マルティーンセン=ローマン
『歌唱芸術のすべて』(音楽の友社、1994年)
著者: フランツィスカ・マルティーンセン=ローマン Franziska
Martienßen=Lohmann
原著: Der wissende Sänger -
Gesanglexikon in Skizzen, Zürich (Atlantis Musikbuch-Verlag) 1981 (3.,
unveränderte Auflage)
訳者: 声楽家の荘智世恵氏と共訳
価格: 4500円
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著者序文
昔のイタリアの名歌手たちは,声楽に関する直観的な認識や洞察や英知を,文字や口承の形による言明と教示で伝えている。これらのものは,一見,意味不明であったり,曖昧のように思われるが,実はその精確さと現実性において,驚くべきほどの知見と観察に基づいている。しかし,今日に至るまで,声の自然法則に関する認識と英知を含んでいるこの伝統を,発声科学的に証明しうる事実基盤の上に立って研究するという真剣な試みは,一度としてなされたことがなかった。それを行なえば,声楽の歴史において,探究的精神がこれまで歩んできた長い道程を見渡す明快な展望を獲得することができるのである。
声楽学の分野は現在,科学と技芸と妄想の間の奇妙な浮遊状態に置かれている。その原因となっているのは,学問的,理論的基本概念の統一的名称も,この部門の芸術的諸法則(これらの諸法則は声楽においても,発声器官それ自体の性質からして,決して破棄することのできない自然法則と結びついている)に対する明瞭な概念規定も,ほとんど存在していない,という事実である。
これらすべての原因から,声楽という分野は,一見まったく伝統を持たずに空中に浮遊しているかのように思われる。そこで,数多くの真剣な探究者は,まったく新しい発見(それは実のところとっくの昔に発見されていた事柄なのだが)によって,発声法の革命ばかりでなく,一種の新時代を告知することができるとさえ信ずるにいたる。
われわれが必要としているのは,声楽という芸術分野に関する明解で根拠のある観念である。この部門において包括的な方向づけを与えることは,その緊急な必要性から,基本的にはすでに数十年来《空中に浮遊していた〔=懸案となっていた〕》課題である。なぜなら,これほど数多くの質問がたえず寄せられながら,それに対して根拠のある回答が欠如しているという部門は,他のどこにもないからである。他のどの芸術部門でも,これほど混乱した矛盾撞着が支配してはいない。
声楽部門における統一的な概念規定を行なおうとする努力の生誕地としては,ウィーンをあげることができよう。残念なことにあまりにも早く逝去されたウィーン大学教授フーゴー・シュテルン博士は,生前,発声科学者と声楽実践者のまったく新しい接触と接近のために,両者の会合を召集した。彼はその必要性を強く感じていたのである。発声機能の技術的問題に真剣にたずさわる人は誰でも,彼の画期的な労作に対して,彼に感謝の言葉を述べなければならない。彼の著作は《声の生理学,病理学,教育学のための統一的命名法の必要性》(1928年)である。拙著の構想は,私が数年間にわたって,《音楽と演劇のための国立アカデミー》において客員教授の形で行なった,声楽教育者のためのウィーン・コロキウムから生まれた。このコロキウムは,熱心に参加して下さった教授たちやプライベートな声楽教師たちによって,非常に好意的に迎えられ,特に,シュテルン教授のかの努力の一種の継続として受けとめられた。また1945年以来もはや存在していない《声楽および朗読芸術の促進のための国際会議》が復活し,統一的概念規定の問題を広く引き受けてくれることも望まれる。
