、という問題とかかわってくるのであるが、アフォリズムを含まないという点において、Cは純然たる文学創作ノートであって、「青の四折判ノート」と同じ性格を持っている。つまりCは「青の四折判ノート」の継続と考えられる。これに対して、Aは「一九二〇年九月十五日」という日付によってその記載が開始されているので、カフカはこれを明らかに一種の日記として用いようとしたことが知られる。これはあとで論じる私のテーゼであるが、カフカは日記というより、むしろ八折判ノート的なスタイルの記載をこの時点で開始しようとしたのである。そこで彼は、それまで書いてきた単なる創作ノートであるCとは区別して、新たな性格の記述のために、二つ折の用紙を広げて書類束Aの記入を開始した、と私は考える。

 次にAとBであるが、この二つを比較すると、BではAに比べてアフォリズムが少ない。Bは明らかに創作ノート的な性格が強い。しかし、次に述べるように、そこに書かれているアフォリズムはかなり正確にその成立時期を推定できるので、それから判断すると、AとBとはほとんど同じ時期のものと判断せざるをえない。もし、BがA以前に書かれていたなら、Cと同じくやはり折り畳まれていたに違いないし、アフォリズムも含んでいなかったであろう。いずれにせよ、Bはブロート版全集において他の時期の断片と入りまじって掲載されており、かなりの混乱状態にある。ひょっとするとこれは、カフカがAの中から何らかの理由で(たとえば推敲するために)抜き取った用紙なのではないか、と考えられる。

 

ミレナへの手紙における二九・二番のアフォリズムの引用

 

 さて、このような準備をととのえた上で、「・二」のアフォリズムの執筆時期を推定してみよう。書類束に書かれている六篇の「・二」のアフォリズムのうち、二九・二番のみが書類束B(H 359<3:267>)に書かれていて、あとはすべて書類束Aに書かれている。まずこの二九・二番から検討してみる。

 このアフォリズムはミレナへの手紙に引用されているが、ビンダーは論拠(c)で、この手紙を十月上旬のものと推定している。ビンダーが日付推定の根拠にしたのは、ヴィリー・ハース編纂の不完全な『ミレナへの手紙』(一九五二年)である。しかし、ビンダーが『カフカ注解』(一九七五、一九七六年)を書いたあとで、厳密な校訂のもとに『ミレナへの手紙・増補改訂版』(一九八三年)が出版された。ところが、この増補改訂版はこの手紙を十一月半ばのものと推定している。この手紙ではミレナがカフカに依頼した家庭教師の広告の件が話題になっており(MN 291。この部分は増補改訂版になってから補われた)、こうした事実関係から増補改訂版の日付推定には信頼がおける。つまり、ビンダーの推定は誤りである。手紙の日付の変更によって、二九・二番のアフォリズムの成立時期の推定に関してどのような変更が生じるであろうか。

 問題の手紙は以下のようなものである。

 

「[・・・・]まさしく、拷問ということが私にとってはきわめて重要なのです。私が従事していることといえば、拷問にかけられることと拷問にかけることしかありません。なぜでしょうか? それはパーキンス[アプトン・シンクレアの小説『ジミー・ヒギンズ』の登場人物の一人。ミレナはその一部をチェコ語に翻訳していた]と似たような理由からで、同じように無思慮で、機械的で、伝統的です。つまりは、呪われた口から呪われた言葉を聞くためです。こうしたことの中にある愚かさを(愚かだと悟ったところでなんの役にも立ちませんが)、私はかつてこう表現したことがあります。《獣は、自分が主人になるために、主人から鞭を奪い、自分自身を鞭打つ。しかしそれが、主人の鞭紐の新しい結び目によってひき起こされた幻想にすぎないことを知らない。》もちろん、拷問は惨めなことでもあります。アレクサンダー大王は、ゴルディウスの結び目がどうしても解けなかったとき、それを拷問にかけたりはしませんでした。」(MN 290f.; M 244<8:188>)

 

 ビンダーによる手紙の日付推定の根拠にされているのは、このあとに続く次の一節である。

 

「それはそうと、この点にはユダヤ的な伝統もあるように思われます。今反ユダヤ的な記事を非常に多く載せている《ヴェンコフ》紙が、最近ある社説で、ユダヤ人はすべてのものを腐敗させ、崩壊させる、彼らは中世の鞭打ち苦行(Flagellantismus)でさえ(!)[約四語抹消]腐敗させたのだ、と立証していました。残念ながら、それについてはそれ以上詳しいことは何も言われておらず、ただイギリス人の一著作が引用されているだけでした。私は《重》すぎて、大学図書館に行けませんが、ユダヤ人がユダヤ人とは(中世においては)まったく縁もゆかりもない運動と、いったいどんな関係があったのか是非知りたいものです。ひょっとしたら、あなたの知人になら、それを知っている学者もいるのではないでしょうか。」(MN 291; M 244<8:188>)

 

 この《ヴェンコフ》紙の社説というのは、増補改訂版の編者の注によれば、「未来を持たないボルシェヴィズム」という十月三日の記事である(これは《ヴェンコフ》紙の記事を「十月九日」とするビンダーの説と異なっているが、ここでは増補改訂版に従う)。「最近(letzthin)」という表現から推定できるのは、この手紙(あとでも触れるのでこの手紙のことを「ヴェンコフ書簡」と呼ぶことにする)が書かれたのが《ヴェンコフ》紙の論説の出たしばらくあと、ということまででしかない。ビンダーはこの《letzthin》を「数日前」と解釈して、手紙の日付を推定したわけである。しかし、引用されているアフォリズムの成立時期に関係してくる「私はかつてこう表現したことがあります」という「かつて」がいつであるかは、この手紙の執筆時期(増補改訂版によれば十一月半ば)以前としか推定できず、それこそ一九一七年のチューラウにまでさかのぼるかもしれない(ビンダーはそう考えていた)。当然のことであるが、アフォリズムが引用されている手紙の書かれた時期がわかっても、そのアフォリズムが最初に成立した時期そのものはわからない。

 しかし、グレイによれば、このアフォリズムは一九二〇年になって書かれたものである。さらに増補改訂版に従えば、この手紙は十一月半ばのものである。このような最新の研究成果に、さらにこのアフォリズムの内容を加味すると話は変わってくる。なぜなら、引用されているアフォリズム二九・二番は、その「獣が自分自身を鞭打つ」という内容からして、《ヴェンコフ》の「鞭打ち苦行」の記事にきわめて類似しており、まさにそれをきっかけにして書かれたものと考えることができるからである。

 

二九・二番のアフォリズムと鞭打ち苦行

 

 そもそもこのアフォリズムの「主人(Herr)のふるう鞭(Peitsche)」というイメージはいかにも聖書的である。聖書では鞭(Rute, Geißel, Peitsche)は「神の怒りと神に逆らう者の懲らしめの象徴」(4)としてしばしば用いられている。また、自分で自分を鞭打つ人としては、《ヴェンコフ》紙がとり上げている中世のキリスト教の鞭打ち苦行者(Flagellanten)がいる。これは鞭で打たれたキリストのまねびとして、自分で自分を鞭打つ苦行をしたのである(5)

 前章第三節(二)でも見たように、人間が自分で行なっていると信じていること(意識)と、その本当の意味(存在)の間のギャップがこのアフォリズムを解釈するための基本的な視点である。そこにさらに、このような聖書的・宗教的な意味連関を考慮に加えるならば、二九・二番のアフォリズムはおそらく、神(=主人)を否定し、神から自立した精神史的状況の中で生きる人間(=獣)の自己支配・自己統御の試みと、それが自虐へと転ずる逆説を描いている、と言えよう。しかし、人間の神からの自立の試みも、より高次の視点から見れば、実は主人=神の意志の顕現の一つの過程であって(「主人の鞭紐の新しい結び目によってひき起こされた幻想」)、人間の神からの離反ということは本来ありえないのである。

 さらに、このアフォリズムがミレナ体験と関連している事実も、このような解釈の根拠となる。増補改訂版によれば、《ヴェンコフ》紙の記事について言及している手紙とほぼ同じ時期の一九二〇年十一月と推定されている(私はこの日付推定をあとで述べる理由で疑っているが)ミレナ宛の手紙の中で、カフカは信仰問題に関して存在する現象(意識)と真の事態(存在)の間のギャップについて次のように語っているからである。

 

「あなたはそれが理解できないと言います。それに病気という名称を与えて、理解するように努めてごらんなさい。それは、精神分析学が発見したと信じている、数多くの病理現象の一つなのです。私はそれを病気とは呼びません。そして、精神分析学の治療的側面には、救いがたい誤りがあると思います。これらすべての病気と称されるところのものは、それがどれほど痛ましく見えようとも、信仰上の問題なのであり、窮地に置かれている人間が、何らかの母なる大地に錨をおろしている姿なのです。そこで精神分析学でさえも、宗教の根源として見出すものは、個人の《病気》のもとになっているものだけなのです。もっとも、今日では宗教的共同体は失われており、宗教宗派は無数にあり、それらを信じるのは個々人に限定されています。だがひょっとすると、そのこととても、現在にとらわれた目にだけ、そのように見えるということなのかもしれませんが。

 しかし、真の大地をつかまえようとしてこのように錨をおろすという現象は、人間個々人が勝手に取り替えることができる所有物などではなく、彼の本質の中に前もって形成されていて、あとになって彼の本質を(そして彼の肉体を)、この方向へとさらにつくりかえてゆくものなのです。それでもこれを治療しようというのでしょうか?」(MN 292f.; M 246<8:189>)

 

 この手紙(これを「精神分析学書簡」と呼ぶことにする)で話題になっているのはカフカの不安である。ミレナはきっと彼女の手紙の中で、彼の不安は病的で理解できない、とでも書いたのであろう。それに対して彼はこの手紙で、それは病気ではない、と反論する。カフカに言わせると、それは精神分析学が扱うべき病気ではなく、実は「信仰上の問題」である。今日では人々をつなぎ、「必然的な共同生活」を可能にするはずの「宗教的共同体は失われて」いるが、「だがひょっとすると、そのこととても、現在にとらわれた目にだけ、そのように見えるということ」なのかもしれない。すなわち、現象面から見れば、人間は「真の大地」=共同性の根拠となるべき生の形而上的基盤を失い、個々人に分断されて、「必然的な共同生活」を送っていないように見えるが、それは「現世の汚れの染みついた目」に映じている姿であって、人間は本来「不壊なるもの」において一体の存在であるのかもしれない、とカフカは言うのである。つまり、この手紙の中でカフカは、「不壊なるもの」を見失った人類の現象的に現われている姿と、それにもかかわらず真の見方からすれば常に存続しているはずの、「真の人間的本質」における人類の本源的一体性を、遠近法的二元論の立場から同時並存的なものとして描き出している。まさにこれと同じ遠近法的二元論が二九・二番に見られる。すなわち、獣=人間は主人=神から自立し、自分自身で自分の上に鞭をふるって自己支配しているように見えるが、より高次の視点からすれば、実はそれは「神の怒りと神に逆らう者の懲らしめ」であるのかもしれないのである。ただし、このアフォリズムをもって、カフカが積極的な意味で人格神の存在を信じていた、と考えることは短絡的であろう。なぜなら、彼は『考察』五〇番において、「人格神への信仰」は「不壊なるもの」の「隠蔽状態」の一つである、と語っているからである。

 二十九・二番のアフォリズムのこのような宗教的な内容を考慮に入れると、このアフォリズムは《ヴェンコフ》に「鞭打ち苦行」に関する論説が出た十月三日か、その直後に、この記事に触発されて書かれたと考えるのが最も自然である。カフカが手紙で二九・二番を引用した直後にその記事に言及していることも、それを間接的に裏づける。そこで、このアフォリズムの成立した日付けは十月初め(おそらくは十月三日)と推定される。書類束Bが十月初めに書かれたこのアフォリズムを含む以上、それは九月十五日から書き始められた書類束A以前に書かれたとは考えられないのである。

 

書類束Aのアフォリズムと中国の怪談集からの引用

 

 次に書類束Aに書かれている五篇の「・二」のアフォリズムを検討しよう。書類束Aは、先にも述べたように、「一九二〇年九月十五日」という日付の記入によって開始されている。書類束Aに書かれているアフォリズム的考察は、九月十五日が五篇、十六日が一篇、十七日が二篇である。二十一日に書かれているのはアフォリズムというより詩である。このあとは日付もなくなり、アフォリズムよりも創作断片のほうが多くなる。しかし、創作断片の間に時折りアフォリズムが書かれていて、その中のいくつかが『考察』に採用された「・二」のアフォリズムである。

 二六・二番のアフォリズムは九月十七日に書かれている。しかし、日付の記載は九月二十一日をもって終わっているので、これ以外の「・二」のアフォリズムの執筆時期については、書類束Aに書かれている位置から推測するほかはない。

 ところで、ビンダーは論拠(d)のもととなる書類束Aに書かれている短篇作品の成立時期の推定を、次の二点を前提として行なっている。それは、

 

(ア)書類束Aの日付順配列という前提と、

(イ)書類束Aでカフカが「中国の怪談集」から行なっている引用メモ、

 

の二点である。この二点をもとにした彼の推定が正しければ、短篇作品の間に書かれているアフォリズムの成立時期の推定も正しいことになる。

 まず(ア)の問題。書類束Aがカフカが書いた順に配列され、ブロートによって(『彼』の場合のような)余計な手を加えられずに全集版に印刷されているのかどうか、これは難しい問題を含んでいる。というのは、『訴訟』のような一連の長篇小説ならば、各章の比較によってその正しい順番をある程度推定することができるが、断片類の集まりである書類束Aにおいては、日付のついていない紙片が前後に入れ替わっても、その正しい順番を推測することは難しいからである。ただし、ビンダーはカフカの原稿を見て、書類束Aが書かれた順番通りに配列されていると判断する根拠があったのかもしれない。また、あとでも見るように、その最後のほうにそれまでの書類束Aの記述全体を振り返るようなメモがあることから(H 348<3:259f.>)、部分的には多少の前後の移動があっても、書類束全体としてはほぼ執筆順に配列されているものと考えることが許されよう。

 次に(イ)の問題。ビンダーの日付推定のいわば立脚地点になっているのが、書類束Aにおける「中国の怪談集」からの引用である。ビンダーはこのメモの日付を推定し、それまでに書かれた頁数を九月半ばから経過した日数で割って、その間に書かれている作品の成立時期を推定するのである。

 書類束Aには次のような記載がある。

 

(1)「《あなたはいつでも死について語っていますが、なかなか死にませんね。》

 《それでも私は死ぬだろう。私はいま私の辞世の歌を口にしているところだ。ある人の歌は比較的長く、別の人の歌は比較的短い。といっても、その違いはいつでもほんの数語にすぎない。》」(H 334<3:249>)

 

 そしてその数頁後には、

 

(2)「私が一生かけて行なってきたことは、一生を終えたいという欲望に抵抗することであった」(H 338<3:252>)

 

と書かれている。この二つが引用メモであることは、次のようなミレナ宛の手紙からわかる。

 

「ミレナ、あなたはどうしてまだ相変わらず私に対して、不安や嫌悪をいだかないでいたりできるのでしょうか? あなたの真剣さとあなたの力は、何という深みにまで届くのでしょう!

 私はいま中国の本、bubácká kniha(怪談集)を読んでいますが、そこで思い出したのですが、この本は死のことしか扱っていないのです。ある男が死の床に横たわり、死の近さが彼に与えてくれた束縛からの解放の中で、こう言います。《私が一生かけて行なってきたことは、一生を終えたいという欲望に抵抗することであった。》すると弟子が、死のことばかり語っている先生のことを笑って言います。《あなたはいつでも死について語っていますが、なかなか死にませんね。》《それでも私は死ぬだろう。私はいま私の辞世の歌を口にしているところだ。ある人の歌は比較的長く、別の人の歌は比較的短い。といっても、その違いはいつでもほんの数語にすぎない。》」(MN 282f.; M 239<8:184>)

 

 この手紙のことを「怪談集書簡」と呼ぶことにしよう。書類束Aと「怪談集書簡」における引用文の相違は、「あなた」と訳した二人称の人称代名詞が書類束Aでは《du》、ミレナへの手紙では《Du》と小文字、大文字で書かれている違いだけである。

 

引用メモとミレナへの手紙の関係

 

 ビンダーやボルンの実証的カフカ研究によっても、カフカが読んだというこの「中国の怪談集」のタイトルはまだわかっていないようである(6)。これはひょっとするとそのままの引用ではなく、読書に基づくカフカの創作であるのかもしれない。

 ここでカフカはこの本のことを《bubácká kniha》というチェコ語で書いているが、これはチェコ語の本ではなかろう、と増補改訂版の編者ボルンは考えている(7)。カフカがこのようなチェコ語を使ったのは、おそらくミレナがそれ以前の彼女の手紙の中で「幽霊の手紙(Bubácké dopisy・複数)」という言葉を書いたので、それにひっかけて用いたのであろう。増補改訂版では右の手紙の一通前のものと推定されているミレナ宛の手紙の中で、カフカは

 

Bubácké dopisy(幽霊の手紙)――あなたは正しい。しかし、それは本物の幽霊なのです。それはシーツをかぶっているだけではないのです」(MN 281。この箇所もハース版では省かれ、増補改訂版になって補われた)

 

と書いている。《Bubácké dopisy》というチェコ語が書かれているこの手紙のことを「幽霊の手紙書簡」と呼ぶことにする。カフカとミレナの文通では、カフカがドイツ語で、ミレナがチェコ語で手紙を書いた。ミレナはカフカの何通かの書簡のことを「幽霊の手紙(Bubácké dopisy)」と呼んだのであろう。それに対してカフカは「幽霊の手紙書簡」の中で、あなたの言うことは正しい、それはまさに幽霊の手紙なのだ、と答えたわけである。そしてその次の「怪談集書簡」の中で、ミレナが使った「幽霊」というチェコ語を用いて、自分がいま読んでいる中国の本に言及したと考えられる。

 それでは、本来はひとまとまりの対話である中国の怪談集からの引用メモが、書類束の別々の箇所に書かれているのはなぜであろうか。しかも、「私が一生かけて・・・・」という本来ならば前に来るべき文章が、後のほうにメモされているのはなぜか。この問題についてビンダーはこう推理する――カフカは中国の怪談集の読書中に重要と思われる箇所をメモしておいた。だがミレナに対しては、彼は本から直接引用したのではなく、書類束Aのメモを参照して、手紙を書いた。もしミレナへの手紙の引用が、本から直接取られたものであり、手紙を書いた後にこの対話が保存価値のあるものだと考えたのなら、書類束Aでもこの引用は手紙と同じようにひとまとめに書かれていたはずであろう(KK1 245)。つまり、ビンダーの考えでは、

 

α)読書書類束Aの引用メモ引用メモからミレナへの手紙(「怪談集書簡」)への再引用

 

という順番になる。

 まことに鋭い推理だが、ビンダーのこの説明でも、本来ひとまとまりであるべき引用の別々の箇所における記載と、メモの前後の転倒という、右の問いかけはまだ完全には解答されていない。さらに、ビンダーは無視しているが、「私が一生かけて・・・・」という第二の引用の直前に、書類束Aには、

 

「古き時代が私の憧れだった。

現代が私の憧れだった。

未来が私の憧れだった。

これらすべての憧れをもったまま、私は道ばたの番人小屋で死ぬ、

昔からの国有財産である

垂直の棺の中で。

私が一生かけて行なってきたことは、

その一生を打ち壊さないように抑制することであった」(H 338<3:252>)

 

