カフカにおける「ユダヤ人」問題

                                中澤英雄

 

    イディッシュ語劇団との出会い

 カフカが一九一一年秋から一二年初めにかけて、レンベルク(現ソ連領リボフ)から来たイディッシュ語劇団に足繁く通い、俳優イツハク・レヴィと親しい交友を結び、それが彼の文学に重要な影響を与えたことは、様々の研究によってすでによく知られている。この劇団に対する彼の熱意は、公演の成功のためにシオニストの学生組織「バル・コホバ」に呼びかけたり、シオニズムの機関紙『自衛』にこの劇団に関する記事を書かせたりしていることにも現われている。だが西欧文化への同化を目指していたプラハのユダヤ系市民にとっては、東ユダヤ人は自分たちの忘れたい出自を想起させる迷惑な存在にすぎなかった。バル・コホバに属する民族意識に目覚めたユダヤ知識人たちでさえも、イディッシュ語の東ユダヤ人に軽蔑の念をいだいている点では、同化主義のユダヤ人とたいして違わなかった。

 一九一〇年、カフカをこの劇団に案内したマックス・ブロートは、東ユダヤ人の世界に出会って「驚愕し、反発し、同時に魔術的に魅惑される」というアンビヴァレントな感情をいだいた(1)。当時のブロートはまだ確固たるシオニストにはなっていなかったが、一九〇九年からバル・コホバとの交流を開始しており、ユダヤ民族意識に目覚めつつあった。そのブロートでさえこのような反応を示したということは、東ユダヤ人の世界が西ユダヤ人にとっていかに異質なものであったかを示している。カフカのユダヤ劇団のための尽力は、プラハのユダヤ人の無理解に出会って、報われぬままに終わってしまった。シオニストが東ユダヤ人の民族性を積極的に評価するようになるのは、後述するように、ようやく第一次世界大戦が勃発した後のことである。

 それでは、シオニストでさえなかったカフカが、他のどのユダヤ人よりも強く東ユダヤ人の世界に魅了されたのはなぜであろうか。それを彼の民族意識の目覚めと解釈することは、間違いとは言えないにしても、やや単純にすぎるであろう。というのは、一九一二年初めになると、彼の感激は憑きものが落ちたようにさめてしまうからである。その後彼はシオニスト会議に参加するが、シオニズムとの内的結びつきを感ずることができない。ブロートが彼をシオニズムに強引に勧誘したときには、彼はそれに反発し、両者の友情はあやうく決裂の危機を迎えたほどであった。

 一九一一年の初め、イディッシュ語劇団への熱狂にとりつかれる以前、カフカは役所の仕事と文学執筆の試みとの二重生活に引き裂かれて、一種の欝状態に陥っている。同年三月、新聞に発表したある評論の一節で彼は、「その本性の求めるところによって共同体から離れている作家は・・・・どのような擁護も必要としない。・・・・彼らはただ己自身を食物とすることができるだけである」と書いている(2)。「共同体から離れ」、「ただ己自身を食物とする」という作家の姿は、カフカ自身の自画像とも言える。このような孤独の影は生まれながらに彼につきまとっており、ギムナジウム時代の友人E・ウティッツは、カフカの周囲には「ガラスの壁」が取りまいているように感じた、と回想している(3)。この孤立への傾斜は個と共同の問題となって、彼に一生つきまとうことになる。

イディッシュ語劇団は、カフカの「ガラスの壁」を打ち破り、彼の中に抑圧されていたエロス的なエネルギーを解放し、彼を「共同体(ゲマインシャフト)」へと駆り立てた最初の衝撃であったと見ることができる。彼がこの劇団に魅せられたのは、イディッシュ語演劇の言葉と身振りと音楽の奔流に、自分の中にあると信じながら、いまだ現実化できていない自分の文学の新しい可能性を予感したためか、あるいは信仰篤い父の命に背き、芸術家としての自己の道を断固として選び取ったレヴィの中に、あるべき自己の姿を見出したためか、それとも彼の中に民族の血がよみがえったためか――その原因を一つに特定することは不可能であるし、また正しくもないであろう。だがそこには、孤独の殻を破り、他者との人間的交流を獲得し、「共同体」に参入したいというエロス的な願望が大きく働いていたことは確かであろう。劇団公演の訪問が、女優チシク夫人への恋情と絡まりあっているのは偶然ではない。

 このユダヤ劇団がカフカのエロス的衝動が向かう対象となったのは、劇団の体現する東ユダヤ人の生活が、大都会(ゲゼルシャフト)の中で彼が送っていた生活とは対極的な姿を見せてくれたからであろう。プラハの役人生活はその無味乾燥性と、そして自分の天命であると信ずる文学を阻害する点において、彼の孤独感を強めるばかりであった。このフラストレーションが彼をして、当時のプラハにおいてはただ一人、東ユダヤ人劇団の中に生き生きとした民族共同体の姿を発見させた力であったと言えよう。東ユダヤ人の世界は、自分の生きている否定現実のアンチテーゼとして彼に出現したのである。やがて彼は、彼個人にまつわる生の負の側面を、西ユダヤ人一般の病として普遍化することになる。

