カフカの八折判ノートのいくつかの問題

――短編「家父の気がかり」と「特権意識」をめぐって――

中澤 英雄

 

1 8+2冊の八折判ノート

 

 カフカの遺稿の中には8冊の(やつ)折判(おりはん)ノートが遺されている。ノートのサイズは約16.5cm×10cmで,ギムナジウムでは「単語帳」と呼ばれている類のノートである,とマックス・ブロートは解説している(H 438)。8冊のノートは,最初ブロートによって1から8までの番号が与えられたが,今日では彼の推定は間違っていることが明らかにされ,正しい順番がAからHまでの記号で呼ばれている[] 。しかし,8冊以外に,何らかの理由で失われてしまった八折判ノートが少なくともあと2冊あったことが確実視されている。それをここでは仮に「AB」と「DE」と名づけておく(批判版カフカ全集はこういう表記を使っていない)。まず,批判版全集の編集者たちによって推定された,各ノートの記入時期,執筆場所,主な内容を表にまとめておこう。

 

ノート

記入時期

執筆場所

主な内容

A

191611月末〜1214

プラハ

墓守り

AB

1214日〜19171月半ば

プラハ

天井桟敷にて,騎乗者(隣村),商人,田舎医者兄弟殺し,?

B

19171月半ば〜219日の数日後

プラハ

橋,猟師グラフス,バケツの騎手,ジャッカルとアラビア人新しい弁護士

C

2月終わり〜3月終わり

プラハ

万里の長城(皇帝の詔書」を含む)一枚の古文書

D

3月終わり/4月初め〜422日の数日前

プラハ

雑種,猟師グラフス,ある学会への報告

DE

422日の数日前〜?

プラハ

ある学会への報告,?

E

8月〜912日以前

プラハ

断片

F

912日前〜1018日以前

チューラウ

断片,ユダヤ演劇について

G

1018日〜19181月末

チューラウ

アフォリズム

H

19181月末〜5月初め

チューラウ

アフォリズム

(太字は『田舎医者』に収録された作品。「?」はノートがないので不明な作品)

 

 8冊のノートのうち,A〜Dには主に文学作品が書かれている(存在していないが,「AB」と「DE」も同じだろうと考えられる)。Eの記述は文学的断片であるが,完成した作品はない。Fには断片のほか,カフカが191112年に知り合った,イディッシュ語劇団の俳優イツハク・レーヴィの回想記の清書がある。GとHはアフォリズムが主な執筆内容である。

 カフカが八折判ノートを使い始めたのは,19161126日から,プラハ城(フラチャニ城)の近くにある錬金術師小路の小部屋を,文学執筆のための仕事場として利用してからである。広さわずか6平方メートルというこの部屋は,末の妹のオットラが探し出し,準備してくれたものである。錬金術師小路は,天文学者のティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラーの庇護者となった神聖ローマ帝国皇帝ルードルフ2世が,1597年に作らせた市域であるが,中世の面影が残るこの街の部屋で,1912(『判決』,『変身』など)1914(『訴訟』=『審判』)に続く,カフカにとっては3回目の活発な文学創作期が始まった。カフカは,労働者災害保険局での仕事が終わると,この部屋で夜中まで執筆し,それから眠るために旧市街にある両親宅に戻った。彼は1917年3月初めに,シェーンボルン宮の別のアパートに転居したが,執筆活動は19174月末/5月初めまで続いたと見られる。ノートA〜「DE」はその成果である。そして,しばらくの中断をはさんで,同年8月からまた八折判ノートEの記入が開始される。Eの使用は,813日の早朝に起こった喀血という,カフカの人生上の転機と密接に関連している。Eの執筆はやがて,八折判ノートGとHのアフォリズムという,カフカにとって新しい文学形式につながることになる。

 錬金術師小路で始まった創作は,あたかも部屋の小ささやノートの小ささに対応するかのように,短編作品が多い。比較的長いのは,「ある学会への報告」と未完に終わった「万里の長城」であるが,これらはシェーンボルン宮の広いアパートで書かれている。カフカはかなり早い時期から,それらの中から適当なものを選んで短編集を出版する計画を立て,そのために何回か作品リストを作成している。彼はその短編集に一度は『責任』という題名を考えたが,最終的には『田舎医者』というタイトルで1919年にクルト・ヴォルフ社から刊行された(上の表で太字が『田舎医者』に収録された作品である)。ちなみに,最初に記入されたノートAは,ほとんどが戯曲断片「墓守り」で占められていて,この中から『田舎医者』に採用された作品はない。以下では最初に,刊行にいたるまでの作品リストの変遷を追い,次に「家父の気がかり」と「特権意識」という,この時期の作品を検討してみたい。

 

2 作品リストの変遷

 

() 1917年2月のリスト(八折判ノートB,11作品)

 最初の作品リストは八折判ノートBの最後のページに見出されるが,これは1917年2月終わりに作成されたものと推定されている(NSIA 81f.)