という記載があるが、「私が一生かけて・・・・」という最後の文章は、明らかに中国の怪談集の一節(第二引用メモ)を念頭に置いた文章である。これはいったい何を意味するのだろうか。

 これらの問題は次のように考えて、初めて完全に解決されるであろう――ビンダーが言うように、カフカは中国の怪談集の読書中、記録しておくべき重要な箇所に出くわし、これをメモした。これが「あなたはいつでも死について語っていますが・・・・」という最初の引用メモである。次にミレナへの手紙にこの対話を引用しようとしたとき、書類束Aを参照したが、これをいきなり引用したのでは前後の脈絡が説明不充分であると考えて、直接本に戻り、それを補って手紙を書いた。ミレナにもっと長い範囲を引用したとき、「私が一生かけて・・・・」という先にはメモしておかなかった箇所が、あらためて彼の記憶に残った。この記憶がもとになって彼は、おそらくは無意識なままに、書類束Aに「古き時代が・・・・」という断想を書いた。そしてその最後の文章が中国の怪談集に影響されたものであることに気づき、「私が一生かけて・・・・」という文章も記録にとどめる必要があると考えて、本から書類束Aにメモした。こうして最初のメモと後のメモの順序が入れ替わり、しかも、その間にはしばらく間隔があくことになった。つまり、私の推定では、

 

β)読書第一引用メモ本からミレナへの手紙(「怪談集書簡」)への引用「古き時代が・・・・」の記述第二引用メモ

 

ということになる。

 ビンダーはこの書類束Aの引用メモの日付を「怪談集書簡」の日付推定をもとに割り出し、それを基点にして書類束Aに書かれている短篇作品全体の日付推定を行なっている。つまり、ビンダーの推理の道筋は、「怪談集書簡の日付書類束Aの引用メモの日付書類束A全体の日付」ということになる。したがって、「怪談集書簡」の日付推定が誤りなら、ビンダーのそのほかの推定も全部誤りになるのである。

 ビンダーはハース版の『ミレナへの手紙』をもとに、この「怪談集書簡」を一九二〇年十一月十八日〜二十日と推定した(KK1 246)。このような日付推定の根拠となったのは、ハース版では同じ「怪談集書簡」にあるとされているプラハにおけるユダヤ人迫害についてのカフカの報告である(M 240<8:185>)。この暴動は十一月十五日〜十七日の間に起こっている。ハース版をもとにする限り、ビンダーのような推定にならざるをえない。ところが増補改訂版では、この反ユダヤ暴動に関する箇所は「怪談集書簡」とは別の手紙の一部とされ(MN 288)、この報告を含まない「怪談集書簡」はもっと早く、九月のものと推定されている。ビンダーの推定はその出発点が根本的に間違っていたのである。

 

『ミレナへの手紙・増補改訂版』の日付推定は正しいか

 

 もっとも、ビンダーの推定が誤りであることは、そのまま増補改訂版の推定が正しいことを意味しない。増補改訂版は九月二十日までの手紙は精密に日付の推定を行なっているが(九月半ばまではカフカがほとんど毎日のように手紙を書いていて、しかも手紙には一応曜日だけは記されているので、それが可能なのである)、それ以降は手紙の頻度も減るし、曜日すら書いていないので、日付推定が著しく困難になる。だから、増補改訂版の二七一頁以降の月しか示されていない手紙の日付推定は全面的には信頼がおけない、と私は思う。増補改訂版の編者たちは『ミレナへの手紙』の後書きでも、日付推定の報告書でも(8)、これらの手紙の日付推定の根拠を示していない。彼らも「将来の研究の成果によっては、二、三カ所で配列が訂正されることもありうる」(MN 416)と認めている。

 私が増補改訂版の日付推定を疑うのは、次の理由による。すでにアフォリズム二九・二番の解釈との関連で、「精神分析学書簡」を引用したが、この手紙は増補改訂版では十一月のものと推定されている。この手紙には日付を推定するための手がかりとなる社会的事件やカフカの人生上の出来事(ミレナの広告の件やカフカのサナトリウムへの出発の計画など)が何も書かれておらず、もっぱら彼の内面の不安について述べられているだけである。それなのに増補改訂版はこの手紙をなぜ十一月と推定したのか? 

 実はこの「精神分析学書簡」の草稿が書類束Aに残されている(H 335f.<3:250>)。あるいはこれは、ミレナに手紙を書いたあと、この手紙が重要と考えて、カフカがわざわざ書類束Aに書き写したものかもしれない(両方の文言は若干異なっている)。この手紙草稿は『禿鷹』(これはH 333に位置する)と『舵手』(H 341に位置する)の間に書かれている(Sy 68f.)。書類束Aに書かれた短篇作品の成立時期に関するビンダーの推定によれば、『禿鷹』は十一月初め、『舵手』は十一月半ばに書かれたことになっている(KK1 246)。つまり、増補改訂版はビンダーのこの推定をもとに「精神分析学書簡」を十一月と推定したものと思われるのである(このことから増補改訂版も書類束Aの日付順配列を認めているらしい)。ところが、増補改訂版はビンダーの推定のもとになった「怪談集書簡」に対してビンダーとは別の推定を行なっている。「怪談集書簡」をビンダーとは異なった時期に推定するならば、書類束Aの作品の成立時期に関するビンダーの推定もすべてご破算にしなければならないはずである。そうすると、「精神分析学書簡」も十一月とは推定できなくなる。

 あるいは、増補改訂版はビンダーの推定とは無関係に、「精神分析学書簡」と「ヴェンコフ書簡」(十一月半ば)には「アレクサンダー大王」という共通のイメージが出てくるので、両方の書簡を同じ時期のものと推定したのかもしれない。しかし、ビンダーと異なる理由でそうしたのではあっても、その結果がビンダーの間違った推定と同じになったのでは、次で見るように、やはり書類束Aの執筆状況をうまく説明できなくなるのである。

 この「精神分析学書簡」の草稿は書類束Aにおいて、中国の怪談集の第一引用メモと第二引用メモの間に書かれている。すなわち、その配列は、

 

γ)「あなたはいつでも死について語っていますが、・・・・」(第一引用メモ―H 334「精神分析学書簡」の草稿(H 335f.)→「私が一生かけて・・・・」(第二引用メモ―H 338

 

である。これら三つの記述は全集版で五頁以内にあり、書類束Aの時間順配列を前提にすれば、いずれにせよかなり近い時期に書かれたことは確かである。ここで(β)の配列を見ていただきたい。「怪談集書簡」も第一引用メモと第二引用メモの間に挟まっている。つまり、書類束Aにおける位置を根拠にする限り、「精神分析学書簡」と「怪談集書簡」はほぼ同じ時期のものと推定せざるをえない。ところが、増補改訂版は「精神分析学書簡」を十一月、「怪談集書簡」を九月とまったく別々の時期に推定している。このことは増補改訂版における「精神分析学書簡」の日付推定が誤りであるか、「怪談集書簡」の日付推定が誤りであるか、それともその両方が誤りである、ということを意味する。

 しかし、「怪談集書簡」には、

 

「それはそうと、秋までが私をからかっているようで、妙に暖かかったり、妙に寒かったり感じられることがよくあります。しかし、私は調べてみることはしません。[体調が]そうひどいことにはならないでしょう」(MN 281; M 238<8:183>)

 

という一節がある。カフカが「咳と呼吸困難」がひどくなってきた、と訴え始めるのは十月二十二日のミレナ宛の手紙である(MN 284)。また「怪談集書簡」ではグリメンシュタインとウィーンのサナトリウムの件について語られている。これらの事実関係から判断すると、増補改訂版の「怪談集書簡」の日付推定はそれほど大きく間違っているとは思えない。とすると、間違っているのは「精神分析学書簡」のほうである、ということになる。

 

「幽霊」の正体

 

 さてここで、「幽霊の手紙書簡」の「幽霊」の正体について考えてみよう。先にも述べたように、この手紙が「怪談集書簡」の前に書かれた手紙であることは確実である(増補改訂版でもそのように配列されている)。なぜなら、ミレナが最初「あなた(=カフカ)の手紙は幽霊の手紙(Bubácké dopisy dopisy)だ」と書き、それに対してカフカが「それはまさに《幽霊の手紙(Bubácké dopisy dopisy)》だ」と答え、そのあとで彼が前に書いたチェコ語を利用して、「怪談集(bubácká kniha )」というチェコ語の表現を用いた、と考えられるからである。それでは、ミレナが「幽霊の手紙」(複数)と名づけたカフカの手紙はどの手紙なのだろうか? その一通は「精神分析学書簡」である、というのが私の推論である。なぜなら、この手紙は先に引用した箇所のあとに、さらに以下のように続いているからである。

 

「私の場合には三つの円環が考えられます。いちばん内側からA、B、Cとします。中核のAは、この人間がなぜ自分を苦しめ、自分に不信の念をもたねばならないか、なぜ断念しなければならないか[・・・・]、なぜ生きることが許されないか、それをBに説明します。(たとえばディオゲネスはこうした意味では重病ではなかったでしょうか。アレクサンダー大王の光り輝く眼差しがついに自分の上に注がれるということになって、私たちのうちの誰が幸福にならないことがありましょうか? しかしディオゲネスは絶望して、太陽を、変わることなく燃え続け、人を狂気にするこの恐ろしいギリシアの太陽を邪魔しないようにどいてほしいと、大王に頼んだのでした。彼の住んでいた樽は幽霊どもでいっぱいだったのです)。行動する人間であるCには、もはや何も説明されません。ただBが命令するだけです。[・・・・]」(MN 293; M 246f.<8:190>)

 

 ミレナはカフカが自分の不安=幽霊について語るこの手紙を「幽霊の手紙」と呼んだ。それに対してカフカは、「幽霊の手紙書簡」で「それは本物の幽霊なのです。それはシーツをかぶっているだけではないのです」と答えた(カフカのユーモアである)。すなわち、カフカが最初「精神分析学書簡」を書き、それをミレナが「幽霊の手紙(Bubácké dopisy)」と名づけ、その「幽霊」にひっかけて、カフカは中国の怪談集を《bubácká kniha》とチェコ語で呼んだのである。

 このように考えると、「怪談集書簡」の一節で「ミレナ、あなたはどうしてまだ相変わらず私に対して、不安や嫌悪をいだかないでいたりできるのでしょうか? あなたの真剣さとあなたの力は、何という深みにまで届くのでしょう!」と書いているのも理解できる。「精神分析学書簡」と「幽霊の手紙書簡」で、自分は本物の幽霊にとりつかれているのだ、と脅したにもかかわらず、アレクサンダー大王=ミレナが、樽の中で幽霊にとりつかれているディオゲネス=カフカを、その愛情と生命力によって救出しようとする勇気をカフカは賛嘆しているのである。

  以上をまとめると、これまで論じてきた文書は次のような順番に配列される。

 

δ)「中国の怪談集」の読書「中国の怪談集」からの第一引用メモ(書類束A[H 334]「精神分析学書簡」(書類束Aのほぼ同じ草稿[H 335](この手紙をミレナが「幽霊の手紙」と呼ぶ)「幽霊の手紙書簡」(カフカはそれに対して、まさにその通りだ、と答える)「怪談集書簡」(「幽霊」というチェコ語を使って「中国の怪談集」について言及する)ミレナへの手紙への引用がきっかけになって「中国の怪談集」からの第二引用メモ(書類束A[H 338]

 

 以上では、書類束Aとミレナへの手紙における「中国の怪談集」からの引用が本当に「引用」である、という前提で議論を進めてきた。しかし、前にも触れたように、この「引用」が実はカフカの創作であるという可能性もなくはない。そうするとどういうことになるであろうか? その場合、「怪談集書簡」における師と弟子の対話の「引用」は、書類束Aにおける二つの記述を結合したものと考えることが最も自然である。すなわちそのときは、まず書類束Aの二つの「引用(実は創作)」メモが成立してから、怪談集書簡が書かれた、ということになる。そうすると、配列はこうなる。

 

ε)第一「引用(実は創作)」メモ(書類束A[H 334]「精神分析学書簡」(書類束Aのほぼ同じ草稿[H 335]第二「引用(実は創作)」メモ(書類束A[H 338]「怪談集書簡」への対話の引用

 

この場合、「幽霊の手紙書簡」がどの位置に入るのかは精確には確定できない。しかし、上に述べたような「幽霊」というチェコ語を用いたカフカとミレナのやりとりから判断して、この書簡はやはり「精神分析学書簡」と「怪談集書簡」の間に来るとしか考えられない。そうすると、三つの書簡の順番それ自体には変更は生じないことになる。

 「精神分析学書簡」、「幽霊の手紙書簡」、「怪談集書簡」は内容的に関連した一連の手紙であるから、「中国の怪談集」からの二つの引用メモと「精神分析学書簡」の草稿が書類束Aで近接しているのは不思議ではない。しかし、増補改訂版のような日付推定をすると、書類束Aにおけるこのような位置関係を説明できなくなる。私の推定では「精神分析学書簡」は九月下旬、「幽霊の手紙書簡」は九月終わり/十月初め、「怪談集書簡」は十月上旬に書かれた。私の見るところでは、増補改訂版には手紙の配列に、したがって日付の推定にもまだいくつかの誤りがあるように思われる。しかし、私の推定の根拠を説明すると、議論があまりに細部にわたり、しかも紙幅も大幅に増えることになるので、それは別の場所に譲ることとして、ここでは以上の議論だけでも、増補改訂版といえども全面的に信頼できるものではないことは論証できたであろう。

 いずれにせよ、ビンダーが作品の成立時期の推定の根拠にした「怪談集書簡」の日付推定が間違っていた以上、彼が『カフカ注解』で行なっている短篇作品の成立時期の推定のうち、書類束Aに書かれている作品については全面的な見直しが必要かと思われる。ビンダーの推定が信頼できないものになった以上、論拠(d)は成立しないことになる。

 しかし、論拠(d)によらずとも、これまでの議論から「・二」のアフォリズムの成立時期はかなり正しく推定できる。「・二」として『考察』に採用されたアフォリズムのうち、書類束Aのいちばん後ろのほうに出てくるのは五十四・二番で、これはH 330に書かれている。これは「精神分析学書簡」の草稿(H 335f.)の少し前にあるから、九月下旬に書かれたものと推測できる。すると、その他の書類束Aの「・二」のアフォリズムもそれ以前、すなわちやはり九月十七日から九月下旬の間に書かれた、ということになる。

 ただし、以上の推論は、書類束Aが執筆順に配列されている、という大前提に基づいてなされている。もし、中国の怪談集からの二つの引用メモや「精神分析学書簡」の草稿などの書かれている紙片に前後の移動があれば、私の推論は根本的に過ちということになる。確実なことは結局原典批判版の完成まで待たなければならないであろう(ただし、原典批判版でも正しい推定を行なえる、という保証はないが)。

 

三九a・二番と一〇九・二番

 

 なお、三九a・二番、一〇九・二番の二つのアフォリズムは書類束AとBに書かれていない。この二篇は、それが書かれていた原稿が紛失したのだろうか。これが考えられる最も自然な推測である。この二篇については、残念ながら確実な日付の推定はできない。ただし、三九a・二番については推測の手がかりがないわけではない。三九a・二番ではすでに検討したように、「アレクサンダー大王」と「大地の重力」の問題が取り扱われているが、実はこの二つはミレナへの手紙に頻出するモティーフなのである。

 「鞭打ち」に関する二九・二番のアフォリズムの引用のある十一月半ばの「ヴェンコフ書簡」で、カフカは「アレクサンダー大王は、ゴルディウスの結び目がどうしても解けなかったとき、それを拷問にかけたりはしませんでした」と書いている。またすでに見たように、九月下旬の「精神分析学書簡」でも、「アレクサンダー大王の光り輝く眼差しがとうとう自分の上に注がれるということになって、私たちのうちの誰が幸福にならないことがありましょうか?」という一節があった。これらのアレクサンダー大王像の背後にはいずれも、力強い生命力と断固たる意志力を持ったミレナのイメージがある。

 また、二人の恋愛が決裂の危機を迎える頃から、カフカの手紙にはしきりに「重い」という表現が出てくるようになる。カフカは一九二〇年九月十四日彼女に宛てて、「今日はまだそのことについて詳しくは書けません。特に疲れているからというのではなく、私自身が《重い》からです」(MN 259; M 221<8:170>)、さらに「書かなければ、私はただ疲れて、悲しく、重いのです」(MN 261; M 223<8:171>)と書いている。九月二十日には、

 

「午後にはベッドから起き上がれませんでした。疲れすぎていたからではなく、あまりに《重かった》からなのです。いつでも同じこの言葉を使いますが、これが私にふさわしい唯一の言葉なのです。あなたにはそれが本当にわかるでしょうか? 舵を失ってしまった舟が波に向かって、《私は私にとっては重すぎるが、君たちにとっては軽すぎる》と言うときの《重さ》のようなものです。しかし、これもすっかり当たっているわけではありません。比喩ではうまく表現できないのです」(MN 269; M 228<8:175>)

 

と書いている。三九a・二番のアフォリズムにおいて、カフカはいわば自分が感じている《重さ》という属性をアレクサンダー大王にも付与しているわけである。

 また、アフォリズムで使われているのとまったく同じ「大地の重力」という言葉は、書類束Bの創作断片に出てくる。

 

「雨のそぼ降る日。お前は光る水溜りの前に立っている。疲れてはおらず、悲しげでもなく、もの思いにふけっているわけでもない。お前は大地の重力にすっかりひたされて、ただそこに立ちつくし、誰かを待っている。そのとき、お前にはある声が聞こえる。[・・・・]」(H 362<3:269f.>)

 

先に行なった書類束Bに関する私の推定が正しければ、この断片もおそらく九月半ば以降のものと思われる。

 以上のことから、このアフォリズムがミレナとの恋愛(の破局)をきっかけに成立したものであることが推測される。彼が正確にはいつの時点でこのアフォリズムを書いたのかは判定できないが、いずれにせよ上の幾通かの手紙や創作断片の執筆時期とさほど遠くない、九月中旬〜十一月と推定することが許されよう。

 残る一〇九・二番については何の手がかりもないが、これも他のアフォリズムと同じ時期に書かれたものと推測することが最も自然であろう。そしてこれが『考察』最後のアフォリズムであることを考えると、カフカが『考察』の編纂の最後の段階で、いわば『考察』の締めくくりとして一〇九番の紙片に直接このアフォリズムを並記した可能性もなくはない。

 以上をまとめると、八篇の「・二」のアフォリズムはすべて九月中旬〜十一月に書かれた、ということになる。

 

書類束Aと八折判ノートの関連

 

 以上の検討によって、「・二」のアフォリズムの成立時期はほぼ推定できた。残る問題は論点の(a)、すなわちカフカが八月の時点ですでに『考察』の編集作業に入っていたかどうか、という問題である。すでに述べたように、ビンダーはそう考えているし、ビンダーの説を踏襲するグレイも同じ見解である(Gray 220)

 カフカがブロートに手紙を書く際に、昔の八折判ノートを参照したということは充分に考えられる。ただし、参照したということは、その当時すでに彼が『考察』の編纂を開始していたことと同じではない。ビンダーは「・二」のアフォリズムが新規作成であることを知らなかったので、八月七日のブロート宛の手紙におけるアフォリズムへの言及も、書類束Aの「・二」のアフォリズムも、いずれも「引用」であると考えて、その間に区別を設けなかった。しかしこれまで見てきたように、書類束AとBの「・二」のアフォリズムはすべて九月中旬以降に成立しており、八月終わりから九月十四日の間にはもっぱら文学的創作が行なわれるだけで(青の四折判ノートと書類束C)、一篇のアフォリズムも書かれていない。ブロート宛の手紙におけるアフォリズムの引用は、カフカが八月初めの時点でアフォリズムの制作やアフォリズム集の編纂に取りかかっていたことを示すものではなく、別の事態を意味すると考えたほうが自然であるが、この問題については、第五章で検討することにする。