 

    フェリスとの関係

 このように、カフカのイディッシュ語劇団に対する熱狂には、個と共同の関係をめぐる実存的な欲求が作用していたのだが、他者との人間的交流に対する願望は、何も民族という回路に向かう必然性はない。むしろ、そのようなエロス的な衝動が最も一般的な形で出現するのは、言うまでもなく男女の結びつきという場面においてである。だから、イディッシュ語劇団との関係が疎遠になってからまもなく、一九一二年後半にフェリス・バウアーという西ユダヤ人女性との恋愛が始まるのは、ごく自然ななりゆきであった。彼女との文通が開始されると、ユダヤ問題はしばらく彼の意識の背景に退くことになる。だがこの関係は、ユダヤ劇団との出会いのときには表面に出なかった、個と共同をめぐる彼の内面の病を顕在化させることになった。二度の婚約と二度の婚約破棄に終わる、五年に及ぶ両者の悪戦苦闘の顛末はすでにあまりにも有名であるが、結婚を目指しての戦いの中で、彼は女性との結びつきが不可能な自分の「精神的結婚不能性」を思い知ることになる。

 フェリスは元来現実主義的で、ブルジョア的な価値観を持った女性で、おまけにカフカの文学に対してはほとんど理解がなかった。だが「夢のような内面生活」の描写を自己の使命と信じる内向的な文学者カフカは、自分とはまさに反対の彼女の健康的な性格にひかれたのであろう。後に『父への手紙』でも認めているように、それは「理性結婚」の試みであった。フェリスは彼にとっては「理性」的にはどうしても必要と思われるのだが、同時に、自分とはあまりに異質であるがゆえに、共同生活を送ることが極めて困難なパートナーにもなるのである。

 このような性格的な相違を越えて、両者の間に何らかの共通性が生まれなければ結婚は不可能である。彼は結婚の前提となるべき人格的一致点について、一九一三年六月の手紙で彼の見解を披瀝している。フェリスは男女の一致点を「教養、知識、高尚な努力や見解」という常識的、表層的なレベルで考えているのだが、彼にとってはそのようなものはどうでもよいことである。彼の考えによれば、「結婚生活が要求するものは、人間的な一致、つまりあらゆる意見のずっと下にある奥深い一致、検証されるのではなく、ただ感得されるだけの一致、すなわち人間の共同生活の必然性です。これによってはしかし、個人の自由は少しも妨げられません。自由が妨げられるのは、ただ必然的ならざる人間の共同生活のためです」。人間が他者と共に生きながら、しかもその交わり中で「個人の自由は少しも妨げられ」ないという、個の自由と他者との共同が両立する「必然的な共同生活」――これが彼の結婚生活、そして人間の共同生活一般の理想とされるのである。

 

    ユダヤ民族ホーム

 さて、プラハのユダヤ人がイディッシュ語劇団に対して冷淡な反応を示したことは先に述べたが、このような状況は一九一四年に第一次世界大戦が始まると変化してきた。東ユダヤ人が多く住むガリチア地方は戦場となり、彼らはロシア軍を逃れてベルリン、ウィーン、プラハなどの西側の大都市に難民となって流入した。大量の東ユダヤ人との直接的コンタクトは、シオニストが遠いパレスチナに建設しようとしていた民族共同体の姿が、すでに東ユダヤ人の中に実現されていたことを彼らに教えたのであった。

 ブロートはプラハでユダヤ人難民の子供たちに世界文学を教えたときに、東ユダヤ人の真の民族性に目覚める。彼はマルティン・ブーバーの主催するシオニズムの雑誌『ユダヤ人』(一九一六年四月)に、「私が目の前にしているのは、一つの民族一つの共同体であって、ばらばらにされた個々人なのではない。それは最も高度の意味において精神的であり、それにもかかわらず民衆的で、・・・・活力が消耗されてしまっていない民族なのである」と書いている。ここには《「ばらばらにされた個々人」=西ユダヤ人》対《真の「民族」と「共同体」=東ユダヤ人》という見方が感激をもって図式化されている。

 このような時代の変化の中で、カフカのフェリスとの関係、同時にユダヤ民族に対する態度も、一九一六年に一つの転機を迎える。この年の秋に彼は、ベルリン在住のフェリスをその地の「ユダヤ民族ホーム」でボランティアとして働くように励ましている。これによって、ユダヤ劇団との出会いで喚起された民族性を通じての共同体への参入と、フェリスという異性関係を通じての共同性の獲得という、二つの異なった方向においてなされた試みが一つに結合されることになる。