 

19172(八折判ノートB,11作品)

邦訳題名

手稿の所在

? Auf der Gallerie

天井桟敷にて

AB

? [Kastengeist]

特権意識

  Kubelreiter

バケツの騎手

  [Ein Reiter]

騎乗者

AB

? [Ein Kaufmann]

商人

AB

  Ein Landarzt

田舎医者

AB

  Traum

ある夢

  Vor dem Gesetz

掟の前

訴訟

  Ein Brudermord

兄弟殺し

AB

 [Die] Schakale <und Araber>

ジャッカルとアラビア人

  Der neue Advokat

新しい弁護士

 

 [ ]でくくられているのは,カフカによって抹消されている文字であり,< >でくくられているのは,あとから挿入された語句である。「?」はカフカ自身の記入である。タイトルには冠詞が欠けているものもある。

 これらの作品のうち,「掟の前」は,1914年に執筆されたあと未完のままに放置されていた『訴訟』(『審判』)の一部である。『訴訟』の中から独立した短編作品として切り出され,すでにほかの媒体に発表されていた。

 「ある夢」は,ヨーゼフ・Kが見た夢を描いている。登場人物の名とその内容から,『訴訟』と密接に関連した作品であるが,『訴訟』の原稿には含まれていない。また,『訴訟』では出来事がすべて主人公ヨーゼフ・Kの視点から物語られているのに対し,「ある夢」では主人公の外の語り手が存在している。このような語りの技法上の違いから見ても,「ある夢」は,『訴訟』の一部ではなく,『訴訟』をもとに新たに書かれた作品であることは確実である。これには手稿は存在せず,カフカ自身によるタイプ原稿が残っているだけである。以下で述べるように,ブロートがマルティン・ブーバーに送った手紙から,この作品が1916年6月21日以前に成立していたことは確実である(DLA 357ff.)

ブーバーは1916年4月からシオニズムの雑誌『ユダヤ人』を刊行した。この雑誌の協力者であったブロートは同年5月2日に,「社会思想家」の論文と並んで,ユダヤ系の「詩人」の文学作品もこの雑誌に掲載すべきだ,という意見をブーバーに伝えている[]。彼は6月21日に,カフカを含む現代の6人のドイツ語系ユダヤ人作家を論じたエッセイ「我らの文学者と共同体」をブーバーに送ったとき,カフカの「ある夢」も自分の論文と一緒に『ユダヤ人』に』に掲載はとは掲載してほしい,と添付している[]。つまり,この時点では,「ある夢」はすでに完成していたわけである。

この作品と「掟の前」を除いた残りの9作品が錬金術師小路以降の作品ということになるのだが,それらの中で,

(a)「バケツの騎手」「ジャッカルとアラビア人」「新しい弁護士」の手稿は八折判ノートBにある(NSIA 82f.)

(b)「特権意識 Kastengeist」という作品は,Bに書かれている「われわれの家は,場末の途方もない建物で,破壊できない中世の遺物がいくつも混じり合った安アパートである」(NSI 329)で始まる,題名のない作品のことを指しているものと思われる(NSIA 83)

(c)「天井桟敷にて」「騎乗者」「商人」「田舎医者」「兄弟殺し」については,自筆原稿が残されていない。おそらく,何らかの理由で失われたもう1冊の八折判ノート「AB」に書かれていたものと思われる(NSIA 83)

(d)「騎乗者」は,カフカがのちに「短い時間」や「隣村」と題名を変えた作品であると思われる(DLA 290, 343f.)

(e)「商人」はどこにも印刷・発表されなかったので,「AB」のノートとともに失われてしまったものと考えられる。

 

() 1917年3月のリスト(八折判ノートC,12作品)

 次に,1917年3月下旬に八折判ノートCの最後の1ページ前に書かれた12作品のリストがある(NSIA 84)

 

19173(八折判ノートC,12作品)

邦訳題名

手稿の所在

  Ein Traum

ある夢

  Vor dem Gesetz

掟の前

訴訟

  Eine kaiserliche Botschaft

皇帝の詔書

  Die kurze Zeit

短い時間

AB

  Ein altes Blatt

一枚の古文書

  Schakale und Araber

ジャッカルとアラビア人

  Auf der Gallerie

天井桟敷にて

AB

  Der Kubelreiter

バケツの騎手

  Ein Landarzt

田舎医者

AB

  Der neue Advokat

新しい弁護士

  Ein Brudermord

兄弟殺し

AB

  Elf Sohne

十一人の息子

?

 

 このリストでは,先のリストから,そこで線で抹消されていた「特権意識」「騎乗者」「商人」が削除され,「皇帝の詔書」「短い時間」「一枚の古文書」「十一人の息子」が付け加えられている。「短い時間」は「騎乗者」の題名を変更したものと考えられている。「皇帝の詔書」と「一枚の古文書」はCに書かれているが,「十一人の息子」の手稿は遺されていない。「十一人の息子」は,最初のリストで言及されていなかったので,「AB」に書かれた作品ではありえない。また,あとでも見るように,内容からしても「AB」には書きえなかった作品である。何らかの理由で失われてしまった用紙に書かれたのだろう。

 

() 1917年4月22(ブーバー宛,12作品)