 私は『考察』の編纂作業は次の二段階から成り立つものと推測する。

 

(一)カフカは九月半ばに八折判ノートを読み直し、八折判ノートのモティーフをもとに、新たなアフォリズムと文学作品の執筆を行なった。

(二)さらにある時点から、八折判ノートG、Hのアフォリズムに推敲を加えるとともに、そこから適切と思われるものを選抜してアフォリズム集『考察』の編集を開始し、そこに新たに成立した「・二」のアフォリズムを付加した。

 

 以下において、私のこのテーゼを論証してみたい。

 従来はっきりと主張されなかったことであるが、九月中旬以降に書かれた書類束Aは、実は八折判ノートと密接な関係を持っている。書類束Aは八折判ノートの読み直し、あるいはさらに書き直しの結果として成立したと考えることができる。この時期にカフカが八折判ノートに戻ったと考えられるのは、次のようないくつかの状況証拠が存在するからである。

 その第一は八折判ノートと書類束Aの間の著しい類似性である。書類束Aのいくつかの記述は八折判ノートの記述の書き直しと見られる。

 

(1) その第一は書類束Aに書かれている『ポセイドン』という短篇である。書類束Aの位置から、ビンダーはこの作品の成立時期を九月の第三週と推定しているが(KK1 243)、これは書類束Aでは、九月二十一日の日付よりも少しあとに(H 304<3:227>の場所)書かれているから(Sy 68)、正確には九月の第四週とすべきであろう(一九二〇年九月のカレンダーを参照のこと)。

 

1920年9月

日  月 火 水 木 金 

       1   2   3    4

5    6   7   8   9  10   11

12  13  14  15  16  17  18

19  20  21  22  23  24  25

26  27  28  29  30

 

 この作品は「ポセイドンは仕事机に向かって計算をしていた・・・・」(B 97<2:79>)という文章で始まるが、これはカフカがチューラウで盛んに行なったギリシア神話の書きかえ(例えば『ジレーネの沈黙』や『プロメテウス』)の系列に属する作品である。つまり、この作品のスタイルが八折判ノートに記されている短篇作品と同じ特徴を示している。このような作品スタイルは、「青の四折判ノート」や書類束Cには全然出てこない。

 ところで八折判ノートE(第五のノート)には、

 

「彼はせっせと計算にとりかかっていた。膨大な数字の縦列。時折り彼はそれから目をそむけ、顔を手の中にうずめた。この計算からどんな結果が出てくるのか? 憂鬱な、憂鬱な計算」(H 134<3:101>)

 

という記載がある。

 さらに八折判ノートHには、

 

「ポセイドンは自分の支配している海にいやけがさした。三叉の鉾が彼の手から落ちた。彼が静かに岩の海岸に座っていると、彼がいることに幻惑されて、カモメが一羽、彼の頭のまわりを、不安定な円を描いて飛んだ」(H 128<3:97>)

 

というポセイドンに関する短い記述がある。書類束Aの『ポセイドン』という短篇は、カフカが昔の八折判ノートを見直した際に、八折判ノートEとHの記載に刺激を受けて、そこに出てくる「計算」と「ポセイドン」の両方のモティーフを結合する形で書いた作品ではないか、と推測できる。

 

(2) これと似ているが、書類束Aで『ポセイドン』の少し前に書かれている(Sy 68)『町の紋章』という短篇には、バベルの塔の建設が人間の天に登ろうとする形而上的な努力の象徴として肯定的に描かれているが(9)、これは八折判ノートGに書かれている

 

「バベルの塔の建設も、塔に登らないで建てることができたなら、許されたことであろう」(『考察』一八番)

 

というアフォリズムを読み直したときに、それに触発されて書かれたものと見ることができる。あるいは、八折判ノートA(第七のノート)に書かれている『墓守り』にもバベルの塔のモティーフが出現するし、八折判ノートC(第六のノート)に書かれている『万里の長城が築かれたとき』では、長城の建設とバベルの塔の建設が比較されているから、『町の紋章』はこれらの作品に触発されたものかもしれない。この他にも、書類束Aの断片には「棺」や「番人」などすでに八折判ノートで用いられているいくつかのイメージ(H 146<3:110>)が再出現している。

 

(3) 書類束AのH 324-327<3:241-243>には、中国を舞台にした作品断片が数多く書かれている。ブロートが完成した作品として『ある戦いの記録』に収録した『拒絶』、『掟の問題』、『徴兵』もこの場所に書かれているが(Sy 68)、これらの作品も同じ系列に属する。このような中国関係の物語は、カフカがこの当時読んだ「中国の怪談集」の影響とともに、八折判ノートCの『万里の長城』に触発された可能性がある。

 

(4) 短篇作品だけではなく、書類束Aのアフォリズムの中には、八折判ノートのアフォリズムを見直した結果として書かれたと見られるものがある。その第一は二六・二番のアフォリズムである。このアフォリズムは、すでに指摘しておいたように、書類束Aと『考察』ではその文言が少し違う。グレイは、カフカは書類束Aに書いたもとの形を『考察』の紙片に書き写すとき、それにさらに推敲を加えたと見ている(Gray 227)。もっとも、これは二六・二番だけでなく、大部分の「・二」のアフォリズムは書類束と『考察』では若干形が変わっている。

 書類束Aではこのアフォリズムは最初は、

 

「目標があるだけで、道はない。我々が道と呼ぶものは逡巡である(Es gibt nur Ziel, nicht Weg.  Was wir Weg nennen, ist Zögern.)

 

と書かれていた。書類束Aでカフカは《Ziel》の前に《ein》という語を挿入し、《nicht》を《keinen》にかえた。これはアフォリズム執筆直後の修正であろう。現在のブロート版全集の「断片」に載せられているのはこの修正された形である。

 

Es gibt nur ein Ziel, keinen Weg.  Was wir Weg nennen, ist Zögern.(H 303)

 

 紙片に書かれた『考察』の最終的な形は、《nur》が取られ、《aber》が挿入され、

 

Es gibt ein Ziel, aber keinen Weg; was wir Weg nennen, ist Zögern.

 

となっている。つまり、このアフォリズムは三段階にわたって書き直されていることになる。このことは、二六・二番のアフォリズムは成立直後にではなく、しばらくたってから『考察』の紙片に並記されたことを示唆する。なぜなら、成立直後に紙片に書かれたのであれば、二番目の形が『考察』に採用されていたはずであるからである。

 ところで、八折判ノートHの中には、これときわめて似た内容のアフォリズムがある。それは「志向と体験」と題されたアフォリズムである(10)

 

「《体験》が絶対者の中に休らうことであるならば、《志向》は世界を通って絶対者に至る迂回路(Umweg)にすぎない。すべてのものは目標(Ziel)に到達しようとするが、目標はただ一つ(eines)である。」(H 116<3:88>)

 

 書類束Aのアフォリズム二六・二番は、「志向と体験」のアフォリズムを読み直し、新たに書きかえたものと見ることができる。

 

(5) やはり書類束Aの九月十七日には、二六・二番のアフォリズムのあとに、次のアフォリズムが書かれている。

 

「私はかつて、他の人々の存在、視線、判断が私に負わせた責任以外の責任の重みを受けたことはない。」(H 303<3:227>)

 

 これは八折判ノートHの次の記載の見直しの結果生まれたものだと思われる。

 

「お前にすべての責任が負わせられると、お前はこの機会をすかさず利用して、責任につぶされてしまおうとすることもできる。しかし、そうしてみようとすると、お前には何も負わせられてはおらず、お前がこの責任そのものにほかならないことに気づくのだ。」(H 106f.<3:80f.>)

 

(6) 書類束Aの最後近くにあるアフォリズム――

 

「これは書き割りの間で行なわれる人生だ。明るくなると、戸外の朝である。するとすぐに暗くなり、もう夜である。なにも複雑なごまかしが行なわれているわけではないが、舞台の上にいる以上はこれに従わなければならない。ただし力がありさえすれば、背景のほうに向かって突進し、幕を引き裂き、描かれた空の切れ端の間から脱出することは許されている。すると二、三のがらくたを飛び越えて、狭くて暗い本物の路地に逃げ出すことになる。これは劇場に近いために、まだ相変わらず劇場通りと呼ばれてはいるものの、真実であって、真実の持つあらゆる深みを備えているのである」(H 351<3:261>)

 

は、八折判ノートHの八篇のキルケゴール・アフォリズムのひとつ――

 

「それはちょうど、普遍と個の間の行き来が現実の舞台で行なわれるのに対して、普遍的なものの中での生は、ただ舞台背景の書き割りに描かれるようなものだ」(H 124<3:94>)

 

に触発されたものと思われる。

 

 以上のような対比から、書類束Aは八折判ノートの見直しの結果として書き始められた、と推測することができる(八折判ノートとの関連を思わせるアフォリズムや短篇作品は、特に書類束Aの最初の部分に多い)。

 そして第二の証拠は――これは状況証拠というよりも、物的証拠と言うべきであろうが――八折判ノートHに挟み込まれていた次の二枚の紙片である(KSA 24)。その第一は「九月十七日金曜日」という日付のカレンダー用紙である。このカレンダーには年号は入っていないが、九月十七日というのは、これまでも何度か言及したことのある日付、すなわち書類束Aに二六・二番のアフォリズムが記された日である。そして、先に掲載した一九二〇年九月のカレンダーをご覧いただきたい――この年の九月十七日は金曜日なのである! 一九二〇年九月十七日金曜日のカレンダー用紙が八折判ノートHに挟み込まれていたという事実は、このアフォリズムが九月十七日にカフカが八折判ノートHを見直した結果成立したという、内容的な比較から行なった先の推測を裏づける決定的な証拠である。さらに、挟み込まれていた第二の紙片は、14.45cm x 11.45cm の大きさで、そこに 0.9cm x 0.4cm の水色の長方形の格子が入っている。この第二の紙片は、書類束A(そしてBとC)の用紙(28.8-29.0cm x 22.8cm)を四分の一に切ったものにほかならない。この二枚の紙片は、カフカが九月十七日(頃)に八折判ノートHを参照しつつ書類束Aを書いたことを証言している。

 以上の議論によって、書類束Aが八折判ノートの見直しをもとに書き始められたことは完全に立証されたであろう(11)

 

書類束Aの執筆状況

 

 このように、書類束Aは八折判ノートと密接な関連をもって書き始められた。ただし、八折判ノートの見直しをすぐに『考察』の編纂作業と結びつけることは正しくないだろう。なぜなら、九月半ばからすぐに『考察』編纂のためにアフォリズムを選抜し、アフォリズムを推敲する作業に入ったとしたならば、なぜ八折判ノートをもとにした短篇作品が数多く書かれたのかが理解できなくなるからである。八折判ノートを見直した当初の目的には、単にアフォリズムだけではなく、文学作品の執筆も含まれていたと見なければならない(アフォリズムと短篇作品の関連については次章で考える)。さらに、書類束Aに書かれている五篇の「・二」のアフォリズムのすべてが、『考察』では文言が変えられている(推敲されている)ことも、「・二」のアフォリズムの最初の執筆と紙片への書き写しの間には、しばらくの時間の間隔があったことを示唆している。

 しかし、カフカはある時期から書類束への執筆だけではなく、八折判ノートのアフォリズムを『考察』へと編纂するための、推敲と選抜の仕事に取りかかったものと思われる。この時期がいつであるかを特定することは困難である。ただし、以下に述べるような書類束Aの執筆状況から、手がかりがまったくないわけではない。

 もし、私が先に行なった「精神分析学書簡」の日付推定(九月末)が正しいとすれば、九月十五日からの約二週間の間に、カフカはブロート版全集にして三十五頁分を書類束Aに執筆したことになる。その上さらに、全集版の「断片」には載せられていないが、ブロートによって完成した作品として『ある戦いの記録』の巻に掲載された『町の紋章』、『ポセイドン』、『夜』、『拒絶』、『掟の問題』、『徴兵』、『試験』、『禿鷹』もこの間に書かれている。これらの短篇作品を全集版の頁に直すと約十三頁になる。

 ビンダーは彼の『カフカ注解』で、これらの作品群は九月第三週から十一月第一週までの間に書かれたものと推定しているが、書類束Aに関する私の分析によれば、右の作品はすべて九月半ばから九月末の間に書かれたことになる。これだけ多くの作品や創作断片をカフカがこのような短期間に書いたと考えることは不自然であろうか? 私は必ずしもそうは思わない。すでに述べたように、八月下旬からのカフカの文学的助走は、「青の四折判ノート」と書類束Cであると考えられるのだが、これらの分量はブロート版全集で合計約三十七頁になる。三週間でこれだけの分量を書いたとすると、このような「口をほぐす」助走のあとに、精神集中と創作意欲が高まり、筆の運びが滑らかになれば、二週間で三十五+十三=四十八頁を書くことは不可能ではない。そもそもカフカはインスピレーションにまかせて一気に書くタイプの作家である。『判決』はブロート版全集で十五頁あるが、カフカはこれを一晩で書き上げている。カフカが几帳面な学生のように、長期間にわたって毎日少しずつ一定の分量を書いたと考えるビンダーの想定のほうが不自然である。

 次に、書類束Aがいつ頃まで記入されていたのか、という問題を考えてみたい。書類束Aはおそらく十二月十八日のホーエ・タトラのサナトリウムへの旅立ち近くまで書かれていたと推測できる。というのは、書類束Aの終わりには、十一月下旬のものと思われるもう一カ所の時期推定が可能な記述があるからである。それは次の有名なアフォリズムである。

 

「告白と嘘は同じものである。告白できるために、人は嘘をつく。人がそれであるところのものは、表現できない。なぜならば、人はまさにそのもの自体であるからだ。伝達できるのは、人がそうでないところのものだけである。コーラスの中にはじめてある種の真実があるのかもしれない。」(H 343<3:256>)

 

 これは十一月に書かれた次のミレナへの手紙と密接に関連している(増補改訂版はこの手紙をただ十一月としか推定していないが、私は十一月末のものと考えている)。

 

「今日は手紙が二通来ました。もちろんあなたの言うとおりです、ミレナ。自分の書いた手紙が恥ずかしくて、あなたの返事を開ける勇気もないほどです。でも、私の手紙は真実であるか、あるいは少なくとも真実に至る途上にはあるのです。もし私の手紙が嘘で書かれたものならば、あなたの返事を前にして私はどうなることでしょう。答は簡単です――気違いになることでしょう。ですから、こうして真実を語るということは、格別大きな功績というわけではありませんし、それにごくわずかな量しかありません。私はたえず、何か伝達不可能なものを伝達し、説明不可能なものを説明し、自分の骨の中にあるもの、そしてこの骨の中だけでしか体験できないものを、物語ろうと努めているだけなのです。結局のところ、それはもう何度も話に出ている例の不安以外の何ものでもないのかもしれません。ただ、その不安がありとあらゆるものに拡大し、最大のものに対しても、最小のものに対してもいだく不安であり、たった一言を口に出すことに対する痙攣的な不安なのです。もっとも、この不安はおそらくただ単に不安であるばかりではなく、すべての不安をひき起こすもの以上である、何ものかに対する憧れでもあるのかもしれません

 《私にあたって砕ける》――これはまるで無意味なことです。罪があるのは私だけで、その罪は私の側に真実があまりに少なかったことにあるのです。いつまでたっても真実が少なすぎ、いつまでたってもほとんど嘘ばかり。私自身に対する不安と、人間に対する不安から生まれた嘘ばかり。この壷は、泉のほとりにつくずっと以前に、とっくに砕けていたのでした。そして今度は、少しばかり真実のそばにとどまるために、口をつぐみます。嘘は恐ろしい。これよりひどい精神的な苦痛はありません。」(MN 296; M 249f.<8:192>)

 

 書類束AとBがミレナへの手紙と密接に関連していることは、すでに鞭打ちのアフォリズム、中国の怪談集からの引用メモ、あるいは「精神分析学書簡」の草稿などのことを考えてみれば明白である。右のミレナへの手紙では、「自分の骨の中にあるもの」=「人そのもの自体」を伝達する努力、真実を語る=告白する努力が、たえず嘘に転化してしまう逆説が訴えられているが、書類束Aの告白と嘘に関するアフォリズムは、まさにミレナ体験から生まれたアフォリズムだと見なければならない。そうすると、このアフォリズムもこの手紙と同じ時期、つまり十一月末に書かれたということになる。

  以上のことから、書類束Aの執筆の仕方には、九月下旬までとそれ以降の間では、著しいアンバランスがあることが明らかになる。「精神分析学書簡」の草稿に至るまでは、完成した作品も含めて、書類束Aは全集版にして約四十八頁書かれている。これに対して、「精神分析学書簡」の草稿のあとの書類束Aの残りはわずか十八頁しかない。また書類束Bは全集版にして約二十二頁分ある。すると、「精神分析学書簡」草稿のあとの執筆量は、書類束Bがすべて十月以降に書かれたとしても、二カ月半で全部で四十頁にしかならない。これは九月後半の二週間の創作量に比べれば、その期間の割には著しく少ないと言わなければならない。

 

『考察』の編集時期

 

 明らかに、書類束Aには九月下旬/十月初旬にある種の仕切が入っている。「精神分析学書簡」の草稿(九月末)と、告白と嘘に関するアフォリズム(十一月末)の間の二カ月間には、わずか七頁余りしか書かれていない。その間、書類束Bが書かれていたとしても、あまりにも少ない執筆量である。カフカはこの期間何をしていたのか。私はここに『考察』の編纂を見る。すなわち、私の推測はこうである――カフカは九月中旬以降、八折判ノートを参照し、それに刺激を受けて新たなアフォリズムや短篇作品を集中的に書いたのであるが、ある時期から、創作よりも『考察』というアフォリズム集の編纂作業のほうに重点を移し、その結果書類束Aに書かれる分量が少なくなった。あるいは、創作意欲が減退してきたから、アフォリズム集の編纂に取りかかったのかもしれない。いずれにせよ、新たなアフォリズムや文学作品が次から次へと書かれていた九月後半には、昔のアフォリズムを推敲し、紙片に書き出し、さらにタイプで清書するなどという仕事をする気にはならなかったであろう。

 私は創作から編纂への重心の移動は、上に述べたような書類束Aの執筆状況から、十月の初旬に訪れたものと推測している。またこれは次章で論ずることであるが、このような推測はカフカの伝記的な事実によっても支持されることになる。その結論を先取りして言えば、『考察』の成立にはカフカのミレナとの関係が決定的な役割を演じている。二人の関係はまず九月十五日に重大な危機を迎え、カフカはこの日ミレナに文通をやめることを提案する。これを転機としてカフカは八折判ノートに戻り、書類束Aの記入を開始した。さらに十月の初めに、しばらくミレナから手紙が来なくなるというもう一つの小さな転機が訪れた。これがきっかけになって、カフカは『考察』の編纂を開始したものと思われる。

 そしてその作業はおそらく十二月まで続いた。というのは、告白と嘘に関するアフォリズムより五頁あとに、次のような一連の記述があるからである。

 

「チューラウとプラハの間の相違。あのころ私は充分に戦わなかったのだろうか?