 ユダヤ民族ホームは、シオニストのS・レーマンによって作られた東ユダヤ人の難民子弟を教育する施設の一つであった。この時期のカフカは決して積極的なシオニストではなかった。彼がフェリスをユダヤ民族ホームに接触させた目的は、彼女に東ユダヤ人の世界を知らせることによって、同化した西ユダヤ人のブルジョア的な価値観から彼女を解放し、結婚という彼が望む「必然的な共同生活」のための前提となるべき「人間的な一致」を作り出すことであったろう。一九一六年九月十二日の手紙で彼は彼女に、「まさにこの仕事[ホームでのヘルパーの仕事]によって生じる結びつき以上に緊密な、私たちの間の精神的な結びつきを私は知りません。・・・・それは、私の見るかぎり、精神的な解放に至りうる絶対に唯一の道、もしくは道の始めです」と書いている。彼は、五年前に出会った東ユダヤ人の世界にフェリスを接触させることによって、彼女を東ユダヤ人の民族性へと教育しようとするのである。それは二人がともに東ユダヤ人の体現する民族的な基盤に復帰することによって、両者の間にある越えがたい人格的な溝を埋める「精神的な結びつき」を作り出す試みであったと言えよう。

 

    西ユダヤ人の病理

 ここで注意しておかなければならないのは、カフカは「精神的な結びつき」の欠如を、彼の家庭環境や教育などから生まれた個別的な問題とは見ていないことである。もちろんそれらが欠陥多いものであり、彼の精神形成を大いに損なったことを、彼は日記や手紙の中で度々訴えている。しかし、そのような個人的な環境すらも、民族共同体を持たず、ヨーロッパ文化圏に同化しつつある西ユダヤ人一般の問題としてとらえるのである。

 彼は右に引用したフェリス宛の同じ手紙の中で、西ユダヤ人のヘルパーだけしかいないベルリンのホームと、西ユダヤ人と東ユダヤ人の両方がいるホームを比較して、そのどちらを選択するかと言われれば、「後者のホームに無条件の優位を与える」と述べる。そしてさらに、「東ユダヤ人の価値に匹敵するようなものは、ホームでは[東ユダヤ人の子供たちに]伝達できない」と書いている。カフカは、自分もフェリスも含めて、西ユダヤ人はすべて、東ユダヤ人が持っているある重要な事柄を失っており、そのために「精神的な解放」に到達できない、と考えるのである。

 後に一九一七年十二月にフェリスとの婚約を最終的に解消したとき、彼はブロートに、「僕がしなければならないことは・・・・究極の事物について明確に把握することだ。西ユダヤ人はそれについて明瞭ではなくだから結婚する権利がないのだ」と語っている(4)。この言葉は、彼が自分の結婚の失敗を西ユダヤ人全般に共通する普遍的な問題の個別例として見ていることを示している。彼によれば、西ユダヤ人は「究極の事物」と彼が呼ぶある重要な事柄を「明確に把握」していないがゆえに、結婚できない、いやむしろ、本来「結婚する権利がない」のである。

 カフカがこう考えるのは、西ユダヤ人には個人と個人の結びつきの基盤となるべき共同体感情が欠けているからである。自然な民族共同体である東ユダヤ人と対比すると、西ユダヤ人はある種の根本的な欠陥を持っていることが明らかになる。いや、東ユダヤ人とだけではなく、民族共同体を持っている他のすべての民族と比較するとき、西ユダヤ人の病理ははっきりとする。そこで、東ユダヤ人と同様、歴史的、自然的に形成された民族共同体を持つチェコ人も、カフカにとっては西ユダヤ人とは対蹠的な民族であることになる。彼は一九一三年七月の日記に、「一般的な交わりの中で同じ近しさの感情を常に持ち、享受しているキリスト教徒の非常な有利さ。たとえばキリスト教徒のチェコ人の間におけるキリスト教徒チェコ人」と記している。

 東ユダヤ人やチェコ人は、真の民族共同体として、「一般的な交わり」の中で互いに「同じ近しさの感情」を自然に持てる。しかし、民族的ルーツから切り離されて、異民族国家の中でヨーロッパ文化への同化を強いられている西ユダヤ人は、「ばらばらにされた個々人」(ブロート)として互いに孤立し、この近しさの感情を共有しえない。このような西ユダヤ人特有の「感得される一致」の欠如のために、彼は結婚できない。カフカは自分の「精神的結婚不能性」を彼自身の特殊個人的な問題とするのではなく、それを文化的、民族的な問題へと拡大し、このような一般的な視点から考察するのである。