 1917年になって,カフカはブーバーから『ユダヤ人』への作品提供の依頼を受けた。彼は4月22日にブーバーに,最近書き上げたばかりの12作品を送っている(タイトル一覧表はない)。カフカは,「ご返事をさし上げるのが数日遅れてしまったのは,まず原稿を書き写さなければならなかったからです。〔・・・・〕これらすべての作品とさらにほかのものも合わせて,いずれそのうち,全体の表題を『責任』とする本として出版するつもりです」[]と述べている。それらの中から「ジャッカルとアラビア人」と「ある学会への報告」が『ユダヤ人』に掲載された。前者は191710月号,後者は同年11月号である。

 カフカが送付した12作品はおそらく,大部分が1917年3月のリストと同じだったと考えられている。ただし,3月のリストには載っていなかった「ある学会への報告」がブーバーに送られ,採用されている。八折判ノートDの最後に書かれているこの作品は,3月のリストが作られたあとの3月下旬〜4月22日前に成立したものである。

 それでは,「ある学会への報告」との入れ替えで,ブーバーに送らなかった作品は何であったろうか? 批判版全集『生前出版された作品』の編集者たちは,それは「ある夢」であったろうと推測している(DLA 307)。前述したように,ブロートはブーバーに「ある夢」を送付していたが,ブーバーはカフカに非常に丁寧な手紙を書いて,それを『ユダヤ人』に掲載することを断わっていたからである(F 704f.)

 

() 1917年8月20日のリスト(ヴォルフ宛,15作品)

 カフカは短編集を,それまで『観察』,『判決』,『変身』などを出版していたクルト・ヴォルフ社から出版するつもりだった。カフカは1917年7月7日にヴォルフに,「私はこの冬は,とはいっても冬はすでにまた過ぎてしまったわけですが,幾分か楽に過ごしました。この時期の使えそうなものをいくつかお送りします。13篇の散文作品です」と書いている[]。そして7月27日の手紙では,先に送った13篇にさらに「掟の前」と「ある夢」を付け加えてくれるように依頼している[]。彼がヴォルフに8月20日に送った手紙には,「目次」として次の15作品のリストが記されている[]

 

19178(ヴォルフ宛,15作品)

邦訳題名

手稿の所在

  Der neue Advokat

新しい弁護士

  Ein Landarzt

田舎医者

AB

  Der Kubelreiter

バケツの騎手

  Auf der Gallerie

天井桟敷にて

AB

  Ein altes Blatt

一枚の古文書

  Vor dem Gesetz

掟の前

訴訟

  Schakale und Araber

ジャッカルとアラビア人

  Ein Besuch im Bergwerk

鉱山の訪問

  Das nachste Dorf

隣村

AB

  Eine kaiserliche Botschaft

皇帝の詔書

  Die Sorge des Hausvaters

家父の気がかり

  Elf Sohne

十一人の息子

  Ein Brudermord

兄弟殺し

AB

  Ein Traum

ある夢

  Ein Bericht fur eine Akademie

ある学会への報告

D,DE

 

 このリストでは,3月の12作品のリストにおける「短い時間」の題が「隣村」に変更され,「鉱山の訪問」「家父の気がかり」「ある学会への報告」が付け加えられているが,「鉱山の訪問」と「家父の気がかり」の手稿は遺されていない。

カフカはヴォルフに対して,本の題名は『田舎医者』とし,それに「短編集」という副題を付けたい,と希望している。つまり,8月20日の時点では『責任』という題名は放棄されているのであるが,この時期には,喀血をきっかけにして八折判ノートEの執筆が開始され,カフカの新しい創作期が始まりかかっていることに注意しておこう。

 

() 1918年2月/3月のリスト(チューラウ,15作品)

 カフカは,肺結核の静養のために滞在していた北西ボヘミアの農村チューラウで,翌1918年にもう一度,短編集のための作品リストを作っている。クルト・ヴォルフ社の出版作業がなかなか進捗しなかったところに,2月終わりにベルリンの出版者エーリヒ・ライスが,カフカの本を出版したいと申し込んできたのである。カフカは出版社変更の可能性について考慮し,ライスの手紙の裏側に,3種類の作品リストを作成している。そのいずれにおいても,リストアップされている作品は前年8月20日のヴォルフ宛の手紙のリストと同じで,順番が入れ替わっているだけである。ここでは3番目のリストをあげておく(DLA 294ff.)

 

19182/3(チューラウ,15作品)

邦訳題名

手稿の所在

  Advokat

新しい弁護士

  Landarzt

田舎医者

AB

  <Nachste Dorf>

隣村

AB

  Bergwerk

鉱山の訪問

  Galleri

天井桟敷にて

AB

  Mord

兄弟殺し

AB

  Altes Blatt

一枚の古文書

  Gesetz

掟の前

訴訟

  Kubelreiter

バケツの騎手

  Traum

ある夢

  Sorge

家父の気がかり

  kai Bot

皇帝の詔書

  Schakale

ジャッカルとアラビア人

  11 Sohne

十一人の息子

?

  Bericht

ある学会への報告

D,DE

 

()『田舎医者』(1919年,14作品)

 最終的に出版された短編集『田舎医者 Ein Landarzt(実際の出版は1920年にずれ込んだ。NSIA 299)では,1917年8月のヴォルフへのリストから「バケツの騎手」だけが除かれ,そのほかの作品とその順番は同じである。カフカは校正の過程で「バケツの騎手」を削除したのである(NSIA 297f.)