 

 彼は充分に戦わなかったのだろうか? 彼が仕事を始めたとき、彼はすでに敗れていた。そのことは彼も知っていて、彼は自分にはっきりと言ったのだ――仕事をやめれば、負けだぞ、と。それでは、彼が仕事を始めたことがそもそも誤りなのか?  そんなことはない。

 

 彼は一つの彫像を彫り上げたと思っていた。しかし、実のところ、ただ同じ刻み口をいつまでも鑿でたたいていただけだった。それも頑迷さのためだが、さらにはむしろ途方にくれてやったことであった。」(H 348f.<3:259f.>)

 

 この記載は書類束Aのかなり最後に近いところにある。おそらく十二月初旬/中旬のものだろう。右の第一の記入では、カフカは『チューラウ・アフォリズム』を一つの精神的な戦いと見なして(これは八折判ノートG、Hにも頻繁に見出されるモティーフである)、それをプラハと比較している。「プラハ」とはおそらく、ミレナとの関係の決裂以後の、プラハにおける精神的戦いの記録である書類束AとBの記載のことだろう。その次の記入では、精神的戦いの主体が「私」という一人称から「彼」という三人称に置き換えられている。第三の記入においては、この戦いが今度は「彫像を彫る」という別のイメージに変換されている。これらはいずれも『チューラウ・アフォリズム』のことを振り返っている断想である。このように彼がこの時期『チューラウ・アフォリズム』を回顧しているということは、彼がそのとき八折判ノートからアフォリズムを選び出し、『考察』の編集を行なっていたことを示す間接的な証拠になるであろう。そしてもし私の想像が正しければ、この「チューラウとプラハ」の比較は、『考察』の編纂がほぼ終わった(「彼は一つの彫像を彫り上げた」)段階で書かれたものであろう。だが、十二月十八日のホーエ・タトラへの旅立ちによって、編纂作業は中断され、『考察』は結局まとまった形では完成されなかった。

 以下では、カフカがこの時期になぜ『考察』の編纂を行なったのかという問題を、彼の伝記を背景にして考えてみたい。

 

 

 

(1)  KK1 = Hartmut Binder, Kafka-Kommentar zu sämtlichen Erzählungen, München 21977.

(2)  ビンダーは『カフカ注解』で「五〇番」のアフォリズムと書いているが(KK2 407)、これは「六九番」の間違いであろう。

(3)  KSA = Franz Kafka, Das Schloß. Kritische Ausgabe. Apparatband. Hrsg. von Malcolm Pasley, Frankfurt/M. 1982.

(4)  Manfred Lurker, Wörterbuch biblischer Bilder und Symbole, München 21978, S. 257<ルルカー著(池田訳)『聖書象徴事典』(人文書院、一九八八年)、三六五頁>

(5)  Ibid., S. 258<366>.

(6) Weiyan Meng, Kafka und China, München 1986, S. 61.

(7)  Ibid.

(8)  J. Born/M. Müller, Kafkas Briefe an Milena. Ihre Datierung, in: Jahrbuch der Deutschen Schiller-Gesellschaft, Nr.25 (1981), S. 508-532.

(9) この点については拙稿「カフカの『万里の長城』における民族、国家、宗教」、『思想』(岩波書店)第七九六号(一九九〇年一〇月)、一二〇頁以下を参照されたい。

(10) これはカフカの友人フェーリクス・ヴェルチュが、クルト・ヒラー編纂の雑誌『活動的精神』の第二巻に一九一八年に発表した「体験と志向」という哲学論文に触発されたアフォリズムである。もとのノートでは「志向(Intention)」のかわりに「直観(Intuition)」となっているが、これはカフカの書き誤りであるとブロートは見ている(H 444f.<3:329>)。ここではブロートに従う。この論文については第五章でも言及される。

(11) ちなみに、挟み込まれている紙片ということであれば、「青の四折判ノート」には

(1)八折判ノートFから取られた一枚の頁、

(2)八折判ノートHから取られた一枚の頁、

(3)20.0cm x 15.9cm の水色の紙、

(4)0.9cm x 0.4cm の水色の格子の入った23.1cm x 14.6cm の用紙

が挟まれている(KSA 22f.)。八折判ノートから取った二枚の頁(1と2)によれば、カフカがすでに「青の四折判ノート」の執筆の段階(八月下旬)で八折判ノートに戻った可能性もなくはない。事実、第五章で見るように、彼は八月上旬にすでに八折判ノートを一度参照している。また水色の格子の入った用紙(4)は明らかに書類束A(とBとC)の用紙を半分に切ったものである。この用紙によれば、カフカが書類束CやAを書き始めてからもう一度「青の四折判ノート」を見直した、と考えられる。もう一枚の水色の紙(3)については出所がわからない。

 

 

第四章 『考察』とミレナ体験

 

ミレナとの出会い

 

 一九二〇年四月、病気で再び勤務不能になったカフカは、療養のために南チロル地方のメラーンに行くが、ここでカフカの作品をチェコ語に翻訳していたミレナ・イェセンスカ・ポラク夫人との文通が始まった。カフカがユーリエとの関係に行きづまりを感じていたように、当時ミレナも夫エルンスト・ポラク(カフカと同じドイツ語系ユダヤ人で、カフカも面識があった)との結婚生活は破綻していた。二人の関係はたちまち火のように燃え上がる恋愛へと発展していったが、この恋愛も、フェリスの時と同じく、文通による恋愛であった。ただし、これはカフカが以前体験したどのような女性体験とも異なった、カフカの全人格を占領するような激しい恋愛であった。ミレナはフェリスやユーリエのような、善良で、実務能力にたけたところが取柄の女性、「理性結婚」(H 215<3:164>)の相手となるような女性ではなく、鋭い知性とカフカの作品の独創性を見抜く文学的才能を備え、しかも相手のすべてを独占しようとする情熱的な女性であった。カフカやブロートの知人であり、同時にミレナの友人でもあり、そのためにブロートから『ミレナへの手紙』の編纂を委嘱されたハースは彼女のことを、「スタンダールがイタリアの古い年代記から取って、自分の小説の中に置き換えたサンセヴェリーナ公爵夫人とかマチルド・ドゥ・ラ・モールといった性格で、情熱的、大胆、冷静、賢明に決断が下せ、しかし、事わが身の情熱の要求するところとなれば、手段を選ばない」(M 274<8:211>)女性として評している。カフカにはフェリスやユーリエのときのような優柔不断さはない。彼はミレナの情熱に引きずられて、まだ続いていたユーリエとの関係を、彼女にあえて冷酷な仕打ちを加えることによって切り捨ててゆく。彼は妹のオットラに対して、「私は彼女[=ユーリエ]に対して、たぶん可能な限り最もひどいことをしてしまった」(O 92<12:72>)(1)と認めている。

 

偉大な世界救済の戦い

 

 カフカにとって女性との交際、そして結婚という事態は、常にある種の形而上的な戦いであった。八折判ノートEの一節によれば、「F[=フェリス]は世界の代表者」(H 132<3:99f.>)であるし、八折判ノートHの表現によれば、「女性は、いやもっと端的に表現すれば、おそらく結婚は、お前が対決しなければならない人生の代表者」(H 118<3:89f.>)なのである。彼にとって結婚するということは、女性を通じて「世界」との決定的なかかわりに生き、その中で世界を克服することであった。だが、彼はフェリスの場合も、ユーリエの場合も、この世界との交わりの中に入ってゆくことができず、この戦いに敗れたのであった。その敗北の結果が世界を破壊することによって「不壊なるもの」を解放することを主要テーマとする『チューラウ・アフォリズム』であるし、破壊しがたい世界を牢獄と見る『彼』のグノーシス的世界拒否であった。

 いや、彼にとっては結婚ばかりではなく、彼の文学もアフォリズムも、彼の人生全体が、精神的な解放を求めての一種の戦いであったと言えよう。彼はミレナと出会った時点での、この戦いにおける自分の戦闘状況を以下のように要約している(「お前」というのはカフカ自身に対する呼びかけである)。

 

「[・・・・]ユダヤ人としての私の三十八年は、キリスト教徒としてのあなたの二十四年を前にしてこう言うのです。[・・・・]お前は三十八才で、実際の年齢からはおよそありえないほど疲れてしまっている。[・・・・]お前は二、三の戦闘に加わって、友人と敵とを不幸にしただけで[・・・・]もう廃兵となってしまい、おもちゃのピストルを見ただけでもふるえだす連中の一人となった。ところが、突然そこへもってきて、偉大な世界救済の戦いに召集されでもしたかのような事態になったのだ。いかにも奇妙とはこのことではなかろうか? 考えてもみろ。お前はそのときのことをまだ誰にもちゃんと話したことはないが、お前の生涯の最良の時というのがおそらく、二年ほど前、ある村[=チューラウ]で過ごしたあの八カ月だったのだ。そこでお前は、一切のものと関係を絶ったと信じて、自分の中の疑いえないものだけに自分を限定し、自由で、手紙もなく、ベルリンとの五年にわたる文通もなく、お前の病気に守られ、しかもかといって自分が格別変わったわけでもなく、ただお前の本性の古い、狭い輪郭線を以前にもましてしっかりとなぞり書き(nachziehen)しなければならなかっただけであった。」(MN 35f.; M 67f.<8:51f.>)

 

 彼は結婚をめぐってのフェリスとの戦いに二度敗北し、この敗北を機にチューラウに引きこもり、自分の「本性」の「輪郭線」の「なぞり書き」作業(2)=『チューラウ・アフォリズム』の執筆に従事したが、チューラウにおけるこの「八カ月」は「生涯の最良の時」であった。しかし、フェリスとの苦悩に満ちた体験にもかかわらず、ユーリエとまたもや同じような失敗を繰り返して、女性関係にはもうこりごりしていた。ところがそこに、思いもかけなくミレナという女性が現われたのだが、彼女の声は以前の声とは違って、彼の「頭と心の両方に同じ強さで浸透する」(MN 37; M 68<8:52>)のである。

 彼はこの事態を「偉大な世界救済の戦いに召集」されることと比較している。『チューラウ・アフォリズム』においては、個人と人類とは「不壊なるもの」という神的根底において一体の存在であった。個人は自分「自身に結びついている以上に人類と深く結ばれて」(H 117<3:88>)一つの精神的な戦いを戦っているのであった。しかもこの戦いにおいて、カフカは最も条件の悪い「戦闘位置」(H 70<3:54>)で戦っていた。だから、このような彼が救済されることは「世界救済」に等しいことであった。

 彼はそれまでの数度の戦いで深く傷つき、グノーシス的な世界拒否に陥り、「おもちゃのピストルを見ただけでもふるえだす」という有様であった。ところが、ミレナとの出会いは彼にかつてなかったような生命力の高揚と世界に対する肯定的な気分を与える。彼はミレナを通じて、『彼』においてはあれほど否定的に見ていた人間と世界を肯定するという奇跡にさえ近づく。

 

「私はこれまで、自分は人生が堪えられないのだ、人間が堪えられないのだ、と考え、自分を非常に恥じてきました。しかし、あなたはいま私に、堪えられないと思えていたものが、実は人生ではなかったのだ、ということを確証してくれるのです。」(MN 110; M 111<8:85>)

「私はあなたを愛しているから[・・・・]私は全世界を愛しているのです[・・・・]。」(MN 202; M 148<8:114>)

 

 このような調子は、その数カ月前に『彼』の中で、「彼は悲惨を指さすことによって、太陽を否定する」という文章を書いた人間と同一人物とは思えないほどである。

 

ユダヤ人と非ユダヤ人

 

 ミレナとの恋愛が以前の関係と異なっていたのは、ミレナが文学的才能に恵まれた女性であったり、人妻であったという点だけではなかった。以前の婚約者であるフェリスとユーリエはいずれもユダヤ人女性であった。そもそも、カフカの交遊関係はほとんどがユダヤ人でしめられている。しかし、キリスト教徒のチェコ人であるミレナと彼との間には、ユダヤ人女性との間におけるよりも、人種的、文化的、言語的、宗教的な面ではるかに大きな相違が存在した。カフカは彼女に対して自分の「汚れ」=西ユダヤ人としての病を、以前の恋愛のとき以上に強く感ぜざるをえなかった。同じユダヤ人であるハースは、彼の編纂した『ミレナへの手紙』の「後書き」で、

 

「明らかに、ユダヤ人であるカフカにとっては、非ユダヤ人女性に対する恋愛は、先祖伝来の精神的コンプレックスを蔵した、大きな悲劇的問題であった。それはなかんずくユダヤ人としての自己卑下のおそるべき爆発となって現われたのであった」(M 286<8:220>)

 

と書いている。このことはハースによって削除された部分を補った『ミレナへの手紙・増補改訂版』を読むと一層はっきりする。

 一般的に言っても、異民族、異文化間の結婚には、同民族、同文化間での結婚よりもはるかに大きな困難がつきまとうであろう。まして「自己憎悪(jüdischer Selbsthaß)」の傾向を持つ西ユダヤ人(3)としてキリスト教徒と結婚する場合には、カフカは「自己卑下」の感情を強くいだかざるをえない。そのような結婚を成功させるには、きわめて深い「人間的な一致」が「感得」(F 401<11:373f.>)されていなければならないだろう。そこで彼は一九一九年二月の手紙で、キリスト教徒でチェコ人のヨーゼフ・ダーヴィットと結婚しようとしている妹オットラに対して、こう忠告するのである。

 

「あなたがある並外れたことをしており、その並外れたことをうまく成し遂げることが、まさに途方もなく困難であることは、あなたも知っています。そこで、かくも困難な行為の責任を決して忘れることなく、たとえばダヴィデが軍勢から出ていったように、あなたが自信をもって隊列から出ていくのだということを、常に意識していて下さい。そしてその意識にもかかわらず、事態を何らかのよき結末に導いてゆくあなたの力量を信じ続けるのです。そのときあなたは――悪い冗談で終わることになりますが――十人のユダヤ人と結婚した以上のことを成し遂げたことになるでしょう。」(O 69<12:53>)

 

 カフカは、少年ダヴィデがイスラエルの軍勢を離れ、ペリシテ人の戦士ゴリアトと一騎打ちを戦い、見事打ち破ったという旧約聖書サムエル記上にある故事を引き合いに出して、オットラを励ましている。カフカは彼女の結婚をダヴィデのゴリアトとの戦いにも匹敵する難事業と見なす。事実、彼女のヨーゼフとの結婚生活は困難なものになった。二人は一九二〇年七月に結婚するが、彼女はやがて、チェコ人としての強い民族意識を持ったヨーゼフと様々な葛藤に巻き込まれることになる(4)

 オットラが直面した「十人のユダヤ人と結婚する」よりも困難な課題に、ミレナとの出会いによってカフカ自身が直面した。彼はフェリスとの二度の婚約に失敗し、今はユーリエとの結婚の試みも暗礁に乗り上げていた。彼は同じ古い傷口を何度もかきむしられ、血まみれになっていた。彼は女性との結びつきが不可能な「精神的結婚不能者」(H 216<3:164>)としての自分の本性を思い知らされ、生きることに絶望し、世界を牢獄と感じていた。このように不利な戦闘位置にいた彼の前に現われたミレナという女性は、キリスト教徒のチェコ人で、しかも人妻であった。それは結婚を求めて努力する彼の本性にとっては、重大な障害であった。しかし、このような途方もない困難にもかかわらず、彼女は彼を「全世界を愛する」という不可能事を可能にする地点にまで導いた。カフカ自身の感じ方からすれば、これはまさに「偉大な世界救済の戦いに召集され」るということであった。

 ユダヤ人と非ユダヤ人の間に存在する様々の障害にもかかわらず、彼は一時的にではあれミレナとの間に、フェリスやユーリエのとき以上に深い結びつきを感じた。このような結びつきの感情は、両者の恋愛関係が決裂したあとにも奇妙な形で残っていて、その結果、彼はのちにミレナに自分の日記帳をすべて手渡すことになる。ミレナとの間のこのような人間的な一致は、彼が「必然的な共同生活」を可能にする「不壊なるもの」に大きく近づいたことを意味するだろう。彼にとってミレナは一種神的な存在にまでなる。彼の人生を導き、彼に光明をもたらしたミレナを、彼がアレクサンダー大王のイメージと結びつけていることは、すでに見た通りである。彼女の「愛らしい現世的な顔には、神的なものがこうもたくさん混じりこんでいる」(MN 253; M 219<8:168>)。ミレナの顔に浮かんだあの神的な輝きは「不壊なるもの」の光であったのだろうか。それとも単なる錯覚だったのだろうか。この疑問は自伝的長篇小説『城』における、フリーダと城との関係の考究にまで持ち越されることになる。

 

グミュントでの転機

 

 彼らの恋愛が頂上に登りつめたのは、カフカがメラーンからの帰途立ち寄ったウィーンでの、六月二十九日から七月四日にかけての逢瀬であった。カフカの最初の計画ではミュンヒェンを経由し、カールスバートでユーリエと休暇を過ごす予定になっていた。しかし、ミレナはウィーン経由でプラハに帰ることを強く主張した。帰路の選択はまさに二人の女性のどちらを取るかという選択であった。彼はミレナの強い情熱に負けて、ウィーンを選ぶ。ウィーンでカフカはミレナの力を借りて自分の肉体的な病気と、そしてそれよりももっと恐ろしい内面の不安を克服したかに思った。しかしこののち、二人の間には様々な誤解と行き違いが生じてくる。その最大の原因は、カフカへの愛情にもかかわらず、ミレナが夫ポラクと離婚する気がないということであった。その背後には、性的な結びつきに対するカフカの不安、そしてそこから生ずるであろう禁欲的な共同生活に対する若くて情熱的なミレナの恐れがあった。

 彼らの文通に入り込んできた様々な不一致点を取り除くべく、八月十四〜十五日、二人はプラハとウィーンの中間にある国境の町グミュントで再会するが、この出会いはカフカの意図とは反対に、両者の間の隔絶をいっそう強めることになった。グミュントでの出会いのあと、ミレナはザルツブルク近郊の保養地ザンクト・ギルゲンに静養に出かけた。プラハにいるカフカにとって、ギルゲンとはウィーンとの間よりも、手紙のやりとりにはるかに時間がかかる。この地にはさらにミレナの夫ポラクも滞在していた。ミレナは明らかにカフカから物理的、精神的に遠ざかろうとしたのであった(5)。このような展開の中で、一九一七年に八折判ノートにいくつかの短篇作品を書いて以来、三年近くも中断していた文学的創作活動をカフカは再開した。それを示しているのが、「軍務生活」の再開について報告している八月二十六日の手紙である。このような変化は明らかに、ビンダーも指摘するように(6)、ミレナとの関係が危機に瀕したことから生まれた内面的動揺がきっかけになっている。ビンダーの推測によれば、八月後半から「青の四折判ノート」が書き始められ、それはさらに、もし私の推測が正しければ、九月半ばまで書類束Cへと書き継がれてゆくことになる。

 グミュントでの再会後、カフカはミレナのためによかれと思って、彼女の父プラハ大学教授ヤン・イェセンスキーの助手のヴラスタを通じて、彼女と彼女の父の間を取り持とうとした(ミレナ父娘の間にもカフカの場合と似かよった親子の対立があった)。だがこれはミレナにはいらぬお節介と感じられ、ミレナの怒りの爆発を呼び、その結果彼は彼女に「殴られた」(MN 259; M 221<8:259>)と感じた。この事件がカフカの心にしばらく以前から芽生えていたこの恋愛の行方に対する疑念を決定的なものにした。書類束Cに書かれている次のような断片がカフカの心境の変化を証言している。

 

「僕は一人の娘を愛していた。彼女も僕のことを愛していた。しかし、僕は彼女から別れなければならなかった。

 なぜ?