 そしてカフカの見方からすれば、このような一般化は彼自身の周囲の事実によって充分に根拠づけられているのであった。というのは、彼の最も親しいユダヤ人の友人であるブロート、フェーリクス・ヴェルチュ、オスカー・バウムも似たような問題で苦しんでいたからである。ブロートは一九一七/一八年、妻エルザとは別の愛人ができて、その結婚生活は危機に瀕していた。ヴェルチュは豊かな生活を望む妻の意向に従って、意に沿わない図書館司書の仕事の他にも、様々なアルバイトに精力を費やさなければならなかった。バウムも夫婦生活の危機をかかえて、一九一八年初めチューラウという農村にいたカフカのところに相談に訪れている。自分も含めて、自分の知っている西ユダヤ人がみな結婚と家庭生活の問題に直面している以上、これは一般的な問題だとカフカは思わざるをえない。

 

    民族ホームに対するショーレムの批判

 しかしながら、「西ユダヤ人はそれ[=究極の事物]について明瞭ではなく、だから結婚する権利がない」というカフカの理由づけは奇妙と言えば奇妙である。結婚問題と「究極の事物(die letzten Dinge)」とはどんな関係があるのか。キリスト教ではこの言葉は「四終」=死・審判・天国・地獄という四つの問題を意味するが、ユダヤ人カフカはもちろんキリスト教的な意味で用いているのではなく、人間存在の根本にかかわる重要問題という意味で使っている。だが「究極の事物」を明確に把握している人間などいるものだろうか。民族共同体を持っている東ユダヤ人やチェコ人は、共同生活に関して西ユダヤ人よりも有利な立場にいることは確かであるとしても、そのことは彼らが「究極の事物について明確に把握」していることを示すものだろうか。カフカが彼の結婚問題を西ユダヤ人の時代的問題へと一般化したことは先に見たが、彼がそれをさらに「究極の事物」と結びつけるとき、個と共同をめぐる彼の考察は、民族的・文化的なレベルから宗教的・形而上的なレベルへと深化されることになる。

 一九一六年九月十一日のフェリス宛の手紙の中で、彼は「レーマン博士と、それに彼の講演について少しばかり。・・・・講演に関しては、それが核心の問題を扱っているかぎり、あなたは特別に幸運だったようです」と書いている。ただし、シオニズムはまだこの「核心の問題」について決着をつけておらず、そのためにたえず「基盤を揺るがされる」ことになろう、と彼は言う。ユダヤ民族ホームの創設者レーマンの講演に関係する「核心の問題」とは何か。これについては、このころユダヤ民族ホームを訪れ、ホームに批判を加えたゲルショム・ショーレムの貴重な証言がある。

 ショーレムは自伝『ベルリンからイェルサレムへ』の中で、ユダヤ民族ホームを訪問したときの様子を、次のように回顧している。

「[ホームで]私はショックを受けた。私を取り巻いていたのは、美的な陶酔の雰囲気であった。それは私がここに来てとうてい見出すべくもないものであった。終わりに、次の会にはレーマンが《ユダヤ的宗教教育の問題》という講演を行なうことが連絡された。・・・・私はレーマンの講演に行ったが、それを聞いて私は特に鋭い反論を加えたくなった。というのは、このサークルが歴史的なユダヤ教について何も知らずに、ブーバーのハシディズム解釈の解釈をしていい気になっている不真面目さを、私がその中に感じ取ったからであった。・・・・一週間後そこでは、この講演に関して非常に激しい討議が行なわれたが、それはとりわけレーマンと私の間で展開された。私は・・・・こんなナンセンスと文学的な無駄話をするかわりに、むしろヘブライ語を学び、原典に戻るべきだ、という要求を行なったのである。・・・・ユダヤ的教育の理論家としては、レーマンは最後まで不明瞭なままで、相変わらず古いブーバー的な宗教なき《宗教性》にとらわれていた。」(5)

 この議論についてはフェリスがカフカに書き送っており、五十年後に出版された『フェリスへの手紙』でそのことを知ったショーレムは深い感動を味わっている。

 レーマンの講演をめぐるショーレムの批判は、当時ユダヤ民族ホームを支配していたシオニズムの宗教理念に向けられている。中・西欧のシオニズムは当初T・ヘルツルの主導のもとに政治的シオニズムとして出発したが、ヘルツルの死後、ブーバーの文化シオニズムの影響下に入った。レーマンはブーバーの信奉者であった。だから、ショーレムのレーマンに対する批判は、結局のところブーバーに対する批判ということになる。

 