 

3 カフカの「文学的謎めかし」と短編「家父の気がかり」

 

 再確認しておくと,これらのリストで言及された作品で,手稿が遺されていないのは,「ある夢」と,「天井桟敷にて」「騎乗者」(「短い時間」または「隣村」)「商人」「田舎医者」「兄弟殺し」と,「十一人の息子」「家父の気がかり」「鉱山の訪問」である。このうち,「ある夢」は錬金術師小路以前に書かれた作品である。「天井桟敷にて」から「兄弟殺し」までの作品は,失われた八折判ノート「AB」に書かれていたと見られる。以下では,「十一人の息子」「家父の気がかり」「鉱山の訪問」の3作について,なぜ手稿が存在していないのかを考えてみたい。

 これら3作は不思議なことに内容的にも類似性がある。「十一人の息子」と「家父の気がかり」は,父と子の関係,というよりも正確には父の視点から子供を描いている。また,「十一人の息子」と「鉱山の訪問」は,一人ひとりを数え上げながら,11人ないしは10人の人物特性を描写している。パスリはこれら3作をカフカの「文学的謎めかし literarische Mystifikationen」と解釈している。カフカは時々,執筆を出産に,自分の作品を自分から生まれた子供になぞらえていたが,「十一人の息子」と「家父の気がかり」は,自分の作品に対する批評である,とパスリは考える。12作品をリストアップした1917年3月のリスト(2)の最後にある「十一人の息子」は,その前の11作品に対するカフカ自身の評であり,「家父の気がかり」は,たびたび執筆を試みながら未完に終わった断片「猟師グラフス」へのカフカの想いである。これに対して,「鉱山の訪問」は,カフカがクルト・ヴォルフ社から受け取った年鑑『新しい小説』に作品が掲載されていた10人の作家に対するカフカの評である,とパスリは論じている[]。パスリのこのような解釈は賛否両論の嵐を引き起こし[],彼はその後,「家父の気がかり」のオドラデクは,「猟師グラフス」という作品自体というよりも,「カフカ自身の実存問題の高められた形象」を指すとして,解釈にやや修正を加えている[10]。もちろん,細かい点では彼の解釈には修正すべき点もあるだろうが,カフカがブロートに向かって,「11人の息子というのはまったく単純に,僕がいま書いている11の物語のことだ」[11]と明白に語っている以上,パスリの説はその根幹において否定できないだろう。つまり,これらの作品は,文学作品(文学者)に関する文学作品なのである。

 パスリが批判版全集編集の中心者の一人であるので,批判版全集はパスリのテーゼを前提にして3つの作品の成立時期を推定している。『生前に出版された作品』の編集者たち(キットラー,コッホ,ノイマン)は,「十一人の息子」の執筆時期を1917年3月20日〜24(DLA 351),「鉱山の訪問」を4月末か5月初めと推定している(DLA 342f.)。この推定には異存はない。ただし,「家父の気がかり」の成立時期を4月初めとする推定 (DLA 349)には疑義がある[12]

先にも触れたように,批判版全集は,パスリの解釈に従い,「家父の気がかり」を「猟師グラフス」に関する作品と解釈している。「猟師グラフス」断片と,それに類似し内容的に関連のある断片は,八折判ノートのいくつかの場所に書かれており,カフカがこの作品の完成に苦労した様子がうかがわれるのであるが,この作品は最終的には未完に終わった。八折判ノートにおける「猟師グラフス」に関する最後の断片(NSI 378-384)は,八折判ノートDの前半部にあり,「ある学会への報告」の最初の草稿(NSI 384-385)の直前に位置している。「私たちはみなロートペーターを知っている」で始まるこの断片は,「ある学会への報告」の最初の助走であるが,これは1917年4月1日の『プラーガー・タークブラット』紙上に掲載された,芸をするチンパンジーの記事を利用している(DLA 363)。したがって,この「学会報告」断片は4月1日以降の4月初めに書かれたと推測される。Dの「猟師グラフス」断片はその直前に書かれている。

さらにカフカは日記帳の191746日にも別の「猟師グラフス」断片を書いている(T 810f.)。このような状況証拠から推測すると,Dの「猟師グラフス」断片は4月初めに書かれたと推定できる。

ここから『生前に出版された作品』の編集者たちは,「家父の気がかり」も同じ時期,つまり4月初めに書かれたと推測するのであるが,その推定は正しいであろうか? もし「家父の気がかり」がすでに4月初めに成立していたとするならば,この作品に対するカフカの高い評価(19178月にはこの作品をリストに含め,『田舎医者』にも採用されている)からして,彼がブーバーにこの作品を送らなかったはずはない。つまり,4月22日にはブーバーに13作品を送ったはずである,と考えられる。ところが,カフカがそうしていないので,「家父の気がかり」の成立が422日以降である可能性は排除できない。

 そもそも「家父の気がかり」はなぜ八折判ノートに書かれていないのであろうか? 次にこの問題を,やはり八折判ノートに原稿が存在していない他の2作との関連で考えてみよう。