 わからない。あたかも彼女は、槍を外側に向けて持っている武装兵の輪によって取り囲まれているようであった。いつ近づいてみても、僕は槍の切っ先(Spitzen)に触れ、傷つき、後ろにさがらなければならなかった。僕はとても苦しんだ。

 娘はそれに何の責任もなかったのか?

 なかったと思う、あるいはむしろ、なかったとわかっている。前に言った譬えは完全なものではなかった。僕のほうも武装兵によって取り囲まれていて、彼らは槍を内側へ、つまり僕の方に向けて持っていたのだ。僕が娘の方へ無理やり近づけば、僕はまず僕の武装兵の槍にひっかかり、それ以上前に出られなかった。僕は娘の武装兵のところまで行ったことはおそらく一度もなかったのだ。たとえそこまで行ったとしても、自分の槍で出血して、意識をなくしていただろう。

 娘は独りでいたのか?

 いや、ほかの男が、やすやすと妨害も受けずに、彼女のところに接近した。僕は自分のあがきに疲れはてて、まるで空気のように無関心な気持ちでそれを見ていた、彼ら二人の顔が最初の接吻で重なりあうとき押しのけるその空気のように。」(H 252<3:190f.>)

 

 この断片の背後には明らかにカフカのミレナ体験がある。カフカはミレナとの結ばれを望んだが、彼女の夫や彼女の友人、知人たちの横槍などといった外的障害と、自分自身の女性との結びつきに対する不安感という内的障害のために、彼女との関係を阻害された。この二重の障害が右の断片では二重の武装兵として形象化されている。彼は翌日グミュントで彼女と逢うことになっている一九二〇年八月十三日の彼女宛の手紙の中で、同じ「切っ先」のイメージを使って、性的な結びつきに対して彼が感じる不安感を次のように述べている。

 

「おわかりでしょうか。次のようなことを書こうとするだけで、もう幾多の剣が近づいてきて、その切っ先(Spitzen)が輪になって私を取り巻き、ゆっくり体に迫ってくるのです。これは完全この上ない拷問です。それらが私をひっかき始めると――切り込んでくる、というのではありません――、つまりそうやってただひっかき始めるだけで、もう恐ろしさのあまり、たちまち私は最初の叫び声で、すべてを裏切ってしまうのです。あなたを、私を、すべてを。」(MN 215; M 197<8.151>)

 

 またミレナは「独りでいた」娘ではなかった。ポラクという「ほかの男」が彼女を再び自分につなぎ止め、カフカは「空気のように」二人から押しのけられた。両者の恋愛関係が終了したあとの一九二二年九月の手紙で、カフカはミレナに、「このことは白状しておかなければなりませんが、かつて私は、ある男が愛され、知性と力で庇護され、のどかに花々の間に横たわっていたので、その男をひどく妬んだことがあります」(MN 304; M258<8.198>)と書いている。書類束Cの断片で、カフカは彼女との関係が決して幸福な結末に到達しないことを確認している。

 彼はこの確認をミレナに伝える。彼は九月十四日の彼女宛の手紙で、二人の関係を回顧し、自分を「汚らしい」穴に寝ていた「森の獣」に、彼女を「私がかつて見た最も素晴らしいもの」にたとえ、二人がとうてい一緒にはなれない間柄であることを予告する。

 

「大体が以下のようなものです。森の獣である私は、その当時はほとんど森に棲まずに、どこかの汚らしい穴の中に寝ていました(もちろん、私がいるからこそ汚らしいのです)。そのとき私は、外の広野にあなたを、私がかつて見た最も素晴らしいものを目にしたのです。私はすべてを忘れ、わが身のこともすっかり忘れはてて、身を起こし、近づきました。この新しくはあるけれども、しかし本来の故郷である自由の中で、不安におびえてはいましたが、それでもなお近づき、あなたのところまでやってきたのでした。[・・・・]私はとても幸福でした。誇りに満ち、自由で、力強く、わが家にいると感じました。いつでもそうでした――わが家にいると感じたのでした。しかし、結局のところ、私は単なる獣にすぎず、森の住人にすぎなかったのです。この広野で生活できたのは、ただひとえにあなたの恩寵によるものでした。[・・・・]あなたはこの上なく優しい手で私を愛撫してくれはしたものの、あなたは森というこの根源に、この本当の故郷を暗示する奇妙なものに、気がつかずにはいられませんでした。必然的に《不安》についての話が出ることになり、必然的にこれが繰り返されることになりました。これこそむき出しの神経にさわるように、私を(そして罪もないのにあなたまでも)苦しめてきたものなのです。[・・・・]そこへマックス[・ブロート]の件で誤解が絡み、グミュントでは誤解はもう紛れのないものとなり、そこにヤルミラ[=ミレナの女友達で、ハースと恋愛関係にあった。それを苦にした彼女の夫が自殺したあと、ハースと結婚することになる。この問題のために、ハースは『ミレナへの手紙』から自分に関係した部分を除外した]に関する理解と誤解が加わり、そして最後にはヴラスタのもとでの愚かで、粗雑で、無頓着な行為となり、この間にまた、細々としたことがたくさん介入してきたのでした。[・・・・]私は暗闇の中に帰らなければなりませんでした。私は太陽には堪えられなかったのです。私は絶望しました。まったく道に迷った獣と同じでした。もうやみくもに走り始めました。そしてたえず頭に浮かぶのは、《彼女を一緒に連れて行けたら!》という想念と、《彼女がいる暗闇などあるだろうか?》という反対の想念だけなのです。

 どんなふうに私が生きているかというお尋ねですが、私はこんなふうに生きているのです。」(MN 262f.; M 223f.<8:171f.>)

 

 次に九月十五日の手紙では、「私たちはもはやこれ以上互いに手紙を書くべきではない」と、二人の関係の打ち切りを宣言する。

 

「私たちはもはやこれ以上互いに手紙を書くべきではない、ということは、もう長いこと私たちの一致した意見となっていました。これを私のほうから口にしたというのは、単なる偶然にすぎません。あなたもまったく同じようにそう言うことができたはずです。私たちが同意見である以上、なぜ書かないほうがよいのか、その理由を説明する必要はないわけです。」(MN 264; M 254<8:196>強調カフカ)

 

 これにはミレナの方が驚いて、彼女はカフカを何とか自分のもとに引きとどめようとする。彼には彼女にひかれる部分は残っていたが、その後この関係からはっきりと身を引いてゆくことになる。

 

病の診断と克服

 

 九月十五日は両者の恋愛関係が決裂する日であるが、まさにこの日からカフカがアフォリズム的考察と創作断片の入りまじった書類束Aの記入を開始しているということは偶然ではない。その冒頭の「一九二〇年九月十五日」という日付は、この日を決定的な日であるとカフカが感じていたことを示している。それまでの「青の四折判ノート」と書類束Cには日付とアフォリズムがなく、もっぱら創作断片が書かれていた。これに対して書類束Aに日付をつけたということは、明らかに彼はこれを単なる創作ノートとして使ったのではなく、これに一種日記的な性格も持たせようとしたことを示している。いや、書類束Aの最初(九月十五日、十六日、十七日)はもっぱらアフォリズムで、「日付+アフォリズム」というこのスタイルは、まさに八折判ノートG、Hや『彼』のそれと同じである(7)。カフカがこのようなスタイルを採用するのは、彼が自分の人生上の問題に理論的・客観的な洞察の目を向けて、それを克服する努力を開始するときである。

 すなわち、彼はミレナとの関係の破局という決定的な転回点において、もはや八月後半から開始していた創作活動だけでは、内面の動揺を克服できないと感じたに違いない。彼は創作活動をいったん終了させ、新たなアフォリズム的考察を開始すべく、それまで用いていた書類束Cと同じ用紙ではあるが、Cとは区別するために二つ折用紙を大きく広げて書類束Aの記入を開始した。

 言ってみれば、グミュントでの誤解による不安の結果が「青の四折判ノート」と書類束Cであるとすると、ミレナに「殴られた」あとの幻滅の結果が書類束AとBである。本来「森の獣」である彼は、自分が「かつて見た最も素晴らしいもの」であるミレナに幻惑されていただけであったことに気づく。彼は「太陽」=「アレクサンダー大王(=ミレナ)の光り輝く眼差し」には堪えられない。「森の獣」=「ディオゲネス」=カフカが戻るべき場所は、もともと棲んでいた「暗闇の中」=「幽霊どもでいっぱいの樽の中」しかない(8)。九月十五日から書かれた書類束Aは、ミレナを断念した上で、己の生きるの本来の場が、女性との結婚生活、そして結婚生活を通じて「世界」と肯定的に和解することではなく、辻・の表現を借りれば、やはり「孤独の広大な原野に己を狩る狩人」(8:225)としてとどまることの再確認、あるいは決意の宣言であった、と見ることができる。彼は九月十四日の手紙では、「独りでの不完全さはいかなる時でも耐え抜いてゆかなければなりません。しかし、二人での不完全さは耐える必要はないのです」(MN 263; M 225<8:172>)とミレナに書いている。

 ミレナとの関係はフェリスやユーリエのとき以上に成功するかに思えた、希望に満ちた女性との結びつきの試みであった。今回の挫折は希望が大きかっただけに、よけいに打撃の大きい失敗であった。このことはカフカに、自分が「必然的な共同生活」ができない西ユダヤ人の典型として、その最も深い病を病んでいることをあらためて思い知らせ、自分の失敗の原因の究明へと彼を駆り立てたであろう。彼はミレナに、

 

「私たちは二人とも西ユダヤ人のきわめて特徴的な典型を何人も知っていますが、私の知る限り、私は彼らの中で最も西ユダヤ的な人間です。というのは、誇張して言えば、私には一刻たりとも安らかな時間が与えられていないということです。私には何一つ与えられているものはなく、すべてを自分で獲得しなければならないのです。現在や未来だけではありません。過去すらもそうなのであり、どんな人間でもおそらく生まれながらに持っているもの、それすら自分で獲得しなければならないのです」(MN 294; M 247<8:190>)

 

と書いている。

 そのとき彼がこの問題の解明の手がかりとするものは、自分の結婚不可能性を「究極の事物について明確に把握」できていない西ユダヤ人の一般的問題の典型例としてすでに検討していた『チューラウ・アフォリズム』であった。八折判ノートHに挟まれた「九月十七日」のカレンダー用紙が示しているように、彼は八折判ノートを参照しつつ書類束Aを記入した。彼は八折判ノートを参照することによって、ミレナ体験をフェリス体験と比較し、自分の病を確認すると同時に、フェリス体験の克服の方法、すなわち『チューラウ・アフォリズム』に範を取った客観的自己省察によってミレナ体験を克服しようとしたのであろう。

 

アフォリズムから文学的創作への移行

 

 だが、「日付+アフォリズム」という八折判ノートG、Hのスタイルで自己省察を行なおうと思っても、今回はそれが長続きしなかった。日付の記入は九月十五日から二十一日までで終わってしまい、そのあとはまた日付のない創作断片が続き、その間に時折りアフォリズムが記されているだけである。八折判ノートG、Hと比較すると、書類束AとBは明らかに創作断片の方が圧倒的に多い。書類束Aにおける執筆スタイルの変化は、カフカが当初八折判ノートG、Hのスタイルの記入をしようと意図したのだが、すぐにそれを断念して、文学的創作のほうに戻ったことを示している。

 アフォリズムから文学的創作へのこのような移行は、以下のように説明されるだろう――カフカはフェリスとの出会いによって、文学者としての突破を行ない、彼は彼女との葛藤に満ちた関係から『判決』、『変身』、『失踪者』、『訴訟』、短篇集『田舎医者』などの数々の文学的な収穫を手に入れることができた。彼はこれ以上フェリスとの関係を続けても、文学的には何ら新たな成果を得ることはできなかったであろう。肺結核の発病は、いわばこのように不毛になった関係に決着をつける好機であった。そこで、フェリスとの二度目の婚約破棄はカフカにとっては解放感と安定感を伴ったまさに完全な終了であって、彼はもはやフェリスを取り戻そうとは思わなかった。このような完了状態に対応して、彼はそれまでの文学と人生の総決算として客観的な自己省察=「自分の本性の輪郭線のなぞり書き」を行ない、チューラウのアフォリズム群が成立した。

 しかし、ミレナとの関係はこれとは少し異なっている。ユーリエとの関係の行きづまりのためにグノーシス的世界拒否に陥っていたカフカは、ミレナとの出会いによって、世界を肯定するという奇跡の地点にまで近づいた。彼はミレナとの関係を、フェリスの場合のように、文学的に利用しようとは考えていなかった。ミレナとの結びつきは彼にとって文学にもまさる貴重な光明であった。彼が再び文学に向かったのは、一九二〇年八月下旬、ミレナとの関係が危機を迎えてからである。その時点ではじめて彼は「口をほぐす」という文学的助走に入った。こうしてようやく「軍務生活」に慣れてきたところで、彼は決裂の日、九月十五日を迎えた。彼はこの転回点で内面の動揺を克服するために、『チューラウ・アフォリズム』を手本にした考察を開始しようとしたが、八折判ノートの読み直しはむしろ、それまで助走を行なっていた文学的創作のための刺激を与えることになった。さらにこの段階では、チューラウで行なったような客観的な自己省察を行なうには、彼の動揺はまだきわめて深刻で、かつ心の傷は生々しかった。しかも、ミレナとの関係は九月十五日の手紙で終わったわけではなかった。彼女が彼との再会を望んだだけではなく、彼自身の中でもミレナのもとで体験したあの至福感、人生肯定の意欲に対する憧れが、まだ強く残っていた。彼は一九二二年一月二十九日の日記でもミレナとの結びつきの可能性について考えている(KT 896<7:407>)。彼は一九一七年チューラウでフェリス体験を完全に消化したようには、一九二〇年九月の段階ではミレナ体験を文学的に消化・克服できていなかった。ミレナとの関係は、終了させねばならないという彼の強い決意にもかかわらず、いまだ終了していなかったのである。

 この当時の彼のミレナとの関係は、フェリスとの最初の婚約破棄の段階に対応すると言えるかもしれない。その当時彼はフェリスとは一時的に別れたが、両者の関係はまだ最終的には終わっておらず、このような状態の中で『訴訟』をはじめとする作品群が生まれたのであるが、これと同じように、ミレナとの別れが一九二〇年後半の作品群を創造させ、それが最終的には一九二二年の『城』となって結実する。カフカの創作活動は常に内面の強い葛藤と緊張をその原動力としている。フェリスの場合は、彼女との出会いと最初の婚約破棄が彼に二度にわたって文学的創作のためのエネルギーを与えたが、ミレナの場合は、彼女との別れが文学的エネルギーの源泉になったのである。この重大事件はいわば彼の内面の電圧を充分に高めて、「青の四折判ノート」や書類束Cの水準以上の短篇作品を生み出すことを可能にした。

 このような文学的、心理的な原因のために、書類束Aで開始したアフォリズム的考察はすぐに中断された。最初はおそらくアフォリズム的考察に立ち戻るために参照した八折判ノートであったが、八折判ノートの読み直しはむしろ彼に新たな短篇作品の着想を与えてくれることになった。このような創作意欲の高まりは九月後半から十月初めまで続いたものと推測される。

 

「なぞり書き」作業

 

 彼は九月十五日の手紙で文通の打ち切りを提案したが、ミレナはまだ彼との関係を望んだ。彼のほうでは恋愛感情は薄れてしまったが、夫ポラクとの仲がうまくゆかず、父とも和解できず、経済的にきわめて困難な状況にあり、カフカの援助を必要としていたミレナに対する思いやりの気持ちは残っていた。彼は文通の中止を提案した同じ九月十五日の手紙で、「あなたのほうは、何かその必要があれば、私にいつでも手紙を書いてください」(MN 264; M 254<8:196>)と書いている。しかし、ミレナのほうはカフカの心の決定的変化を知ることができず、あるいは知っていても受け入れることができず、相変わらず「二人の将来」や「一緒の将来」について書いてきたのである(MN 272; M 234<8:180>)。そこでカフカは、「不安」、「暗闇」、「汚れ」などという自分の内面の問題を書いて、自分という人間はミレナとは別世界の幽霊のような人間なのだ、いうことをミレナにわかってもらおうとする。このような何通かの「幽霊の手紙」を書いたあと、九月終わり/十月初め、ついにミレナから手紙が来なくなった。そのことは、「幽霊の手紙書簡」の冒頭を見るとわかる(増補改訂版はこの手紙をただ九月としか推定していないが、前に論じたように、私は九月終わり/十月初めと推定する)。

 

「あなたは流感にかかっていたのですか? では私のほうも、ここで特に陽気な時を過ごしたといって、少なくとも自分を非難する必要はないわけですね。(時折り私は、人々がどうして《陽気》という概念を見つけ出したのか、理解できなくなります。きっとそれは悲しみの反対概念として、ただ頭で考え出されたのでしょう。)

 あなたは私にもう手紙を書かないだろう、と私は確信していました。しかし、そのことを私は驚きもしなかったし、悲しみもしませんでした。悲しくなかったのは、それがあらゆる悲しみをこえて必然的なことに思われたからであり、そして世界中に私の貧弱な重量を持ち上げるに足るだけの充分な重量がなさそうだからです。そして驚かなかったのは、たとえそれ以前にあなたが、《これまであなたに親切にしてあげましたが、もうそれはやめて、あなたから離れてゆきます》と言ったとしても、本当は驚かなかったからです。世の中には驚くことばかりありますが、しかしこれはいちばん驚くべきではないことのひとつです。たとえば、人が毎日起床することのほうがはるかに驚くべきことです。しかし、これはこれで確信を与えてくれる意外さではなくて、場合によっては吐き気を催させるような珍妙さなのです。」(MN 278; M 236<8:181f.>)

 

 カフカが、ミレナはもう自分に手紙を書かないだろう、と確信し、そのことを驚きも悲しみもしなかった、と書いたのは、ミレナが実際にしばらく手紙を出さなくなっていたからにほかならない。彼は自分の「幽霊の手紙」の効果があって、ミレナが彼に怖じ気づき、これによって二人の文通は終わった、と考えた。ところが、ミレナが手紙を出さなかったのは、「幽霊の手紙」に説得されたためではなく、彼女が流感にかかっていたからであった。彼女は自分の生命力によって、カフカを「暗闇」から救出できるとまだ信じていた。彼女は流感が直ると、すぐまた矢継ぎ早にカフカに手紙を書いた。その結果、カフカは次の「怪談集書簡」では、「ミレナ、あなたはどうしてまだ相変わらず私に対して、不安や嫌悪をいだかないでいたりできるのでしょうか? あなたの真剣さとあなたの力は、何という深みにまで届くのでしょう!」(MN 282; M 239<8:184>)という、ミレナに対する感嘆の言葉を書くことになる。

 文通の中断はミレナの流感のために生じたのであったが、それを知らないカフカとしては、二人の関係はここで完全に終わったと感じたに違いない。右に引用した「幽霊の手紙書簡」のカフカの言葉には、このような終わりの意識が現われている。恋愛関係の終焉にあたって、カフカは自分の「不壊なるもの」をめぐる戦いをふりかえり、その全貌を総括しようとした。それが『考察』の編纂であった(「陽気な時を過ごした」というのは、文学作品の執筆だけでなく、『考察』の編纂の開始も指しているのかもしれない)。カフカにとっては『チューラウ・アフォリズム』はそもそも、自分の「本性の古い、狭い輪郭線を以前にもましてしっかりとなぞり書き」するという意味を持っていた。カフカの『考察』の編纂作業は、この比喩的な意味での「なぞり書き」(=『チューラウ・アフォリズム』)を、具体的な意味で「なぞり書き」(=抜粋と紙片への書き写し)する作業であった。このような「なぞり書き」の「なぞり書き」作業によって、彼はミレナとの激しい恋愛の中で見失っていた(と今では思われる)自分の「本性」を再確認しようとしたのであろう。このような編纂作業に重点が移ったために、九月下旬/十月初めからは文学的創作の量は少なくなる。といっても、それが完全に中断されたわけでもなかった。少ないとはいえ、十月以降も書類束AとBは記入されている。書類束AとBの日付のない創作断片の背後では、アフォリズムを選抜し、推敲する作業が同時に進行していたのである。『考察』編纂の過程で、彼は昔のアフォリズムや新聞の記事などに刺激を受けて、書類束AとBの文学的創作の間に新しいアフォリズムを書いたが、その中の幾篇かを「・二」のアフォリズムとして採用し、『考察』のために作成した紙片に並記した。紙片に並記されるとき、「・二」のアフォリズムも推敲され、文言が若干変更された。このような作業は、書類束Aの「チューラウとプラハの間の相違」のメモの位置から判断して、十二月十八日のサナトリウムへの出発の前まで続いたと考えられる。

 すなわち、『考察』編纂の第一の理由は、ミレナ体験の克服であった。

 

 

 

(1)  O = Franz Kafka, Briefe an Ottla und die Familie. Hrsg. von Hartmut Binder, Frankfurt/M. 1974.