    ブーバーのハシディズム解釈

 先に、カフカが彼個人の結婚の失敗を、「精神的な結びつき」が不可能な西ユダヤ人の一般的病理の個別例として診断したことを見てきたが、同化した西ユダヤ人に対するこうした見方は、決してカフカだけに限られる特殊なものではなかった。「ばらばらにされた個々人」というブロートの言葉はカフカと同じ認識を伝えている。民族共同体を持たないための共同体感情の欠如は、当時シオニズムが同化主義を批判するときに持ち出す一般的な論点であり、その代表的なイデオローグがブーバーであった。その背景にあるのはF・テニエスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』に学問的な表現を見出した、産業化された社会に対するロマン主義的な反動である。ブーバーによれば、「精神的探究に心を奪われ、知性によって空中に連れ去られた若者ほど、民族性との救済的な結びつきを必要とする者はいない」のであるが、「このような性向の、またこのような運命の若者たちの中にあって、ユダヤ人の若者ほどそれを必要とする者はいない。・・・・ユダヤ人は共同体に帰らないかぎり、解体にゆだねられている」のである(6)。「西ユダヤ人は結婚する権利がない」というカフカの言葉は、ブーバーの西ユダヤ人批判と共鳴しているのである。

 ブーバーの精神遍歴は実に多彩で、ここでそのすべてを語ることはできないので、カフカとの関連で重要な点だけを述べておこう。若き日のブーバーに大きな衝撃を与えたのはニーチェの『ツァラトゥストゥラ』であった。一八九八年、彼はシオニズム運動に参加するが、ニーチェへの傾倒からもうかがわれるように、彼がシオニズムに求めていたのは、単なる政治運動ではなく、ロマン主義的、神秘主義的な人間の救済であった。大学時代に彼は、シオニズム運動のかたわら、ルネッサンスと宗教改革時代の神秘主義の研究に打ち
込むが、このような探究の過程において『ラビ・イスラエル・バールシェムの遺言』という本に出会い、ハシディズムの伝統に目を開かれるのである。

 ヘブライ語の「ハシド」という言葉は「敬虔な」という意味で、ユダヤ宗教史上、ハシディズムという用語は何回か現われるが、ブーバーが発見したのは、十八世紀の半ばにイスラエル・ベン・エリエゼル、通称バール・シェム・トーヴ(さらにベシトと短縮される)によって創始された東ユダヤ人の民衆宗教である。ブーバーは幼少期にガリチア地方のサダゴラという町でハシディズム教団に接したことがある。しかし、この頃のハシディズムは創始者の霊的な活力を失って、「ラビ(奇跡のラビまたはツァディクと呼ばれるハシディズム教団の指導者)たちの王朝」と化し、彼らは立派な「御殿」に住んでいた。ブーバーはこのような堕落した姿に反発を感じたが、同時にそこに指導者を中心とした生き生きとした共同体の姿を垣間見もしたのであった。

 一九〇二年、彼はヘルツルの政治的シオニズムと決裂し、当初神秘主義の研究に没頭するが、一九〇三年にベシトの『遺言』を読んで、その中に自分が求めている個人と共同体の理想的な関係を見出した。彼はツァディクたちの伝説を集めて、それをヘブライ語からドイツ語に翻訳し始めた。ただし、それは原典に忠実な翻訳ではなく、「伝統的なモティーフによる自律的な創作」であった。すなわち、ブーバーの「翻訳」は、彼がそうあるべきだと信ずるハシディズムの理想の姿の再現であった。それにもかかわらずその際彼は、「私はこれを創造した人々の血と精神を、私の内に持っている、そして血と精神から、これが私の内で新たに成長したのである」と主張する。

 ショーレムが批判するのは、ブーバーのこうした原典に忠実ならざる態度であった。ショーレムによれば、ブーバーの解釈の問題点は、第一に「ハシディズム社会の魔術的要素と社会的性格」を省略していること、第二に「彼が選ぶ素材は、彼の場合しばしば、その意味についての彼自身の解釈と密接に結びついている」ところにある。その結果、ブーバーはハシディズムを「《今ここで》の完全な実現についての教えとして実存主義的に解釈」しているが、これは歴史的ハシディズムとは無縁の「まったくの近代的理念」にすぎない、とショーレムは言うのである(7)

 