 「十一人の息子」は,八折判ノートCのほぼ最後のページに書かれたリスト(2)で初めて言及されている。カフカは3月終わりに,それまで書いたA〜Cの4冊のノートを再読して,その中から出版に値する作品を11点選んだ。そして,そのまとめ,いわば全体の講評として「十一人の息子」を書いたと考えられる。つまり,彼はこの時点で文学的創作を一段落させ,この11+1作品で短編集をまとめるつもりであった,と想像できる。そのため,彼は新しい八折判ノートを使用しないで,別の原稿用紙に「十一人の息子」を書いたに違いない。すなわち,この作品を書いたときには,手元には書きかけの八折判ノートがなかった。ところが,彼の意に反して(),その後も文学的インスピレーションは終わらなかったので,彼はDも使用することにしたのであろう。

「鉱山の訪問」執筆のきっかけになったのは,当代10名の著名作家の最新作を集めたクルト・ヴォルフ社の年鑑『新しい小説』であるというパスリと批判版全集の説を,ここでは受けいれておくことにしたい。この本がカフカのもとに届いたのは,4月末/5月初めであると見られている。この時期には,八折判ノートDはすでに全ページが記入されている。このノートの最後の記入は『田舎医者』版の「ある学会への報告」のもとになった草稿であるが,ノートのページが尽きたので,途中で中断している(NSI 399)。カフカは続きの部分を別の八折判ノート「DE」に書いたものと思われるが,そのノートは存在していない(DLA 362)

 カフカは4月22日にブーバーに「ある学会への報告」は送付したが,「鉱山の訪問」は送っていない。「鉱山の訪問」は,ブーバーへの12作品の送付のあとに成立したのである。ということは,「鉱山の訪問」は,失われた八折判ノート「DE」に,「ある学会への報告」のあとに書かれていた可能性が高い。

 さて,もし批判版全集が推定するように,「家父の気がかり」の成立時期を4月初めとすると,この時期にはDが使用中である。批判版全集のような推定では,なぜDに「家父の気がかり」の手稿が存在しないのか,説明できない。

 以上をまとめると,「家父の気がかり」の成立を4月初めとする批判版全集の推定は,

・なぜこの作品を4月22日にブーバーに送らなかったのか。

・なぜ八折判ノートDに草稿がないのか。

という二点を説明できないのである。

 「家父の気がかり」の手稿が遺されていない理由は,

1) この作品は,「十一人の息子」と同じ時期,つまり書きかけの八折判ノートがなかった3月終わりに,八折判ノート以外の用紙に書かれた。

2) この作品は,「ある学会への報告」の執筆のあとに,失われた八折判ノート「DE」に書かれた。

のどちらかだと思われる。

 この作品が3月下旬のリストにないこと,ブーバーにこの作品を送っていないことから判断すると,1)の可能性は排除される。残る可能性は2)のみである。筆者は,「家父の気がかり」は4月22日以降に八折判ノート「DE」に書かれたと推定する。カフカはおそらく,『新しい小説』を読んで,他の作家たちに関する「鉱山の訪問」という作品を書いたので,それに刺激を受けて,もう一度,自分の作品についても類似の作品を書こうとしたのではないかと思われるのである。

 

4 「特権意識」という忘れられた小品

 

 次に以下では,1917年2月の最初の作品リストに取り上げられながら,その後のリストから除かれた「特権意識 Kastengeist」という作品を分析してみたい。これは文字通り忘れられた作品であると言えよう。八折判ノートBの位置から,この作品の執筆時期は1917年2月と推定できる。まず,この小品の全文を紹介しておこう。

 

 われわれの家は,場末の途方もない建物で,破壊できない中世の遺物がいくつも混じり合った安アパートであるが,この建物で今朝,氷のように冷たい冬の霧が立ちこめる中,次のような檄文(Aufruf)が配布された。

  すべての同居人諸君へ。

 私はおもちゃの鉄砲を五丁所有している。それらは私の箱(Kasten)に,一丁ずつ鉤に吊るしてある。最初の一丁は私のものだが,他の鉄砲は希望者が申し出ることができる。四人以上の申告があったときは,残りの人たちは自分の銃を持参して,私の箱に預けてほしい。なぜなら,一致団結(Einheitlichkeit)が是非とも必要だからであり,一致団結なしにはわれわれは前進できないからだ。ついでながら,私の持っている鉄砲は通常の使用にはまったく役に立たないものばかりである。装置はいかれているし,銃栓は取れているが,ただ撃鉄だけはまだカチカチいう。であるから,必要とあらば,このような鉄砲をさらに調達することは難しいことではないだろう。しかし基本的には,当面は銃を持たない人でもかまわない。鉄砲を持っているわれわれは,非常時には,武装していない人たちを中に囲い入れて守るであろう。これは,インディアンに対して,初期のアメリカ農民が効を奏した戦闘方法である。ここでもその方法がうまく行かないはずがあろうか。なぜなら,状況は似たようなものだからだ。そういうわけで,結局は鉄砲なしですますことさえできるし,五丁の鉄砲でさえ必ずしも必要ないかもしれない。ただ,こうしてもう手元にあるからには,使わない手はないということだ。しかし,残りの四丁も,携行する気がなければ,使わなくてもかまわない。そのときには,私だけが指導者(Fuhrer)として一丁持つことにしよう。しかし,われわれは元来,指導者を持つべきではないのだから,私も私の鉄砲を壊すか,放棄することにしよう。

 これが最初の檄文であった。われわれの建物では,誰も檄文を読んだり,ましてそれについて考慮したりする時間や意欲などなかった。その小さなビラはまもなくして,屋根裏部屋から流れてくる汚水の流れに漂っていた。その汚水は,そこから発して,すべての廊下で水量を増し,階段を流れ落ち,そこで下から上がって来る反対の流れと戦っているのである。しかし,一週間後に第二の檄文が現われた。

  同居人諸君!