(2) カフカがこの「なぞり書き(nachziehen)」という同じ語を、一九一七年十一月、チューラウからブロートに宛てて書いた手紙の中でも用いていることに注意せよ(第一章参照)。

(3)  この点については Theodor Lessing, Der jüdische Selbsthaß, München 1984 (Nachdruck vom Erstdruck von 1930) を参照せよ。また、Ritchie Robertson, The Problem of 'Jewish Self-Hatred' in Herzl, Kraus and Kafka, in: Oxford German Studies, No. 16 (1985), S. 81-108 も参照せよ。

(4)  Hartmut Binder, Kafkas Briefscherze. Sein Verhältnis zu Josef David, in: Jahrbuch der Deutschen Schiller-Gesellschaft Nr.13 (1969).

(5)  J. Born/M. Müller, ibid., S. 517f.

(6)  Hartmut Binder, Leben und Persönlichkeit Franz Kafkas, in: Hartmut Binder (Hrsg.), Kafka-Handbuch. Band 1. Der Mensch und seine Zeit, Stuttgart 1979, S. 552.

(7) このようなスタイルはカフカが愛読したヘッベルの日記のそれと同じである。グレイはカフカの日記にヘッベルの日記の影響を見出している(Gray 181f.)

(8) 九月十五日の手紙と「精神分析学書簡」における「太陽」の隠喩の用い方は若干異なっている。九月十五日の手紙では「太陽」「暗闇」の対比はミレナカフカに対応しているが、「精神分析学書簡」ではこれが「アレクサンダー」「ディオゲネス」に置き換えられている。ディオゲネスが欲する「人を狂気にするこの恐ろしいギリシアの太陽」はむしろ樽の中の「幽霊」と結びついている。

 

 

第五章 「究極の事物」をめぐる友人たちとの哲学的対話

 

八月時点での八折判ノートの見直し

 

 ところで先に私は、ビンダーが論拠(a)で挙げた八月七日のブロート宛の手紙は、この編纂作業がそのときすでに開始されていたことを示すものではない、と述べた。それというのは、八月七日という時点は、グミュントでのミレナとの再会をひかえて、カフカの中でもちろん不安感と緊張感が高まりつつある時期ではあったが、ミレナとの関係はまだ修復可能と思われていたからである。つまり、この時期の彼には、アフォリズム集の編纂に取りかからねばならない内面的な理由が、まだそれほど強くはなかったように思われる。それに彼は六月、七月、そして八月の前半までは毎日のようにミレナに手紙を書き、彼女の手紙を待ち、とてもアフォリズム集を作成するような精神的、時間的な余裕もなかったはずである。

 そのことをミレナ宛の手紙の頻度から間接的に推測してみよう。もちろんすべての手紙が残されているわけではなく、また増補改訂版の日付推定が全面的に正しいわけでもない(と私は思う)が、増補改訂版をもとに彼の手紙を月別に分類すると、四月には五通、五月には六通、六月には二十三通、七月には四十通(!)、八月には二十四通、九月には十八通、十月には二通、十一月には八通の手紙が書かれている。この手紙の頻度の推移は彼のミレナへの想いの度合いをそのまま反映しているようである。彼女との決裂が決定的になった九月十五日以降は彼女に出す手紙もだんだん少なくなっている。それまでほとんど毎日のように、時には一日に三通(!)も書かれることがあった手紙が、九月十五日以降は数日に一通しか書かれなくなり、曜日さえ記されなくなる。そして、手紙の数と反比例するような形で、「青の四折判ノート」や書類束A、B、Cに創作断片やアフォリズムが書かれるようになってくる。

 昔のノートを取り出し、アフォリズムを推敲し、紙片に書き写し、さらにはそれをタイプで清書するというのは、かなりの精神の集中と時間を要する作業であろう。ミレナとの恋愛にのぼせ上がっていた八月に、彼がそのような仕事をしたとはとうてい思えない。それに、もし彼がそのような作業を行なっていたとすれば、ミレナにはすでにチューラウでの「生涯の最良の時」と自分の「本性の古い、狭い輪郭線」を「なぞり書き」するという仕事について報告していたカフカであるから、それに言及しなかったはずはない。

 ただし、彼がブロートへの手紙の時点で昔の八折判ノートを見直したということは充分に考えられる。というのは、そのことを告げる状況証拠がミレナへの手紙に存在するからである。それは八月七日以降、ミレナへの手紙で時折り「楽園」と「堕罪」について言及されるようになることである。八月九日の手紙では「楽園で堕罪以前に吸われていた空気」(MN 199; M 183<8:141>)について語られ、八月十三日の手紙では、「時折り私は、自分ほど堕罪について理解できる人間はいない、と思うことがあります」(MN 217; M 199<8:153>)とカフカは述べている。これらの表現はいずれも性的な交わりに対するカフカの不安感を述べる手紙に出てくる。八折判ノートのアフォリズム群の主要テーマは楽園での堕罪であり、そこでは悪の誘惑が性的な誘惑と類比的に語られている(たとえば『考察』一〇五番)。カフカがブロートへの手紙に際して、昔の八折判ノートを読み直し、その結果、八折判ノートの用語やテーマがその後のミレナへの手紙に混入するようになった、と想像されるのである。

 

ブロート宛の手紙

 

 それでは、ブロートへの手紙をきっかけに彼はなぜ昔の八折判ノートを見直したのであろうか。

 問題の手紙は次のような内容である。

 

「《異教精神》はすぐ月曜日に、一気に読んでしまった。《歌たちの歌》[=ここでカフカが批判を展開しているブロートの著書『異教、キリスト教、ユダヤ教』の第八部に相当する]はまだだ。というのも、あれから水泳学校日和だったので[カフカは水泳の愛好者であった]。《異教精神》の章の自明の豊かさと、直線性と、思考の徹底性には、それを予期していたにもかかわらず、いつもあらためて驚いた。予期していたというのは、君がそれを必ずしも欲していないにもかかわらず、この《異教精神》が部分的には君の精神的な故郷であるからだ。[・・・・]

 とはいうものの、僕が君に賛同しているとは、全然言うことはできない。あるいはより正しく言えば、僕はただ、《異教精神》に対する君のひそやかな賛同に留保をつけているだけなのかもしれない。概して、君が君自身の内部から語っているところでは、僕は君に非常に近い。君が論争を始めるところでは、僕もしばしば論争したい気分になる(もちろん、僕のできる範囲においてだが)。

 僕はすなわち、君の言うような意味での《異教精神》があるとは信じない。たとえば、ギリシア人は一種の二元論を非常によく知っていた。さもなければ、モイラ[=運命の女神]だとか、その他多くのものは、どんな意味を持っていたというのだろう。ただ、彼らは――宗教的な点において――まさに格別に謙虚な人々で、一種のルター的宗派であった。彼らは決定的に神的なものを、自分から充分遠ざかったものと考えることができなかった。神々の世界全体は、決定的なものを地上的な肉体から遠ざけ、人間的に呼吸できる空気を確保するための手段にすぎなかった。それは人々の眼差しをひきとめるための巨大な国民的教育手段であった。ユダヤの律法よりは深くはないけれども、おそらくより民主的で(ここには指導者も教祖もほとんどいなかった)、おそらくより自由で(それはひきとめたけれども、どうやってひきとめたのかはわからない)、おそらくより謙虚であった(というのは、神々の世界を見れば、こう意識せざるをえなかったからだ――してみると、我々は神々ですらない。たとえ神々だとしても、我々は何者なのだろう?)。次のように言えば、おそらく君の見解に最も近いだろう――《幸福になる完全な可能性が理論的にはある。すなわち、決定的に神的なものを信じて、それを目指して努力しないことである》。こうした幸福の可能性は冒涜でもあれば、到達不可能でもある。しかし、ギリシア人は他のどの民族よりもこの可能性に近かったのかもしれない。しかし、それとても君の言う意味での異教精神ではない。それに君は、ギリシア人の魂が絶望していたことを証明してもいない。君が証明したのは、もし君がギリシア人にならなければならないとしたら、君が絶望するだろう、ということだけだ。このことはもちろん君にも僕にも妥当することだが、それとても完全にというわけではない。

 およそこの章では三つのことを体験する――まず君の肯定性で、それはここでもびくともしておらず、僕もさっき手を触れずにおいた。次には、ギリシア精神に対する君の集中的で、挑発的な攻撃、そして最後に、ギリシア精神の静かな自己防衛、これも結局は君が指揮を取っているのではあるが。」(Br 279f.<9:312f.>)

 

 この手紙に書かれている「幸福になる完全な・・・・」というアフォリズムは、八折判ノートGに書かれている、

 

「理論的には、幸福になる完全な可能性がある。自分の中の不壊なるものを信じて、それを目指して努力しないことである」(『考察』六九番)

 

のアフォリズムの語句をほんの少し変えただけである。カフカはおそらく八折判ノートを参照してこのアフォリズムを書いたのであろう。また、『チューラウ・アフォリズム』と手紙の表現の対比から、手紙の「決定的に神的なもの」は実は「不壊なるもの」の別名であることがわかる。「不壊なるもの」はまだブロートにも見せていない『チューラウ・アフォリズム』だけで用いられる表現であるので、それをそのまま出してもブロートには理解困難であったろう。そこでカフカは、ブロートとの議論の文脈において、「不壊なるもの」を「決定的に神的なもの」に言い換えたものと思われる。

 この手紙はブロートの著書『異教、キリスト教、ユダヤ教』の原稿を読んだカフカの感想と批判の手紙である。この本は一九二一年に出版されているが、出版に先立って、ブロートはカフカにその原稿を送り、尊敬する友人の批判を仰いだのである。この原稿と実際に出版された著書の間には、幾分かの相違があると思われるが、その基本的な内容はそれほど大きく違っていないであろう。カフカの批判は主としてブロートの著書における彼の異教理解に向けられている。

 

ブロートの異教理解

 

 ブロートは『異教、キリスト教、ユダヤ教』の冒頭に、次のように書いている。

 

「地上には三つの精神的な力、すなわち異教精神、キリスト教精神、ユダヤ教精神によって支配されている。――これらは究極の事物(die letzten Dinge)を解釈する三つの可能性である。可視的世界を神的な超越世界と結びつける三つの試みである。」(HCJ1 8)(1)

 

 ブロートによれば、この三つの精神的な力が世界の支配権をめぐって戦っており、そのいずれが勝利するかということが、世界の未来の運命を決する。異教精神は「現世の継続」の理念のもとにあり、それは神的領域を現世の継続としてとらえる。これに対して、キリスト教精神は「現世の否定」の理念のもとにあり、神的なものを現世の否定の相において見、不可視の世界を救うために、可視的世界の解消を望む。つまり、キリスト教精神は異教精神をちょうど裏返したものになる。しかし、この二つの世界観は可視的世界と不可視の世界に対して正しい関係を確立していない。それを確立しているのはユダヤ教精神である。ユダヤ教精神は、現世を異教精神のように一方的に肯定するのでもないし、キリスト教精神のように、それを一方的に否定するのでもない。それは現世をそれ自体のためにではなく、神のために肯定する。これは「現世の奇跡」として、人間が世界の中で恩寵に祝福された行為をすることを可能にする。すなわち、ユダヤ教の現世肯定は、異教的な現世の即自的肯定ではなく、「まず最初に絶望の中で没落し、次に恩寵によって再生した現世」の肯定、「奇跡のあとの現世」の肯定なのである(HCJ1 227)(2)

 さて、ブロートの解釈によれば、異教精神は「神的な世界を現世的な線をまっすぐ延長した上に求める。[・・・・]天と地は同一の素材でできている。英雄たちと半神たちは、人間と神々の間の橋を形づくる。現世的な似像によって、より高次のものは形成されている」(HCJ1 13)。そこで「異教精神は物質的世界を完全、無制限に是認する」(HCJ1 12)。ブロートはこのように異教精神を一元論、現世一元論と見なすのである。異教精神はただ単に古代ギリシアにおいて存在したばかりではなく、姿を変えて、超越的な世界の存在を否定する今日の学問や世界観の中にも生きている。このような異教精神にあっては、人は必然的に絶望せざるをえない。

 

「現世的な生はその有限性においていかなる意味も示さないので、同一方向に位置している非現世的な生も、同じ無意味さを、ただ規模を拡大して暴露せざるをえない。そこからホメーロスの描くハーデースの光景の慰めのなさ、神々の不自由さが生まれる。というのは、神々の背後には相変わらず暗黒なもの、解決のつかないもの、すべてを支配するモイラがひかえているからである。[・・・・]現世の世界はギリシア人にとっては混乱し、悲惨であった。超地上的な世界もまた意味を与えてくれないということは、我々にはギリシア的観念の必然的な結果であるように思えるのであるが、ギリシア人にとってはそれは自明の事実であった。(3)(HCJ2 264f.)

 

 カフカは彼の手紙で、ブロートのこのような異教理解に反対し、ギリシア人の世界観は一種の二元論であった、と主張する。それは現世と「決定的に神的なもの(das entscheidend Göttliche)」、あるいは「決定的なもの(das Entscheidende)」との二元論である。「神々の世界全体」は、ブロートが考えるように、単なる現世の諸力の似像ではなく、この「決定的に神的なもの」から現世の人間の目をそらさせるための巧妙な手段であった、とカフカは言う。

 

カフカのニーチェ解釈

 

 カフカのこのようなギリシアの神々の解釈は、すでにビンダーも指摘しているように(4)、明らかにニーチェの『悲劇の誕生』の次の一節を念頭に置いてなされている。

 

「ギリシア人は生存の恐怖と戦慄を知っていたし、感じてもいた。そもそも生きることを可能にするために、ギリシア人は恐怖と戦慄の前面に、オリンポスの神々の輝かしい夢の一族を誕生させなければならなかった。自然のタイタン的な諸力に対するあの途方もない不信、あらゆる認識を越えて無慈悲に支配するあのモイラ、偉大なる人間の友プロメテウスのあの禿鷹、賢明なエディプスのあの恐ろしい運命、オレステスを母殺しに駆り立てるアトレイデス一族のあの血族の呪い、要するに森の神[=ディオニュソスの従者である獣神シレノスのこと]の全哲学とその神話的な様々な実例は[・・・・]ギリシア人によって、オリンポスの神々というあの芸術的な中間世界を通して、たえず新たに克服され、ともかくも覆いをかけられ、目からそらされてきた。生きることを可能とするために、ギリシア人はこれらの神々を、きわめて深い必要性に迫られて創造せざるをえなかったのである。」(5)

 

 ニーチェの原文とカフカの手紙の一節は、一見同じことを述べているように見える。ニーチェもカフカも、ギリシアの神々は、現世の人間の様々な世俗的な力や自然の諸力の神格化にすぎないという、ブロートの見解に示される一般的なギリシア神話観に反対し、重層的な神話解釈を打ち出している。すなわち、両者にとって神々の世界は「生存の恐怖と戦慄」(ニーチェ)、あるいは「決定的に神的なもの」(カフカ)から目をそらさせるための生存の手段なのである。

 ニーチェによれば、ギリシア人は、「恐怖と戦慄」に満ちたディオニュソス的な生の実相を直視すれば、人間は生きてゆけなくなる、と考えた。オリンポスの神々は生の実相を覆い隠すための一種の芸術的なヴェールであった。

 

「もしもギリシア人の生存がより高い栄光に包まれてその神々のうちに示されていなかったとすれば、あれほど感受性が鋭敏な、あれほど欲望の激しい、あれほど苦悩に対して比類のない能力をそなえていたあの民族は、どうしてそのほかに生存に耐えることができたであろう。生き続けるように誘いつつ、生存を補足し、完成する術としての芸術を生み出すのと同じ衝動が、オリンポスの世界を成り立たせた。このオリンポスの世界の中で、ギリシア的《意志》は目の前に一個の光明化の鏡を掲げた。かくして神々は、人間生活を身をもって生きることにより、人間生活を是認する。――これだけでもう充分な弁神論ではないか! かかる神々の燦々たる日の光を浴びた人間の生存は、それ自体つとめて追求に値するものと感じられるのである。」(6)

 

 神々も人間の生を生きる――ならば人間の生もそれ自体で神的である。このようにしてギリシア人は生きることを肯定するにいたる、とニーチェはギリシア神話の意義を一種の「弁神論」として解釈する。

 カフカはニーチェの「生存の恐怖と戦慄」を「決定的に神的なもの」と言い換えることによって、ニーチェの著作を換骨奪胎する。ニーチェの「生存の恐怖と戦慄」とは、破壊と創造をあわせ持つ生のディオニュソス的な深層のことであるが、カフカの「決定的に神的なもの」は「不壊なるもの」=楽園のことである。「楽園で破壊されたと言われているものが、真に破壊されうるものであったなら、それは決定的なものではなかった。しかし、それが不壊なるものであったなら、我々は誤った信仰に生きていることになる」とカフカは『考察』七四番に書いている。

 『チューラウ・アフォリズム』によれば、「不壊なるもの」を解放するためには、人間は現世的な自己を破壊しなければならない。もし人間が「不壊なるもの」を本気で解放しようとすれば、現世の生は不可能になる。現世の生を可能にするためには、「不壊なるもの」を「地上的な肉体から遠ざけ、人間的に呼吸できる空気を確保する」ようにしなければならない。ギリシア神話の神々はそのための手段であった。ギリシア人は人間的な欲望を持った神々の世界を「神的」と見なすことにより、真の意味で神的なもの、すなわち「決定的に神的なもの」を自分から遠ざけた。カフカが「決定的に神的なもの」という用語を用いるのは、これをギリシアの神々が体現している「神的なもの」と区別するためであったろう。つまり、カフカによれば、ギリシア人は「決定的に神的なもの」=「不壊なるもの」を知っていたが、「神的な」神々をつくることによってそれを巧妙に回避したのである。ギリシア人は、ブロートが考えるような完全な現世一元論者ではなく、絶望していたわけでもない。彼らは決定的に神的な世界と現世的な世界とを巧みに両立させた民族であったということになる。そしてこの両立の方式が「決定的に神的なもの=不壊なるものを信じて、それを目指して努力しないこと」である。ギリシア人はこの可能性に最も近づいていたのかもしれなかった。しかし、「不壊なるもの」を予感してしまったカフカにとっては、そのような幸福の可能性はもはや「冒涜でもあれば、到達不可能でもある」。