声楽芸術と,特に歌手自身とを,彼の置かれている内面的・外面的状況にわたって,幾分かでも包括的に論述し,発声機能とその諸々の要素の総体的連関に関する諸事実をわかりやすく解明しようとするならば,事典という厳密な論述形式を取らなければならないであろう。しかし,純然たる事典というものは,威儀を正した,権威を有した,きわめて真面目な書物であることを常とする。それは,諸々の異なった意見の潮流の渦巻く海の中で,揺るぎなく屹立する巌のようなものである。あらゆる《立場》が制約されたものであること,人間の諸々の認識が変転するものであり,葛藤をはらんだものであること,そして諸現象がしばしばまさに相矛盾するように思われるほど多様であること――事典というものはこうしたことを微笑をもって洞察するような場ではない。純然たる理論的知識の専制の外に逃れるためには,百科事典や辞書の揺籃期へとはるかにさかのぼらなくてはならないであろう。それらが編まれた初期の時代には,独創的な概念規定や,時にはユーモアの薬味の効いた,生き生きとした個人的な定義がまだ見出されるのである。18世紀にジョンソン博士(1)は彼の英語辞書の中で,釣竿の概念を,その一方の端には時として魚が,他の端にはいつでも阿呆がぶら下がっている竿である,と定義してくれた。その時,この大胆な定義に愉快を感ずるためには,いずれにせよ釣竿それ自体の知識を前提としていることは当然のことである。しかし,ひとつの事典が記述するすべての事項に関して,必ずしも読者がそれについての知識を前もって持っているわけではない,ということにも疑念の余地はなかろう。したがって,かくも魅力的な事典的英知の形式も,事典のための完全な手本というわけにはゆきそうもない。
本書があえて試みたいと思っているのは次のことである。それは,声楽というひとつの特殊な専門的領域を,学問的な冷ややかさをもってではなく,かといって空想をたくましくすることもなく論述し,その際,生き生きとした事柄が生き生きとした精神に語りかけるようにすることである。本書の緩やかな形式にもかかわらず,本書全体が専門的知識と真剣さに基づいて叙述されていることを,専門家は認識して下さるであろう――たとえ,本物の事典の性格を構成するであろう参考文献と引用文献の典拠が欠けていようとも(それはモーザー(2)の音楽事典のような,模範的な生彩ある書物においては,きわめて広い場所を占めざるをえないのであるが)。
上に述べたことすべては,ただ声楽の本来の専門家である歌手と声楽教育者だけに関係しているわけではない。彼らにとって,真剣な専門的知識の枠内における,客観的で,厳密に法則的に基礎づけられた諸定義の伝達が必要不可欠なものであることは当然のことである。しかし同様に,何らかの形で声楽と結びついていると信じ,そのために逆に残念なことに,歌唱と声楽芸術に関する混乱した考え方や,また混乱をひき起こすような考え方を,たえず拡大して他の人々に伝えているすべての人々に,堅苦しくない形で,諸概念の実際的な解明をわかりやすく行なうことも必要なのである。そのような人々の中には,オペラのディレクター,楽団指揮者と劇場支配人,その意見が世間一般に受け容れられている(あるいは受け容れられない)批評家,音楽大学の理事,合唱指揮者,コレペティートル,合唱団員,あるいは声楽に真面目な関心を持っている人々やオペラファンが含まれる。これらすべての人々は,その都度のテーマに関して,客観的に間違いのない方向づけを見出す可能性がなければ,歌手の発声器官,歌手の特質,歌手の生理的・心理的な性向をどう理解してよいのかわからず,かなり途方にくれることであろう。したがって,声楽概念の明確化を必要とするサークルは非常に大きい。
すべての事柄がきわめて生き生きと関連しあっている領域においては,各々のテーマは常に重なりあっている。このことから,網の目のように入りくんだ道の内部において,個々の論点がたえず新しい角度から触れられ,数多くのスポットライトの光によって照らし出されていることが理解されよう。筆者の願いは,変化する照明のもとでこのような反復的な著述を行なうことにより,読者が本書を読み進むための自分自身の個人的な道を見出すことがより容易になってほしい,ということである。この形式の中に(そしてひとつの導き方として本書をアルファベット順に配列したことの中に),読者自身が多様な諸問題と諸連関に,自主的で批判的な接近をはかっていただきたい,というかすかな呼びかけを見出して下さったら幸いである。
デュッセルドルフにて,1956年2月
フランツィスカ・マルティーンセン=ローマン教授
(1) ジョンソン博士:Samuel Johnson(1709-84年)はイギリスの作家・批評家・言語学者。彼の著わした《英語辞典》(1755年)は有名。