 これまでのところ,私のところに申し出た者は皆無である。私は稼ぐために外出しなければならないとき以外は,ずっと在宅していたし,不在時には部屋のドアを開け放しにし,机の上に紙を置き,その気のある人は誰でも名前を記入できるようにしておいた。それなのに,そうした人は一人もいないのだ。(NSI 329f.)

 

 一読して,「家父の気がかり」ほどの謎めいた印象はないが,何を言わんとしているのか,よくわからない作品である。しかし,原稿には書かれていなかった「特権意識 Kastengeist」というタイトルがこの作品に結びつくと,そのテーマが,檄文の書き手のいだいている特権意識であることが明瞭になる。

 パスリが無題の短編を,1917年2月の作品リスト(1)の「Kastengeist」と同定したのは,彼自身は理由をあげていないが,本文中に出てくる「Kasten」と「Fuhrer」という語のためであろう。これはよい着眼である。

 「Kastengeist」という語は,フランス語の「esprit de caste」の借訳語(Lehnubersetzung)である。フランス語の「esprit 精神」はドイツ語の「Geist」に,「caste カースト」は「Kaste」に翻訳される。ただし,「Kaste」を「Geist」と結んで合成語を作るときに《n》が挿入され,そこには「Kasten 箱」という,「カースト」とは意味的には無関係な語も生じてくる。つまりカフカは,鉄砲を吊るす「Kasten 箱」に言及することによって,「Kaste カースト」と「Kasten 箱」の言葉遊びをしているのである。「指導者 Fuhrer」という語も,檄文の執筆者の特権意識をほのめかしている。

 この短編でもう一つの注目すべき語は,「Einheitlichkeit」である。八折判ノートCに書かれている「万里の長城」の中に,やや語形は違うが,「Einheit」という語が登場している。

 

 この国に住む人はみな兄弟なのだ。その兄弟のために防壁を築くのだ。兄弟同胞は全身全霊をもって一生の間その偉業に感謝する。一致団結(Einheit)! 一致団結! 胸と胸をあわせ,民族の輪舞を踊るのだ。血はもはやちっぽけな肉体の血管に閉じ込められることはなく,無限なる中国の国土に甘美にたぎり立ち,しかも循環してくるのだ。(NSI 342)

 

 「Einheitlichkeit」と「Einheit」と,語形は少し違っていても,両方の作品において人々の「一致団結」の重要性が強調されている点は同じである。

 すでにいくつかの拙論で指摘したように[13],「万里の長城」はユーデントゥームの歴史と現状を,古代中国を舞台にして描いているアレゴリー的作品である。この作を代表として,八折判ノートA〜Dに書かれたいくつかの作品は,カフカのブーバー的シオニズムとの対決の作品として解読できる。1917年4月22日のブーバー宛の手紙で,カフカが短編集を『責任 Verantwortung』という題の本として出版したいと述べたのは,雑誌『ユダヤ人』の創刊号(1916年4月)に掲載された,ブーバーの「標語 Losung」という呼びかけ(Aufruf)に対するカフカの応答と見ることができる。ブーバーはそこで,

 

 そもそもこの世における生活を真剣に営もうとする者は,共同体との関係を真剣に確立しなければならない――責任(verantwortlich)を感じることによって。この大戦のユダヤ的体験によって震撼させられ,ユダヤ人の共同体の運命に対して責任を感じるユダヤ人の中には,ユダヤ民族の新たな一体性(Einheit)が生まれてくるのである。[14]

 

と,ユダヤ人がシオニズムに参加するように呼びかけている。ブーバーがここで「Einheit」と「verantwortlich」いう語を使っていることに注意しよう。

 カフカは,シオニストになっていたブロートの度重なる勧誘にもかかわらず,当初,シオニズムには距離を置いていた。1912年のフェリス・バウアーとの出会い以来,彼の意識はもっぱら女性との共同生活をめぐる内面の葛藤にとらわれていた。彼はまた,作家でありながら,社会との結びつきを失い,孤立しているように感じていた。カフカのそのような心象風景は,八折判ノートBに書かれている「橋」という小品に典型的に現われている[15]

 1916年4月のブーバーの呼びかけは,それまでユダヤ民族に対する「責任」を果たしてこなかったカフカにとっては,心に刺さる言葉であったに違いない。その後,カフカは徐々にシオニズムに接近しはじめる。その当時の中欧のシオニズムは,1904年のテーオドール・ヘルツルの死後,ブーバーの影響のもとにあった。とくにプラハのシオニズム協会「バル・コホバ」はブーバーとの結びつきが強く,1909年と10年にプラハで彼の講演会を催していた。カフカもブーバーの講演を聞いたことがあるが,そのとき彼はあまりよい印象を受けなかった。彼は1913年のフェリス宛の手紙で,「〔……〕私は彼〔=ブーバー〕の話をもう聞いたことがありますが,味気ない印象でした。彼の言うことすべてには,何かが欠けています」(F 252)と書いている。