 ちなみに、手紙に出てくる「ルター的宗派」ということであるが、カフカはエールトムーテ・ドロテーア・フォン・ツィンツェンドルフ伯爵婦人の伝記を読んで、ルター派(ヘレンフート派)を特別に謙譲な宗派であると考えていた(7)。人間を彼らの神話の人間的な神々よりもさらに劣った存在であると考えるギリシア人は、カフカに言わせればきわめて謙虚な民族であった、ということになる。また、「《異教精神》は部分的には君の精神的な故郷である」というのは、「君の肯定性」ということとも関連しているが、ブロートが異教精神の現世主義を攻撃しているにもかかわらず、彼がユダヤ教の「現世の奇跡」の概念によって、結局のところ現世に対して肯定的な態度を取っていることを指している。

 

「究極の事物」をめぐる対話

 

 ところで、ブロートのこの宗教哲学的な著作は、上に引用した一節で彼自身が書いているように、まさにブロートの「究極の事物(die letzten Dinge)」に関する考察であった(8)。カフカ、ブロート、ヴェルチュ、バウムの四人、ブロートが名づけるところのいわゆる「四者同盟」(ÜFK 96<118>)の友人たちは、文学だけではなく、哲学的、宗教的問題についても常に議論を交わしており、彼らは自分たちの文学的創作や哲学的思索を通じて、「過渡期の世代」(H 200<3:152>)に生きる西ユダヤ人の共通の問題について異なった角度からアプローチしていた。その際、しばしば彼らの会話の中心的なテーマとなっていたのは「自由意志」の問題であった(9)。そして彼らはみな女性あるいは結婚生活をめぐって不幸を経験しており、同じ人生上の問題にも直面していた(10)。「信条告白の書(Bekenntnisbuch)」という副題を付けられたブロートの二巻本の大部な著書は、「究極の事物」をめぐる彼自身の数年間にわたる苦悩に満ちた人生上の体験と理論上の遍歴の総決算の書であった(11)

 「究極の事物」という言葉が「四者同盟」の間では共通の理解をもって頻繁に用いられていたらしいことは、フェリスとの婚約の破棄のとき、カフカがブロートに対してもらした言葉に暗示されているだけではない。ブロートは「詩人フランツ・カフカ」という一九二一年のエッセイの中でも、カフカの作品に見られる笑いを「究極の事物のそばにおける笑い、いわば形而上的な笑い」と特徴づけている(12)

 さらに、一九二〇年九月初めに、もう一人の友人ヴェルチュが『恩寵と自由』という哲学書を出版したが(13)、これはいわばヴェルチュの「究極の事物」に関する「信条告白の書」であった。この書も九月半ばからの書類束Aにおけるアフォリズム的考察の一つの刺激になったかもしれない。というのは、二六・二番のアフォリズムは「志向と体験」と題された一九一八年二月のアフォリズムの書き直しであるが、そもそもこのアフォリズムはヴェルチュの論文「体験と志向」に触発されて成立したからである。この論文は形を変えて『恩寵と自由』の中に収録されている。これらの著書の出版は、普段は会話や手紙の形で行なわれていた哲学的議論を、書物の形で継続することであった。カフカはブロートの「究極の事物」に関する著作を強い関心をもって「一気に」読んだのであったが、友人たちの著書に接して、カフカも自分なりの「究極の事物」に関する「信条告白の書」をものにしようとする意欲を感じたとしてもおかしくはない。

 ただしカフカは、ブロートやヴェルチュのような哲学的な思弁を行なう能力には欠けていた。彼は一九一三年二月二十七/二十八日のフェリス宛の手紙で、ヴェルチュとブロートの共著の哲学書である『観照と概念』を読んで理解困難であったことを告白している(F 317<10:288>)。八月七日のブロート宛の手紙でも、カフカは「論争」は「僕のできる範囲において」という限定をつけている。しかしこのことは、時々誤って主張されるように、カフカが哲学や哲学的な問題に関心をいだいていなかったり、哲学的思索の能力に欠けていたことを意味するものでは決してない。彼が関心をもって読んだ哲学者は、カントやヘーゲルといったドイツ観念論の主流に属する思弁的哲学者ではなく、パスカル、ショーペンハウアー、キルケゴール、ニーチェなどの実存哲学の系譜につながる哲学者であった。このような彼が自らの哲学的な思索を表現しようとすれば、それはアフォリズムという断片的、非体系的な形式を採らざるをえないであろう(ちなみに、右に挙げたカフカの愛読した哲学者たちはいずれもすぐれたアフォリストである)。彼はヴェルチュの「体験と志向」という哲学論文に対する応答をアフォリズムの形式で書いているし、キルケゴールの『おそれとおののき』に対する批判もやはり八篇のアフォリズムで行なっている(H 124ff.<3:94f.>)。キルケゴール・アフォリズムは私の知る限り、キルケゴールに対してなされた最も痛烈な批判である。これを正しく読めば、カフカに哲学的な思考能力が欠けていた、などとは決して言えない。このような誤解が生まれたのは、アフォリズムがれっきとした哲学表現のスタイルであることに対する軽視もしくは無知と関連しているだろう。アフォリズムがカフカの哲学的思索を表現するスタイルなのである。このような視点から見れば、カフカを単に文学者としてだけではなく、アフォリズム哲学の系譜につながる思想家としてとらえることも可能である。

 ブロートの(そしておそらくはヴェルチュの)著作に対する哲学的応答――これがカフカが『考察』の編集を思い立った第二の(ただし、時間的にはミレナ体験の克服に先行する)理由であると私は考える。彼はブロートの著作に対して、手紙の中ですでに『チューラウ・アフォリズム』の中の一篇のアフォリズムで応え、ヴェルチュの論文に触発されて一篇のアフォリズムを書いたが、それをもっと詳細に行なおうとすれば、自分の哲学的思索を「アフォリズム集」として提示しなければならないであろう。彼はこれを出版して、「究極の事物」に関してブロートやヴェルチュらが与えたのとは異なった解答を行なおうとしたのであった(14)

 

八九番の自由意志に関するアフォリズム

 

 『考察』がブロートとヴェルチュの著書に対する一種の哲学的応答であるという私のテーゼは、さらに『考察』八九番のアフォリズムによって補強される。すでに述べたように、『考察』はほとんどすべてが八折判ノートに書かれた順番に配列されているのであるが、ただ八九番だけがこの配列原則を破っている(もちろん後になって付加された「・二」のアフォリズムは除いて)。八折判ノートの位置(H 118<3:89>)からすれば、このアフォリズムは本来一〇四番でなければならないが、一〇四番は空白になっている。この事実は以下のことを意味するだろう――カフカはアフォリズム集を「一〇〇」という数にまとめようとしたとき、一〇一番以降のアフォリズムをすべて切り捨てることを一時的に考慮したに違いない。そのとき、一〇一番以降にどうしても捨てることができない重要なアフォリズムがあれば、それは成立順という配列の原則を破ってまでも前に持ってこなければならない。カフカにとってそれほど重要であったのがこの八九番のアフォリズムであった、ということになる。すなわち、彼はこのアフォリズムを最初一〇四番として採用したのであるが、あとで、最初は書かれていたが、それほど重要ではないと考えた別の八九番のアフォリズムを抹消して、一〇四番を八九番の位置に持ってきたのである。

 八折判ノートGには、『考察』八八番と九〇番に対応する二つのアフォリズムの間には、以下の五篇のアフォリズムが書かれている。そのうちの一つが抹消された本来の八九番ということになる。

 

「自殺者とはこんな囚人である。彼は、監獄の中庭に絞首台が建てられるのを見て、あれは俺のためだ、と早合点し、夜中に独房を脱出し、下に降りて、自分で首をつるのである。」

「認識ならば我々は持っている。認識を得ようとわざわざ努力する人は、認識に逆らおうと努力している疑いがある。」

「至聖所に入る前には、お前は靴を脱がねばならぬ。靴ばかりでなく、旅行着も荷物もすべて置いてゆかねばならぬ。そして、その下の裸身も、裸身の下にあるすべても、そしてさらにその下にあるすべても、それから核も、核の核も、それから他のものも、それから残滓も、それから不滅の火の輝きまでもだ。そのようにしてはじめて、その火自身が至聖なるものに吸い取られ、また火も至聖なるものに自己を吸い取らせる。このようにして、両者は互いにあらがえなくなるのである。」

「自己をふり払うことではなく、自己を消尽すること。」

「堕罪に対しては、三つの罰の可能性があった。最も軽いのは実際に行なわれた罰、すなわち楽園からの追放であった。第二の罰は楽園の破壊であり、第三の罰は――そしてこれが最も恐ろしい罰であったことだろう――永遠の生命を遮断して、他のすべてのものは、何の変更も加えずにそのままにしておくことであった。」(H 104f.<3:79>)

 

 さて、一〇四番から八九番に移されたのは次のような自由意志に関するアフォリズムである。

 

「人間には自由意志があり、しかも三様に持っている。第一に、彼はこの生を意欲したとき、自由であった。今ではしかし、彼はこの生をもはや取り消すことはできない。なぜならば、生きることによってその当時いだいた意志を実行している、という点を除いては、彼は現在では、その当時この生を意欲した人間とはもはや別人になっているからである。

 第二に彼は、この生の歩み方と道筋を選べるということにおいて、自由である。

  第三に彼が自由なのは、彼がいつか将来再びなるであろう者として、いかなる条件のもとでも自分自身にこの生を歩みぬかせ、このようにして自分を[本来の]自己に還えらせようとする意志を持っているからである。そしてしかも、この[本来の自己への]道は、なるほど選ぶことはできるものの、いずれにせよまったく迷宮のように入り組んでいるので、彼はこの生のどんな地点にすら、足を踏み入れずにはいられないほどのものなのである。

 これが三様の自由意志であるが、それはしかし同時的なものであるから、単一でもあり、根本においてはまったく単一であるので、意志の余地なぞなくて、自由な意志も不自由な意志もありはしないのである。」

 

 このアフォリズムはレトリック面から言えば、抹消された、あるいは採用されなかった他の五篇のアフォリズムと比べて、とりわけすぐれているとは思えない。レトリックやイメージの点から言えば、自殺に関するアフォリズムのほうが面白いように思われる。また、認識に関するアフォリズムも、『考察』全体の主要テーマに関連していて、捨てがたい。自由意志に関するアフォリズムには、グレイが巧みに分析してみせた、七七番の「人々との交わりは自己観察へと誘惑する」におけるような見事なレトリックの遊びはない(15)。むしろ、冗漫で荒削りで未完成な印象すら与える。だから、グレイのように、カフカのアフォリズムをただレトリックの面からのみ見てゆくのであれば、なぜこのアフォリズムがカフカにとってそれほど重要であったのかが理解できない。しかしカフカにとって、自由意志をめぐるブロートやヴェルチュたちとの議論において、彼自身の考えを端的に表現するこのアフォリズムの思想内容は、絶対に採用しなければならない種類のものだったのである。

 

ブロートとヴェルチュの意志自由論への反論

 

 このアフォリズムは「楽園認識の木生命の木」という苦悩を通じての永遠の成長という『チューラウ・アフォリズム』の基本思想と密接に関連している。カフカはこの中で人間には三様の自由意志がある、と言う。その第一は、人間が「この生を意欲したとき」の自由意志である。「この生を意欲する」というのは、楽園における神的単一性の存在であった人間が、認識=意識の放射を行なって、二重存在者になったことである。堕罪という事態は、人間が自分の意志で現世を欲したこととしても解釈できる。現世を創り出したのは人間以外の何者でもないのであるから、人間はまさに自由意志でこの世界を意欲したということになる。しかし、いったん二重存在者になってしまった人間は、今度は現世の生活を簡単には取り消せなくなってしまった。

 カフカは第二に、いわゆる選択の自由を常識的に認める。哲学で問題にされる自由意志の問題というのは、大体がこの選択の自由の問題である。たとえば、現象の世界はすべて因果律によって律せられているとするショーペンハウアーは、このような自由意志の存在を否定する(16)。ショーペンハウアーの影響を強く受けたブロートは、青年期には意志不自由説に陥ってしまった。彼にとっては自由意志の問題が、彼の文学と生を導く最重要の問題であった。彼はユダヤ教を自由の宗教と同一視する友人フーゴー・ベルクマンのユダヤ教理解(ベルクマンのユダヤ教理解の背後にはブーバーのユダヤ教解釈がある)と、シオニズムへの接近によって、ショーペンハウアー的、悲観的意志不自由説から脱却することができた。しかし、ユダヤ教を自由の宗教と考えていた彼は、今度は妻以外の女性との恋愛関係によって、自分自身の倫理的、道徳的な不完全さを思い知る。彼は人間は自由意志だけでは完全性へ到達することが不可能であることを悟り、一面的な自由の宗教としてのユダヤ教理解を放棄するにいたる。彼のそれまでの人生と思索の総決算の書である『異教、キリスト教、ユダヤ教』において、彼は生の領域を、人間の自由意志が妥当する領域と、神の恩寵に頼らねばならない領域の二つに分割し、人間の自由意志と神への絶対的信仰とを両立させようとした。その二つとは「高貴なる不幸」と「高貴ならざる不幸」の二つの領域である。「高貴なる不幸」とは有限的存在としての人間の本質から生まれてくる「心の変わりやすさ、肉体の衰亡」などであるが、特には倫理的な義務を圧倒するエロス的な情熱である。このような苦悩は人間の倫理的自由意志ではいかんとも解決しがたく、ただ神の恩寵にすがるほかはない。これに対して「高貴ならざる不幸」とは社会的不公正や戦争など、人間自身がつくり出した不幸で、この領域においては、人間は自由な倫理的決断によってそれらを積極的に除去するように努めなければならない(17)。しかし、カフカに言わせれば、このような複雑な操作は必要ではない。彼は一九一八年三月下旬の手紙で、それまでの意志自由説を放棄し始めたブロートに対して、「この意志の自由は我々からいつでも失われることはない」(Br 237<9:259>)と書いている。

 またヴェルチュの『恩寵と自由』は、「人間の自由に関する古典的、哲学的、神学的テクストに直接的に結びつく哲学書であるが、特に、カントの義務的倫理の《生の疎遠さ》を乗り越えようとする努力において、カントとドイツ観念論に結びついている」(18)。この著書もその題名が示すように、ブロートと似たような問題を扱っている。ヴェルチュは人間存在の根本的問題を、「生命力(自然)と精神」の対立の中でいかにして倫理的な行為ができるか、という問題に見る。この葛藤を解決するには「恩寵の道」と「自由の道」という二つの解決策がある。彼のブロートとの相違点は、彼が生の領域をブロートのように二つに分割することなく、二つの道のどちらをも同じように正しい問題解決の方法と見なすことである。ただし、ヴェルチュ自身は理論的哲学者として、「恩寵の道」よりも、精神が自然という「素材」を克服し、変容する「自由の道」のほうにはるかに強く傾いている。この点において、彼はブーバーやベルクマンの「自由の宗教」としてのユダヤ教解釈に近い立場にいることになる(19)

 このように、ブロートもヴェルチュも程度の差こそあれ自由意志の存在を認めるのであるが、カフカによれば、このような自由意志はただ現世の中の道筋を選ぶときにだけ妥当するにすぎない。それはブロートやヴェルチュがしたように、むきになって確保しなければならない大切な原理ではない。なぜなら、人間は「楽園認識の木生命の木」という永遠の発展において、その出発点=楽園と、その到達点=「生命の木」=「神と等しい人間」という両端をすでに決定されているからである。人間は現世のどのような道筋を選ぼうと、「いつか将来再びなるであろう者[=神と等しい人間]として、いかなる条件のもとでも自分自身にこの生を歩みぬかせ、このようにして自分を[本来の]自己に還えらせ」なければならない。しかもその際、彼は「この生のどんな地点」にでも足を踏み入れ、人生のありとあらゆる苦悩を味わい尽くさねばならない。このような苦悩による現世的自己の徹底的破壊を通してのみ、彼は再び楽園に戻ることができるのである。彼は本来は神的な存在者として、このような第三の自由意志も持っている。しかし、このような三様の自由意志は、結局のところ不自由な意志と何ら変わるところはない、とカフカは言う。このような自由意志論は、ブロートの『異教、キリスト教、ユダヤ教』やヴェルチュの『恩寵と自由』に対する反論であった(20)

 

柄が灼熱しているハンマー

 

 ただし、アフォリズム形式による自分自身の「究極の事物」に関する「信条告白の書」を出版する計画は、八月の段階では彼のミレナとの関係から、すぐには実行に移されなかった。そのような意欲が現実化されるのには、ミレナとの関係の決裂が決定的な影響を及ぼした。ミレナとの結婚の試みの失敗は、西ユダヤ人の典型としての自分の病が類例のないほどひどいものであることを、彼にあらためて思い知らせた。『チューラウ・アフォリズム』の目的は、彼個人の病を西ユダヤ人一般の病の典型例として診断し、そしてその病状診断の中に「新しい逃げ道」を見出すことであった。彼がキリスト教徒チェコ人のミレナとの交際によって、自分の西ユダヤ人としての病を強く意識させられた結果、その診断書である『チューラウ・アフォリズム』に戻ったことは当然のことであった。ミレナ体験の反省も含めて、彼はブロートとヴェルチュの著書に対する応答を行なおうと考えたのであろう。だがそのとき、八折判ノートG、Hにおいては認識それ自体が「逃げ道」として「慰め」をもたらしたのだが、『考察』の編纂という「なぞり書き」の「なぞり書き」作業は、もはやそのような効果を持たなかった。これが「チューラウ[=『チューラウ・アフォリズム』]とプラハ[=『考察』]の間」の最大の「相違」であった。

 『チューラウ・アフォリズム』に対するカフカの態度の変化は、すでに検討した「・二」の並記アフォリズムにも現われている。『チューラウ・アフォリズム』はその遠近法的二元論によって、たとえユートピア的とはいえ、楽園という肯定的な世界と、信仰という肯定的な生の可能性を描き出していた。カフカは『考察』に最初、信仰に関して肯定的な響きのある「・一」番のアフォリズムを採用したが、『考察』編纂の途中で、そのようなアフォリズムは彼の今の絶望的な心境にはそぐわないと感じたに違いない。そこで彼は、幾篇かの信仰に関するアフォリズムを信仰とは無関係の新しいアフォリズムで置き換えた。九九番、一〇六番、一〇九番における「・二」の非信仰的なアフォリズムの特徴はこのようにして理解できる。

 書類束Aの「チューラウとプラハの間の相違」というメモの直前には、カフカ研究者によって度々引用されるが、その意味が不明な、

 

「祈りの形式としての書くこと」(H 348<3:259>)

 

という記述がある。「祈り(Gebet)」という語は『チューラウ・アフォリズム』では『考察』一〇六・一番にのみ出てくる。カフカは『考察』編纂の途中で、このアフォリズムを紙片に書き写したとき、このような感想を書き留めたものと、私は想像する。『チューラウ・アフォリズム』はその楽園の描出において、まさに「祈りの形式としての書くこと」と名づけることがふさわしいかもしれない。

 しかし、『考察』を編纂しつつあるカフカは、自分が『チューラウ・アフォリズム』が示すような「祈り」と信仰の世界からはるかに遠ざかっていることを知っている。『チューラウ・アフォリズム』を『考察』へと編纂する中で、彼は自分が「不壊なるもの」に一歩も近づいておらず、チューラウ以来少しも進歩していない、ということを確認せざるをえなかった。このとき、『考察』は彼にとって、「新しい逃げ道」、「自分の中の疑いえないもの」の要約という肯定的なものから、自分の本性の「頑迷さ」の証拠という否定的なものへと変ずる。