(2) モーザー:Hans Joachim Moser(1889-1967年)はドイツの音楽学者。彼の編集した《音楽事典》(1935年)は版を改めて,今日でも用いられている。
事項索引(数字は本書の項目番号を示す)
あ
アイデティクと体験 55
アインザッツ 58
あがること(舞台上や初演時に) 135
アクセント 6
アッポッジオ 11
アーティキュレーション 13
アリア 12
アルト 7
アンサンブル精神 60
アンザッツ 58
暗譜 17
い
意志(声楽における) 308
意識的歌唱 28
イタリア(声楽の国) 104
イタリア的方法(いわゆる) 105
移調 281
意味 313
色(響きの) 118
イントネーション 103
う
ヴァイタリティ(とヴィルトゥオーゾ) 293
ヴァーグナー歌手 302
ヴィブラート 282
ヴィルトゥオーゾ性 292
ヴィルトゥオーゾ(とヴァイタリティ) 293
ヴォア・ミクスト 294
ヴォカリーズ 238
ヴォリューム 297
裏声 67
運声法 78
運声力 279
え
衛生 87
エクスターゼ 61
エージェント 4
エロス 62
お
横隔膜 312
音 276
音の強弱 136
驚きの態度 63
オペラ 181
オペラ歌手 184
オペラ学校 185
オペラにおける声の専門 257
オペレッタ 183
重い声(軽く歌うべきか?) 231
思い込み 57
オラトリオ 186
音楽性 168
音楽著作権組合 83
音響学(音響効果) 5
音強感覚 278
音響的核心 116
音響表象 118
音声音楽 296
音声学 196
音声衰弱 195
音力法 54
か
解釈演奏 102
外的障害 95
歌唱楽器 101
カストラート 110
かすれ声 94
硬さ 250
合唱 37
カデンツ 106
感傷 236
換声点 285
カンタータ 109
カンタービレ 36
貫通力 53
カンマーゼンガー 107
カンマートーン 108
き
機械的なもの 153
危機 131
聴くこと 98
気候 120
気質 269
技術(化) 268
規準 151
起声 58
気息性 93
喫煙 215
キッチュ 114
機能(声の) 79
機能的聴取 79
基盤 24
気分 261
宮廷歌手 107
教育者 187
強弱(音の) 136
胸声と胸声性 32
胸部共鳴 31
共鳴 217
響鳴 224
共鳴腔 9
虚栄 57
極端 66
規律 48
均斉(声の) 16
均斉(母音の) 295
緊張 243
筋肉感覚 169
く
口の構え 167
クッペル音響 128
句読 309
クネーデル 121
クレッシェンド 38
訓練(響きと声楽の) 117
け
経済的・社会的側面 242
芸術家存在の本質 306
芸術家の才能(声楽における) 267
形成音 74
欠陥 69
限界音域 89
健康 87
言語音 246
原作に対する忠実さ 303
現代音楽 165
こ
故意性(声楽における) 308
構音 13
口蓋 80
口蓋性 81
香気(響きの) 52
講習会 134
喉頭 112
喉頭鏡 113
喉頭の位置 111
声 256
声の改良 288
声の管理 127
声の技術と技術化 268
声の機能 79
声の矯正 259
声の均斉 16
声の限界 89
声の構造と性格 263
声のすわり 237
声の色彩 68
声の専門(オペラにおける) 257
声の喪失 290
声のタイプ(オペラにおける) 257
声の柔らかさと温かさ 304
語音形成 137
呼吸 14
黒人霊歌 176
個人的要素(声楽演奏における) 206
コレペティツィオーン 119
コロラトゥーラ 124
コン・エスパンシオーネ 64
コンクール 307
混合声 294
コンサート歌手 184
コンサートホールでの礼節と作法 266
コンゼルヴァトリウム 125
さ
最後の磨き 227
最少呼吸 162
才能(芸術家の) 267
才能(声楽的) 84
支え 264
ささやき 72
三重唱 273
し
子音 126
弛緩 243
色彩(声の) 68
試験 65
自己観察(声楽における) 234
自己教育(声楽における) 234
四重唱 212
姿勢 91