カフカは1916年8月〜9月に,フェリスに対し,ベルリンにある「ユダヤ民族ホーム」でヘルパーとして働くように励ましている(F 684, 693ff.)。第一次世界大戦中,東欧から逃れてきたユダヤ人難民の子供たちを教育するために作られたこのホームは,ブーバー的シオニズムの理念で運営されていた[16]。カフカは,この時期のフェリスへの手紙の中で,シオニズムの問題にたびたび触れている。1916年終わりから始まった錬金術師小路での創作期は,カフカがブーバーのシオニズムに接近した時期と重なっている。彼は,雑誌『ユダヤ人』に自分の作品を提供することによって,ブーバーに協力した。2作品の掲載が決まったとき彼は,「これでどうやら私も『ユダヤ人』に参加したわけですが,そんなことは不可能だといつも考えておりました」[17]とブーバーに書いている。この言葉には,彼がそれまでいだいていたブーバーへの距離感と,それにもかかわらず今回シオニズムに参加したことが,同時に表明されている。

 しかし,カフカはブーバーに対する批判を完全に捨てきることはできなかった。「万里の長城」の「Einheit」という語は,ブーバーの「標語」の「Einheit」を意識しているが,作品中でこの語を用いることによって,カフカはブーバーに対する皮肉のこもった批判を行なっている[18]。「万里の長城」よりも少し前に書かれ,「Einheitlichkeit」という語が登場する「特権意識」という短編も,同傾向の作品として読解することができるのである。

 この作品の冒頭では,「われわれの家は,場末の途方もない建物で,破壊できない中世の遺物がいくつも混じり合った安アパートである」と言われている。明らかにゲットーを連想させるこのイメージは,ユダヤ民族が古い歴史を引きずり,過去に支配されていることをほのめかしている。「万里の長城」ではこのことは,「とっくに死んだ皇帝たちがわれわれの村では帝位につけられ,歌の中にしか生きていない皇帝が少し前に詔勅を発し,それを神官が祭壇の前で読誦」し,「もう粉々に砕けた骨壷の中からたまたま選び出された者が,威風堂々と村の支配者の地位につく」(NSI 353f.)という時代錯誤性として描き出されている。

 両作品のさらなる共通点は,防衛というモチーフである。「特権意識」では,明らかにされていない何らかの理由により,この家の住人は「一致団結」して防御しなければならない状況にある,と檄文の執筆者は考えている。それは,初期のアメリカ農民のインディアンに対する戦いに似ているという。ただし,その他の住民は事態をそれほど深刻には受け取っていない。「万里の長城」では,長城は「北方民族に対する防御(Schutz)(NSI 338)のために建設される。また,八折判ノートCで7行の断片をはさんで「万里の長城」のあとに書かれており,内容的にも「万里の長城」と関連している「一枚の古文書」という作品は,「われわれの祖国の防衛(Verteidigung)に関しては,多くの手抜かりがあったように思われる」(NSI 357f.)という文章で始まっている。「万里の長城」でも,中国の南部に住んでいる語り手はそれほど防御の必要性を感じていない。

 いずれの作品においても,この防衛は間接的に円のイメージを喚起する。「武装していない人たちを中に囲い入れ」る陣形は,おそらく円形になるだろう。「万里の長城」では,長城は「円にさえならず,せいぜい一種の四分円か半円にしかならない」(NSI 343f.)と述べられている。

 次に,この防衛の手段が無効である点も,両作品において共通している。「特権意識」の「五丁のこわれたおもちゃの鉄砲」は,まともな武器とは言えないし,「万里の長城」の「隙間」(NSI 338)だらけの壁では,北方民族の侵入を防ぐことはできない。両作品においては,どうやら防御それ自体よりも,「一致団結」の意識の高揚のほうが重要なようである。

 「特権意識」の「指導者 Fuhrer」という語は,「万里の長城」では少し形を変えて「指導部 Fuhrerschaft(NSI 345)として登場する。もっとも,この指導部は,どこに存在するのかわからない謎めいた存在なのではあるが。

 檄文の執筆者の,自分は指導者であるというまさに特権意識は,「万里の長城」における「学者」を想起させる。長城に関するベストセラー本を書いたその学者は,いわば長城建設のイデオローグであるのだが,彼によれば,

 

 まず偉大な長城が完成されてこそ,それは人類の歴史においてはじめて新しいバベルの塔のためのしっかりとした基礎をすえることになるだろう,ということであった。つまり,最初に長城,次に塔,というわけである。その本はその当時広く読まれた。しかし,私は正直に告白するが,彼がこの塔建設をどのように考えていたのか,今もってよくわからないのである。(NSI 343)

 

 両作品において,「檄文」や「本」の執筆者に対する語り手の皮肉で批判的な態度が共通している。

 カフカは,「檄文」や「本」の執筆者として,テーオドール・ヘルツルの死後,中欧のシオニズムの文字通り「指導者」となったブーバーを念頭に置き,両作品においてブーバーと彼のシオニズムを戯画化しつつ批判していると見ることができる。小品「特権意識」はまさに「万里の長城」の前駆的作品なのである。