 

「彼は一つの彫像を彫り上げたと思っていた。しかし、実のところ、ただ同じ刻み口をいつまでも鑿でたたいていただけだった。それも頑迷さのためだが、さらにはむしろ途方にくれてやったことであった。」(H 349<3:260>)

 

 『考察』編纂の過程で、彼は相も変わらず「同じ刻み口をいつまでも鑿でたたいて」いるという自分の「頑迷さ」を、あるいは自分がただ「途方にくれ」ているにすぎないことを、いよいよ強く思い知ることになったのである。

 そこで、「チューラウとプラハの間の相違」について述べている断想の少し前に、

 

「私は頑丈なハンマーをひとつ持っている。しかし、それを使用することができない。というのは、その柄が灼熱しているからだ」(H 348<3:259>)

 

というアフォリズムがあるのも不思議ではない。この「ハンマー」は「彫像」と同じく、『チューラウ・アフォリズム』あるいは『考察』のことを指している。『考察』が描き出している人間の本来的なあり方は、もしそれを現実化することができるのであれば、それは牢獄としての世界を打ち破ることができる「頑丈なハンマー」となるであろう。しかし、そのハンマーは「柄が灼熱」しているために、用いることができない。使用不可能なハンマーである『考察』は実際には実現できないユートピア的な楽園を描き出して、そのことによってかえって現実世界に対する絶望を深めることになる――ちょうど世界をくつがえすのではなく、自分自身をくつがえす「アルキメデスの点」のように。

 

無力な小槌

 

 このような使用不可能なハンマーとしての『考察』のイメージは、書類束Bの中ではさらに次のような短篇へと文学作品化されることになる。

 

「実を言えば、私はその事柄全体をそれほど苦にしているわけではない。私は片隅に横になり、横になっても見える限りのものを眺め、彼の言うことで理解できる限りのことに耳を傾けているだけである。それ以外では、私はもう数カ月前から薄暗がりの中で生活し、真っ暗な夜を待つだけである。だが、私の監房の仲間である頑固な男、かつて大尉であったその男は違う。私は彼の立場に身を置いて、彼の考えを理解することができる。彼は、自分の状況はいわば極地探検家の状況と似ている、という見解を持っているのだ。その探検家はどこかで絶望的に氷に閉じこめられてしまっているのだが、極地探検の物語で読むことができるように、きっと救われることになっている、あるいはより正しくは、もう救われているというのだ。そうすると次のような葛藤が生じることになる――彼が救われるであろうということは、彼にとっては疑いもなく彼自身の意志とは無関係のことである。自分は勝利をおさめるに足る重要な人物であるというただそれだけの理由で、救われることになるであろう。それなら、自分は救われることを望むべきであろうか? 望もうが、望むまいが、何の違いも生じないだろう。どうせ救われることになるのだ。しかし、それでも救済を望むべきか、という問題はそのまま残るのだ。彼はこういう一見些細な問題にこだわり、この問題を考え抜き、私に質問し、私たちはそれについて話し合うのである。このような設問が彼の運命を決定していることに、彼は納得がいかない。私たちは救済それ自体については話し合わない。救済のためには彼がどこかで手に入れてきた小さなハンマーで充分だと、彼は考えているように思われる。それは製図板におさえ鋲を打ち込むのに使う小槌である。その小槌はそれ以上の仕事はできず、彼はそれに何の期待もかけていない。ただ持っているだけでうっとりとするのだ。彼は時折り横になっている私の隣りに膝だちになって、この何千回となく見たことのある小槌を私の鼻先に見せびらかしたり、私の手を取って、地面の上に広げさせ、全部の指をそれで順番にたたいてゆく。この槌では壁のひとかけらとてたたき落とすことができないことを彼も承知しているし、そんなことをする気もない。彼が時折りすることといえば、槌で周囲の壁を軽く撫でることだ。その様子たるや、待機中の大規模な救済機構を活動せしめる秘密の合図を、それによって送ることができるとでもいわんばかりである。そんなことには決してならないであろう。救済は槌とは無関係に、救済の時がくれば行なわれるであろう。しかし、その槌はそれでも何ものかではある。手につかめるもの、ひとつの保証、救済自体は決して接吻できないであろうが、これは接吻できる何ものかではあるのだ。

 さて、彼の質問に対する私の答は単純明快で、《いや、救済は望むべきではない》というものだ。私は一般的な法則をうちたてる気はない。それは獄吏たちの仕事だ。私はただ自分のことについて語っているにすぎない。私に関して言えば、私はかつて自由の中にいたのだが、それは私たちが救われたらそうなるはずの自由と同じものである。私はその自由にほとんど耐えることができなかった、いや、今こうしてこの牢獄に入っているからには、まさに本当に耐えられなかったのである。もっとも、牢獄に入りたいなどと本気で望んだわけではなくて、ただ漠然とどこかへ、ひょとしたら別の星へ、さしあたりどこか別の星へ立ち去りたかっただけなのだ。しかし、その星へ行っても、そこの空気を私は呼吸することができるだろうか、そこでもこの牢獄と同じように息が詰まるのではなかろうか? それならば、牢獄行きを志願したとしても同じことであろう。

 時折り二人の獄吏が私たちの監房にやってきて、トランプ遊びをする。彼らがなぜそんなことをするのか、私にはわからない。それは実際のところ、刑罰の一種の軽減である。彼らがやってくるのはたいてい夕方頃で、そのころ私はいつでも微熱が出る。そのために目を完全に開けておくことができないものだから、彼らが持ってくる大きなランタンの光のもとでも、彼らの姿ははっきり見えない。それが獄吏をさえ楽しませるのであれば、いったい牢獄と言えるのであろうか? だが、こんなことを考えても、必ずしもうれしくなるわけではない。じきに囚人としての階級意識が目覚めて、彼らはここの囚人たちのところにやってきて何をするつもりなのだろう、と考えてしまう。彼らがここに来てくれると、もちろん私はうれしい。これらの屈強な男たちがいてくれると、身が安全になったように感じるし、彼らの力によって、自分が囚人の立場を越えて一段高められたような感じもする。しかしまた、彼らが来ることを望まないこともたしかで、大きな口を開けて、ほかの何ものでもなく、私の吐く息の力で、彼らを監房から吹き飛ばしてやりたいという気もする。

 その大尉は獄につながれることによって気が狂ったのだ、と言うこともたしかにできる。彼の思考範囲はきわめて狭かったので、ほかの考えを受け入れる余地はほとんどないのである。彼は文字通り、救済の考えを最後まで考え抜いてしまったので、彼の頭の中には、彼を痙攣的にほんのわずか高揚させるのにちょうど必要なだけの、ささやかな残滓しか残っていない。だが、彼は私が行なうこの助言すらも時折り忘れてしまい、するともちろんのこと、再び私の助言をひっつかもうとし、そして幸福と誇りのあまりほっと深く息をつくのである。しかしだからといって、私が彼にまさっているわけではない。方法や、何か非本質的なことにおいてはもしかしたらそうかもしれないが、そのほかの点では彼にまさっているわけではない。」(H 360ff.<3:268f.>)

 

 ミレナとの出会いによって、ひとたびは世界肯定の地点に近づいたカフカではあったが、ミレナとの訣別は、彼を再び『彼』と同じグノーシス的世界拒否へ投げ返した。書類束AとBにおいては、また『彼』に見られるグノーシス的な「牢獄」のイメージが頻出することになるが、この作品断片はその典型である(21)

 この短篇も『チューラウ・アフォリズム』の根本思想と密接に関連している。「私」がかつてその中にいた「自由」は、堕罪以前の楽園の生である。「私たちが救われたらそうなるはずの自由」は、永遠の成長ののちに到達する「神と等しい人間」としての自由である。カフカの人間観によれば、人間は本来「不壊なるもの」という神的存在者であるから、やがていつかこの内部神性を開顕し、本来の自由の中へ救済されることは確実である。だが、まさにそれゆえに、この作品で扱われているような「救済されることが確実なら救済を望むべきであるか」という「葛藤」が生じてくることになる。カフカは『考察』一〇五番において、「世界は一つの移行にすぎない」と述べているが、世界が一つの移行段階であるならば、この世界という牢獄の中での「囚人」状態も、やがて過ぎ去る仮の姿であり、人間は本来もう救われているのだ、という結論になる。そこで『考察』六四/六五番では、「我々がこの世でそれを知る知らないにかかわりなく、我々は実際のところ、常に楽園にとどまっている」と述べられることになる。しかし、理論的にはもう救われているのだとしても、現実的には人間は世界という「牢獄」の中にあって呻吟していることも事実である。現実的な救済を望むのはグノーシス的人間の自然な感情であろう。ところが、この牢獄の壁は堅固であり、「小槌」のような非力な人間的努力によっては突破できない。そこで「私」は「救済は望むべきではない」と、救済への願望に生きることを断念するのである。

 「救済のために彼がどこかで手に入れてきた小さなハンマー」は『チューラウ・アフォリズム』あるいは『考察』のことを指している。それは人間の内奥の「不壊なるもの」の存在を指し示して、「救済」を約束するかに見えるが、しかしそれは、牢獄としての世界の壁を打ち破るには、あまりにも無力な「小槌」にすぎない。ただし「救済自体は決して接吻できない」が、「これ」=『考察』は「接吻できる何ものか」ではある。この小槌を見せびらかす「頑固な男」=昔の大尉は、「頑迷さ」のために「同じ刻み口をいつまでも鑿でたたいて」いる男を想起させる。この頑固な男が元軍人であるのも偶然ではない。カフカは『チューラウ・アフォリズム』を精神的な戦いにたとえていた。ミレナへの手紙にも書いていたように、カフカは精神的な戦いを戦う軍人(ただし廃兵)であった。この戦いにおいて、『考察』は無力ではあるが、その美しさのゆえに「うっとり」として「何千回」でも眺めずにはいられない武器なのである。

 語り手である「私」は「かつて自由の中にいた」のだが、「その自由にほとんど耐えることができなかった」。人間はかつて「不壊なるもの」として楽園の自由の中にいたのだが、現世を欲して堕罪した。堕罪が人間の自由意志の結果として生じたのであれば、人間は楽園の自由に耐えられなかったのだ、という結論になる。だから、現在牢獄に入っているのも自分の責任以外の何ものでもない。しかし、それにもかかわらず、この牢獄は耐えがたい。「私」は「どこか別の星へ立ち去りたい」と願う(22)

 この短篇の「彼」=「昔の大尉」と「私」という二人の人物は、もちろん両方ともカフカ自身にほかならない。「彼」は救済を求めて「究極の事物」についての考察をめぐらす「頑迷な」カフカである。「彼は文字通り、救済の考えを最後まで考え抜いてしまったので、彼の頭の中には、彼を痙攣的にほんのわずか高揚させるのにちょうど必要なだけの、ささやかな残滓しか残っていない」。『考察』においてカフカは、「究極の事物」についての考察を最後まで考え抜き、それに付け加えるべき新たな思索はもう何も残っていなかった。「私」は『考察』の編集をする途中で、そのような営みの無益さを認識したカフカである。「私」は究極的な救済という考えは断念して、牢獄での生を諦念をもって耐えるしかないと思う。マトリアリへの旅立ちという事情もさることながら、カフカが『考察』の編纂作業を中断し、ついには出版を断念したのは、「なぞり書き」作業のこのような「慰め」のなさを認識したためであったろう。

 かくして我々には、最終的な形には完成されていない『考察』という謎に満ちたアフォリズム集が残されることになった。このアフォリズム集はたしかにカフカを楽園に導きはしなかったが、救済に関する徹底した思索によって、それを読む我々もまた「究極の事物」について考察をめぐらすように誘い続けるのである。(了)

 

 

 

(1)  HCJ1 = Max Brod, Heidentum Christentum Judentum. Band I, München 21922; HCJ2 = ders., Heidentum Christentum Judentum. Band II, München 21922.

(2) ブロートのこのようなユダヤ教解釈には、彼のキルケゴール解釈が大きな影響を及ぼしている。Vgl. Hideo Nakazawa, Zu Kafkas und Brods Kierkegaard-Deutung, in: Doitsu Bungaku(ドイツ文学)79 (Herbst 1987).

(3)  この箇所はカフカに送った原稿には当初なかったが、カフカの批判によってブロートが著書においてあとから付加したものと思われる。すなわちこれは「モイラだとか、その他多くのものは、どんな意味を持っていたというのだろう」というカフカの問に対するブロートの応答である。Vgl. Max Brod/Franz Kafka, Eine Freundschaft. Briefwechsel. Hrsg. von Malcolm Pasley, Frankfurt/M. 1989, S. 500 (Anm. 27).

(4)  Hartmut Binder, Motiv und Gestaltung bei Franz Kafka, Bonn 1966, S. 89.

(5)  強調はニーチェ。Friedrich Nietzsche, Die Geburt der Tragödie, in: Sämtliche Werke. Kritische Studienausgabe. Band 1. Hrsg. von G. Colli und M. Montinari, München/Berlin/New York 1980, S. 35f.<ニーチェ全集第一巻『悲劇の誕生』(白水社、一九七九年)、四〇頁以下>.

(6)  強調はニーチェ。Ibid., S. 36<41>.

(7)  Hartmut Binder, Leben und Persönlichkeit Franz Kafkas, in: Hartmut Binder (Hrsg.), Kafka-Handbuch. Band 1. Der Mensch und seine Zeit, Stuttgart 1979, S. 495.

(8) 「究極の事物」という語は哲学的思索の標題として時折り用いられる。たとえばニーチェのアフォリズム集『人間的な、あまりに人間的な』の第一章は「最初にして最後の事物について(Von den ersten und letzten Dingen)」と題されている(Friedrich Nietzsche, Menschliches, Allzumenschliches I, in: Sämtliche Werke. Kritische Studienausgabe Band 2. Hrsg. von G. Colli und M. Montinari, München 1980, S. 23<ニーチェ全集第六巻『人間的な、あまりに人間的な(上)』[白水社、一九八〇年]、二七頁>)。またオットー・ヴァイニンガーのアフォリズム集は『究極の事物について(Über die letzten Dinge)』と題されている(Otto Weininger, Über die letzten Dinge, München 1980 [Nachdruck von der Ausgabe von 1904])

(9)  Max Brod, Der Prager Kreis, Stuttgart/Berlin/Köln/Mainz 1966, S. 133ff.

(10) 中澤英雄「カフカにおける《ユダヤ人》問題」、『へるめす』(岩波書店)、第二五号(一九九〇年五月)、五七頁。

(11)  ブロートの人生上の問題と彼の文学的・哲学的・宗教的展開の関連については次の拙稿を参照されたい。Hideo Nakazawa, Die Problematik der Willensfreiheit bei Kafka und Brod, in: The Proceedings of the Department of Foreign Languages and Literatures, College of Arts and Sciences, University of Tokyo(東京大学教養学部外国語科研究紀要), Vol.35 No.1 (1987), S. 25-52.

(12) Max Brod, Der Dichter Franz Kafka, in: Die Neue Rundschau, Berlin, November 1921. Wiederabgedruckt in: J. Born u. a. (Hrsg.), Franz Kafka. Kritik und Rezeption zu seinen Lebzeiten 1912-1924, Frankfurt/M. 1979, S. 155.

(13) Hartmut Binder, Ein ungedrucktes Schreiben Franz Kafkas an Felix Weltsch, in: Jahrbuch der Deutschen Schiller-Gesellschaft, Nr. 20 (1976), S. 104.

(14) ヴェルチュも『恩寵と自由』の出版に先立って、カフカにそのゲラ刷りを送って批判を仰いでいるが、カフカがこのゲラを読んだのは一九一九年から一九二〇年にかけての冬と見られている(Hartmut Binder, ibid.)。これはカフカが『彼』のアフォリズム群を書いた時期とちょうど重なる。「志向と体験」のアフォリズムがカフカのヴェルチュの論文「体験と志向」に対する応答であるとすると、『彼』のアフォリズム群はヴェルチュの著書に対する応答として成立したという見方も可能である。『彼』には、

「あらゆる生の、すなわち他人の生と自分の生の、自虐的で、鈍重で、しばしば長くよどみながらも、根本的にはやむことのない波状運動が、彼を苦しめる。それが否応なしに、思考することを絶え間なく強制するからである。時折り彼には、こちらの苦痛のほうが出来事そのものに先行するように思えることがある。彼の友人に子供が生まれる予定だ、と聞くと、彼は先に考える人として、もうその苦しみを味わったことに気づくのである」(KT 852; B 292f.<2:233>)

というアフォリズムがあるが、ビンダーはこの「友人」はヴェルチュだと推定している。事実、このアフォリズムの書かれた数カ月後、ヴェルチュには娘が生まれている(KK2 419f.)。『彼』が部分的にはヴェルチュの著書に触発された可能性は充分にある。

(15) カフカは「交わり(Verkehr)」と「誘惑する(verführt)」という語に含まれる《ver-》という接頭語を用いて、言葉遊びをしている、《verführt》という語は《Verkehr》という語に性的なニュアンスを与えている、とグレイはカフカのアフォリズムのレトリックを分析している(Gray 242f.)

(16) ただし、ショーペンハウアー哲学によれば、意志が現象世界に自由に発現する特殊な例外的ケースがあるが、それは意志が自分自身を否定するときである(Arthur Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung. 1. Band. Hrsg. von Arthur Hübscher, Wiesbaden 31972, §70)

(17) Hideo Nakazawa, ibid.

(18) Jost Schillemeit, Chancen und Grenzen der Willensfreiheit. Fragen der Ethik und Religionsphilosophie bei Max Brod, Felix Weltsch und Kafka (1920), in: Österreichische Franz Kafka-Gesellschaft (Hrsg.), Prager deutschsprachige Literatur zur Zeit Kafkas (Schriftenreihe der Franz-Kafka-Gesellschaft, Bd. 3), Wien 1989, S. 166.

(19) Ibid., S. 167-171.

(20) この自由意志に関するアフォリズム八九番は八折判ノートHに一九一八年二月二十二日に書かれているが、ブロートやヴェルチュの著書に対する直接的批判として成立したものと見ることはできない(その頃彼らの著書はまだ出版されていなかった)。直接的にはこのアフォリズムはキルケゴールの『あれか・これか』に触発されたものかもしれない。カフカはこの著作を一九一八年一月中旬/下旬から読み始めているが(Br 224<9.247>)、キルケゴールの著書では、人間には美的生活と倫理的生活の「あれか、これか」を選択する自由が与えられているが、倫理的なものを選び取る意志を奮い起こさなければならない、と主張されているからである。しかし同時に、ブロートやヴェルチュらと普段から行なっていた自由意志をめぐる議論がこのアフォリズムの背後にあったことは確かであろう。

(21) シレマイトはこの断片を一九二〇年八月終わりに、カフカがブロートの『異教、キリスト教、ユダヤ教』を読んだあと、それに触発されて書かれたものと推測しているが(ibid., S. 178)、彼はこの作品が書かれている書類束B全体の成立時期を厳密に推定していない。ミレナとの決裂がまだ決定的になっていない時期に、このように典型的なグノーシス的牢獄のイメージが出現するとは考えられない。

(22) カフカは一九二二年一月二十四日の日記に次のように書いている。

「私は何か特定のやり方で発展するつもりはない。私が望んでいるのは別の場所へ行くことであり、それは実は《別の星へ行きたい》というあの望みなのだ。それには、自分のすぐ脇に立つことで充分だろう。自分がいま立っている場所を、別の場所として把握することができれば充分だろう。」(KT 889<7:402>)

 カフカがこう書いたとき、彼は書類束Bのこの断片を想起していたように思われる。

 

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