    「宗教」と「宗教性」

 ハシディズムとは、ツァディクの現世利益的な奇跡力(魔術的要素)と、教団という組織(社会的性格)をそなえた「宗教」であった。しかし、そうした奇跡信仰を残した形態の東欧のハシディズムは、西欧化したユダヤ人の教養とは相容れない。さらに、現に存在する東ユダヤ人の信仰共同体としてのハシディズム教団も、伝説的文献の中に見える生き生きとした人間的交流に満ちたかつての共同体の姿から堕落して、「ラビたちの王朝」と化している。このようなハシディズムを、高まりつつある反ユダヤ主義によって同化への道を断たれ、アイデンティティの危機に陥っていた西ユダヤ人の精神的支柱とするにはどうしたらよいか。ブーバーの戦略は「宗教(Religion)」と「宗教性(Religiosität)」を区別することであった。彼にとっては「宗教」が「宗教的感情の生命を欠いた制度化」(D・ビアール)であるのに対し、「宗教性」は宗教生活の生きた核心である。そこで彼はハシディズムからカバラーなど奇跡にかかわる「魔術的要素」を除外し、教団という「社会的性格」を捨象する。彼はハシディズムという「宗教」をそのまま復活させるのではなく、ハシディズムの「宗教性」を、すなわち彼が真のハシディズム精神と信ずるものを直観的につかみ取り、それに近代的な衣装を与えて、表現し直す。それはいわば東ユダヤ人の宗教信仰を西欧的に精製あるいは水増ししたものということになろう。こうして彼のハシディズム解釈は、東ユダヤ人の素朴で、迷信的でもあるが、それゆえ明確な輪郭を持った「宗教」を、曖昧模糊とした哲学的言辞で彩られた――ショーレムの見るところでは――「宗教なき宗教性」という、歴史的ハシディズムとは異質の近代的理念に変えてしまった。

 しかし、ショーレムの批判にもかかわらず、まさにブーバーによるこのような伝統の近代的語り直しによって、ハシディズムが反ユダヤ主義の中で生きる西ユダヤ人の精神的な拠り所になりえたという側面があったことは認めなければならない。ビアールも述べるように、「ブーバーが新しい共同体としてのシオニズムに与えた普遍的・実存主義的解釈は、これらの同化した若いユダヤ人たちの共鳴をただちに獲得した」のである(8)。こうしてブーバーは西ユダヤ人の精神的指導者、いわば「新しいツァディク」になることができた。

 ベルリンのユダヤ民族ホームの指導者レーマンが信奉していたのは、このようなブーバー的ユダヤ教であった。だがブーバー的「宗教性」の立場は、歴史学者ショーレムにとっては、原典を歪曲した真正ならざるユダヤ教であった。このような偽りのユダヤ教を否定するショーレムが、ユダヤ的源泉へ回帰して、後に数多くのすぐれたユダヤ神秘主義研究を生み出したことはよく知られている。

 

    ブーバーとカフカ

 プラハの学生組織バル・コホバは、ブーバーの影響を特に強く受けていた。そもそも、ヘルツルの政治的シオニズムから離脱し、ハシディズム研究に沈潜していたブーバーが、再度シオニズム運動の第一線に浮かび上がり、その精神的指導者になったのは、一九〇九年から開かれたバル・コホバ主催の一連のブーバーの講演会の成功がそのきっかけであった。

 カフカもこの講演会に出席している。しかし、彼はブーバーのユダヤ教解釈には納得できなかった。それを非真正なものと感ずる点においては、彼もショーレムと同じ立場に立つ。彼は一九一三年一月のフェリス宛の手紙では、「ブーバーがユダヤの神話について講演をするのです。・・・・彼の話はもう聞いたことがありますが、私には味気ない印象でした。彼の言うことすべてには、何かが欠けています」と書いている。カフカが特に「堪え難く」感ずるのは、ハシディズム物語にブーバーが加えた「改作」である。また一九一八年一月に、バウムから送られたブーバーの二冊の著書を読んだとき、それを「吐き気を催すような、いとわしい本」だと評している。

 イディッシュ語劇団との出会いによって早くから東ユダヤ人の民族性に目覚めていたカフカが、彼らの信仰であるハシディズムを再興したブーバーに感銘を受けなかったのはなぜだろうか。それは、ブーバーのハシディズム解釈が、東ユダヤ人がおのずから体現している生き生きとした民族共同体の姿の二番煎じであって、ブーバー的な「宗教性」は決して西ユダヤ人を東ユダヤ人に「匹敵する」ものにはしないことを、彼が感じ取ったからであろう。カフカは西ユダヤ人は病んでいるという病状診断の点ではブーバーやブロートと軌を一にするのであるが、彼らの提示する治療のための処方箋には同意できない。

 もっとも、彼はフェリスをユダヤ民族ホームに接触させたことがきっかけになって、一時的にはシオニズムに参加したと見ることができる。彼は一九一七年にヘブライ語の学習を開始している。同年、彼は雑誌『ユダヤ人』に短篇『ジャッカルとアラビア人』と『学会への報告』を発表し、五月のブーバー宛の手紙では、「これでどうやら私も『ユダヤ人』に参加したわけです」と書いている。R・ロバートソンも主張するように(9)、一九一七年に書かれた『田舎医者』の短篇作品群は、「カフカとシオニズム」という観点から解釈する必要があろう。しかし、これらの作品においても、カフカはシオニズムに全面的には賛同しておらず、それに対してやはり懐疑を含んだ目を向けている。それはシオニズムがまだ「核心の問題」を解決していないからである。彼は「究極の事物」について考察を巡らしたチューラウにおいては、ブーバーとは再度距離を置いている。しかし、晩年にはもう一度シオニズムへ大きく接近することになる。