 カフカは,ブーバーの呼びかけに応じて,ひとたびはシオニズムに参加したが,当初から彼の批判は抑えがたかった。彼が1917年8月に短編集の題を『責任』から『田舎医者』に変更したのは,シオニズムからの再離脱の意志を示しているように思われる。このような変化には,肺結核の発病と,それによるフェリスとの婚約の解消の見通しという人生上の転機が作用したに違いない。彼はこの「敗北」に直面して,自分の生の根拠――それを彼は「究極の事物」と呼んでいる――をあらためて解明しなければならない,と感じたのである[19]。彼がシオニズムに全面的にはコミットできないのは,ブーバーが「究極の事物」=「核心の問題」をいまだ解明していない,と考えるからである[20]。彼はチューラウの八折判ノートGとHでその「究極の事物」に独自に取り組むことになるのである[21]

 

 

以下の著作については略号を使用し,そのあとの数字で頁を示す。

Franz Kafka, Kritische Ausgabe, S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main.

DL = Drucke zu Lebzeiten. Hrsg. von Wolf Kittler, Hans-Gerd Koch und Gerhard Neumann, 1994.

DLA= Drucke zu Lebzeiten. Apparatband. Hrsg. von Wolf Kittler, Hans-Gerd Koch und Gerhard Neumann, 1996.

NSI = Nachgelassene Schriften und Fragmente I. Hrsg. von Malcolm Pasley, 1993.

NSIA = Nachgelassene Schriften und Fragmente I. Apparatband. Hrsg. von Malcolm Pasley, 1993.

T = Tagebucher. Hrsg. von Koch/ Muller/Pasley, 1990.

 またブロート版全集についても以下の略号を使う。

F = Briefe an Felice und andere Korrespondenz aus der Verlobungszeit. Hrsg. von Erich Heller und Jurgen Born, Frankfurt/M. 1967 (6. bis 7. Tausend)

H = Hochzeitsvorbereitungen auf dem Lande und andere Prosa aus dem Nachlas. Hrsg. von Max Brod, Frankfurt/M. 1966 (7. bis 9. Tausend)

 



[] Born/Dietz/Pasley/Raabe/Wagenbach, Kafka- Symposion, Berlin 21966, S. 76ff. 批判版全集もA〜Hの記号を使っている。

[] Martin Buber, Briefwechsel aus sieben Jahrzehnten, Band I, Heidelberg 1972, S.429.

[] ブロートのこの手紙はブーバーのBriefwechsel には含まれておらず,Paul RaabeFranz Kafka und der Expressionismusという論文に引用されている(DLA 357ff.)。ブロートのエッセイは『ユダヤ人』の191610月号に掲載された(Max Brod, Unsere Literaten und die Gemeinschaft, in: Der Jude, Heft 7 [Oktober 1916], S. 459)

[] Buber, Briefwechsel, S. 491f.

[] Kurt Wolff, Briefwechsel eines Verlegers 1911-1963, Frankfurt/M. 1980. Erganzte Ausgabe, S. 42.

[] Ibid., S. 43.

[] Ibid., S. 44.

[] Malcolm Pasley, Drei literarische Mystifikationen Kafkas, in: Kafka- Symposion, S. 21ff. Vgl. DLA 342.

[] やや古くなるがパスリの解釈に対する賛否両論はPeter U. Beicken, Franz Kafka. Eine kritische Einfuhrung in die Forschung, Frankfurt/M. 1974, S. 145ff. にまとめられている。

[10] Ibid., S. 147.

[11] Max Brod, Uber Franz Kafka, Frankfurt/M. 1966, S. 122.

[12] パスリは先の論文で,この作品の成立時期を1917年5月/6月と推定していた。Pasley, Drei literarische Mystifikationen Kafkas, S. 27f.

[13]「カフカの『万里の長城』における民族,国家,宗教」(『思想』〔岩波書店〕第796号,199010),「ユダヤの非合理的な伝承――カフカの『万里の長城』における「指導部」の問題」(『思想』〔岩波書店〕第816号,19926),「民族統合の空虚なる記号――カフカの『万里の長城』における「皇帝」の形象」(『思想』〔岩波書店〕第854号,19958)

[14] Martin Buber, Die Losung, in: Der Jude, Heft 1 (April 1916), S. 2.

[15]「橋」についてはHideo Nakazawa, Ubersetzungsprobleme der deutschen Literatur in Japan am Beispiel von Kafka(教養学科紀要第22198987104)を参照されたい。

[16] Gershom Scholem, Von Berlin nach Jerusalem, Frankfurt/M. 1977, S.102ff.

[17] Buber, Briefwechsel, S. 494. カフカがこう書いたのは1917年5月12日である。

[18] 拙稿「カフカの『万里の長城』における民族,国家,宗教」,120頁。

[19] Brod, Uber Franz Kafka, S. 147.

[20] 拙稿「カフカの『万里の長城』における民族,国家,宗教」,115頁。

[21] GとHついては,拙著『カフカとキルケゴール』(オンブック,2005)でかなり詳しく触れている。

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