 

    ユダヤ教の再生

 西ユダヤ人はたしかに病んでいるが、西ユダヤ人が東ユダヤ人と同じ宗教伝統に復帰すれば問題が解決するわけではない。西欧化したユダヤ人が東ユダヤ人の蒙昧な信仰世界にそのまま戻ることは不可能である。それは西ユダヤ人が西欧文明とはいわば逆方向の「同化」をすることになる。東ユダヤ人の世界へのそのような同化を行なったのが、ガリチアの都市ベルツでハシディズムの修行を積んできたカフカの友人ゲオルク・ランガーである。彼はカフタンを着て、東ユダヤ人とまったく同じ姿になってプラハに戻り、同化した彼の両親や友人たちにショックを与えた。

 だがカフカは東ユダヤ人の世界への同化については否定的であった。ランガーやブロートと共に、戦時中プラハ郊外に居を定めた「奇跡のラビ」を訪ねたときの印象を、彼は「酷評すれば、まあアフリカの蛮族のやるようなことだね。まったくの迷信だ」と述べている。彼は一九一六年にランガーに誘われて、マリーエンバートで別の奇跡のラビを見物しに出かけているが、それについて報告する彼のブロート宛の手紙は、ラビとその信者に対する皮肉に満ちている。彼はたしかに東ユダヤ人の素朴な生活に心ひかれたが、西欧的な教養を身につけた西ユダヤ人にとっては、彼らの信仰はあまりにも「迷信」的であった。

 そもそも西ユダヤ人は、東ユダヤ人やチェコ人のような歴史的に形成された民族共同体を持っていない以上、彼らを模倣したとしても、それと「匹敵する」ものにはなりえない。彼はチューラウで記入した八折判ノートに「君が前提を手に入れたならば、君はもう全部を手に入れたことになる」と書いている。西ユダヤ人が東ユダヤ人のような歴史的前提を持っていれば、それはもう「全部を手に入れたことになる」。だがそのような前提を持たない西ユダヤ人は、ユダヤ的伝統と西欧文明との狭間の真空地帯に棲みついているので、「必然的な共同生活」の基盤を、彼らと同じ単なる文化的、民族的なレベルに求めることはできない。東ユダヤ人やチェコ人が即自的、無意識的に生きている「必然的な共同生活」を獲得するためには、西ユダヤ人はその根拠をあらためて意識的に求め、より深いレベルにおける人間的な一致点を探り出さなければならない。それが「核心の問題」であり、「究極の事物」である。西ユダヤ人は「究極の事物」を根本的に解明しなければ結婚する権利がない、とカフカが考えるのはこのような理由のためである。彼が「核心の問題」と見なすものは、「ユダヤ的宗教教育の問題」というレーマンの講演の題名にも示されているように、ユダヤ人の宗教の問題であった。「必然的な共同生活」をめぐる彼の考察は、ここにおいて宗教的・形而上的次元へと深化する。

 レーマンの信奉するブーバー的な「宗教性」は、西ユダヤ人の共同体を築く基盤にはなりえない、とカフカは考える。しかし、「必然的な共同生活」のためには宗教が根本問題である、という基本的認識においては、彼はブーバーと近い立場にいる。ブーバーはユダヤ人国家の建設のためには、単なる愛国的民族主義では不充分で、西ユダヤ人の精神的な革新が必要と考えて、ハシディズムの伝統を現代に再興したのであった。その際、カフカが奇跡のラビや彼の信奉者たちを迷信的と見なしたように、ブーバーも東ユダヤ人のハシディズム信仰をそのままの形で復活させることはできないと考えたからこそ、それを西欧哲学的に語り直したのであった。

 このような伝統のとらえ直しは、ブーバーだけではなく、シオニズムを民族国家の建設という政治運動に限定するのではなく、それを西ユダヤ人のアイデンティティ回復の道と見なす、ブロートやフーゴー・ベルクマンなどの、カフカの周囲にいた文化シオニストに共通する傾向であった。彼らはそのような宗教的な基盤が確立されなければ、新たな精神性に満たされたユダヤ人国家の建設は不可能であると考えたのであるが、その際、伝統的なユダヤ教は、正統派の律法的ユダヤ教であれ、東ユダヤ人の民衆宗教であるハシディズムであれ、西欧近代を経過した西ユダヤ人にはそのままの形では受け容れがたいものであった。そこで彼らは、ユダヤ教に様々な近代的衣装を施すことによって、それを西欧社会と共に危機に陥っているキリスト教よりもすぐれた宗教精神として宣揚することになる。このようなユダヤ精神は、西ユダヤ人のアイデンティティ確立のために呼び出されたイデオロギーと見なすことができるのである。

 

    ユダヤ教とキリスト教の狭間で

 カフカも、民族的アイデンティティを喪失し、個と共同の正しい関係を確立できない西ユダヤ人の病が根深いものであるという病状診断の点においては、ブーバーらの文化シオニストと同じ立場に立っている。しかし、西ユダヤ人の問題は、ユダヤ的な宗教伝統を現代に――しかも水で薄めた形で――復活させることによって解決できるほど簡単なものではない。彼は一九一八年二月二十五日に八折判ノートに次のように書いている。

「家庭生活や、友人関係や、結婚や、職業や、文学など、私に一切のものを失敗させる、いや失敗するところにさえ行かせないものは、怠惰や、悪意や、不器用さなどではなく・・・・大地空気の欠如である。これらのものを創り出すことが私の課題である。・・・・私が知るかぎりでは、私は人生に必要な要件を何一つたずさえてこなかった。持っているのはただ一般的な人間的弱点だけである。・・・・わずかばかりの肯定的なものや、肯定的なものに転ずる極端に否定的なものは、私は何一つとして遺産相続されなかった。私はキルケゴールのように、もちろんのことすでに重く垂れ下がっているキリスト教の手によって、人生の中に導かれたのでもないし、またシオニストたちのように、飛び去りゆくユダヤ教の祈祷服の最後の端をつかまえたのでもない。私は終わりであるか、始めである。」

「大地」というのは、農耕の伝統を持たず、大地に根ざしていない同化ユダヤ人の生活を批判するときに、シオニストが用いる常套句の一つである。「大地、空気、掟の欠如」という表現は、西ユダヤ人は「大地」=パレスチナから切り離されてしまったがゆえに病んでいる、とするブーバーらのシオニストと似かよった視点でカフカが自己批判していることを示している。そのような彼が立っているのは、「何一つとして遺産相続されなかった」という歴史的地点である。彼の状況は後に『ミレナへの手紙』の中では、「私たちは二人とも西ユダヤ人のきわめて特徴的な典型を何人も知っていますが、私の知るかぎり、私は彼らの中で最も西ユダヤ的な人間です。・・・・私には何一つ与えられているものはなく、すべてを自分で獲得しなければならないのです」というように述べられることになる。

 伝統を何一つ「遺産相続」されなかった彼は、どのようにして「必然的な共同生活」を実現することができるであろうか。西ユダヤ人にとってそれを可能にする近道として考えられるのは、キリスト教への改宗であろう。「洗礼証書はヨーロッパ文化への入場券」(ハイネ)である。しかし、ニーチェが確認したように、キリスト教はすでに西欧人の精神生活を根拠づける力を失いつつあった。キルケゴールはその傾きかけたキリスト教に必死ですがりついたのであったが、ユダヤ人カフカは彼の真似をすることはできない。これに対してシオニストは、古いユダヤ教の伝統を現代に蘇生させようとする。しかし、カフカが自分の父のユダヤ教信仰に見出したように、それは過渡期のユダヤ人世代にとってはもはや一個の「無」にすぎなかった。

 キリスト教やユダヤ教という既成の宗教的伝統を再興することによっては、西ユダヤ人としての自分の「人間的弱点」は克服できない。「必然的な共同生活」は「究極の事物」=「大地、空気、掟」に基づいてのみ可能である。このとき、ブーバーにあってはまだパレスチナの土地という具体的なイメージが伴っていた「大地」というイデオロギー的用語は、カフカにおいてはそのような具体的な連関から解き放たれて、純粋に形而上的な生の根拠を現わす隠喩となる。このような「大地」=土台が確立されなければユダヤ民族はユダヤ人国家を建設できないであろうし、また個人としての彼は結婚できないであろう。彼の文学、そして文学と並んで重要な意味を持っている彼のアフォリズム的考察は、キリスト教とユダヤ教という二つの没落する宗教的価値の間の真空地帯に立って、そのどちらにも属さず、しかもそのどちらにも共通する「究極の事物」を解明しようとする試みであった、と見ることができるのである。

 邦訳文献の訳文については、原文に基づいて若干変更されている。

 

() Max Brod, Streitbares Leben, Frankfurt/M. 1979, S.47

() 『決定版カフカ全集1』(新潮社)二一一頁

() K・ヴァーゲンバッハ『若き日のカフカ』(竹内書店)二〇〇頁

() M・ブロート『フランツ・カフカ』(みすず書房)一八八頁

() Gerschom Scholem, Von Berlin nach Jerusalem, Frankfurt/M. 1977, S.102ff.

() M・ブーバー『祈りと教え』(理想社)一七―一八頁

() G・ショーレム『ユダヤ主義の本質』(河出書房新社)一四三―一五九頁

() D・ビアール『カバラーと反歴史』(晶文社)八〇―一〇二頁

() Ritchie Robertson, Kafka: Judaism, Politics, and Literature, Oxford 1985, Chapter 4

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