自然 174
自然主義 174
自尊心と優越心(歌手の) 235
舌 310
舌の欠陥(歌手の) 311
実験 66
質の感覚 210
自動運動 18
弱音(ピアノ) 199
シュヴェルトーン 230
終止形 106
自由走行唱法 76
手術 182
小事にこだわる 193
上部音響 178
上部母音 178
初演(時にあがること) 135
初見 205
初心者 8
神経衰弱 177
シンコペーション 265
真実性 303
新人 171
身体音響 123
身体感覚と身体感性 122
診断 41
振動 232
振動部位 299
心理学(と声楽レッスン) 209
す
スイング 233
スカラ座 223
スタイル 251
スタッカート 248
ステージと聴衆 200
スポーツ 90
せ
声域 287
声域の破損と破損箇所 30
声楽理論の歴史 96
声区 216
声質 211
声種 258
声唇 252
声帯 252
声帯小結節 253
声帯閉鎖 254
成長 301
声門打撃 88
生理学 198
声量 211
せき止め力とせき止め原理 249
絶対音感 2
節度 149
先生の変更 139
全体感覚 28
前方部発音 299
専門的知識 222
専門用語 272
そ
素因 47
造形の論理 142
造形(リートの) 140
早熟 77
装飾音 291
増大音 230
俗悪 114
ソノリティ 240
ソプラノ 241
ソルフェージュ 238
ソルミゼーション 239
ソロ歌唱芸術の歴史 97
た
体操 90
大脳中枢部 82
高いC音 35
タッチ 10
単一声区 216
た
タンブル(美の秘密) 275
ち
地方的要素(声楽演奏における) 206
抽象的歌唱 3
中声 164
中声域 164
調和 92
著作権 102
て
ディアローグ 43
ディレッタンティズム 45
適性 56
笛声(笛声区) 194
デクラマツィオーン 40
デクレッシェンド 38
デックング 39
テノール 271
テープレコーダー(と歌手) 277
デュナーミク 54
テンポ 270
と
頭音 130
頭声と頭声性 129
道徳(と文化) 133
頭部音響 128
トゥルヴァドゥール 163
独学か先生につくか 1
ドラマチックな声 49
努力 71
トリル 282
トレーニング 280
トレモロ 282
な
内的抑止 95
内発性 245
に
二元的対立 50
二重唱 51
二重母音 46
人間性 99
の
喉の自由 111
は
バイロイト 25
拍手 26
バス 23
破損(声域の) 30
発音 13
発声器官を広げる 305
発声訓練 255
発声試験 260
発声練習 59
発達(声の) 86
バッハ歌手 19
パトス 192
話すこと(と歌うこと) 247
鼻(の共鳴) 172
バラーデ 20
パラドックス 189
バリトン 22
バルド 21
パルランド 190
パレット(歌手の) 188
ひ
ピアノ(弱音) 199
ピアノ伴奏 119
鼻咽腔 173
鼻音性 172
鼻共鳴 172
ヒステリー 178
響き 115
響きの色 118
響きの香気 52
批評家 132
表現能力 15
表現力 15
標準語 33
表情術 161
表象と現実 300
開いて歌う 179
広い張り 29
ふ
ファルセット 67
ファンタジーの創造力 228
フィステル 67
フォルテ 75
フォルマント 74
深い把握 274
副音節 175
舞台(上であがること) 135
舞台演技 185
舞台語 33
ブッフォ 34
浮動 232
舞踏 90
部分音 191
プリマドンナ 204
フレーズとフレージング 197
プレッシャー 289
プログラム作り 207
プロモーター 4
文化(と道徳) 133
へ
平板な歌唱 70
ベルカント 27
辺縁声 214
変声 170
ほ
母音と母音均斉 295
方言 42
冒険(声楽学習の) 1
法則と法則性(声の発達の) 86
方法 158
ポジション 203
ポルタート 202
ポルタメント 201
ポンティチェッロ 201
本能 100
翻訳 286
ま
間 309
マスク 148
マッサージ 150
マテリアル 152
マネージャー 145
迷い 100
マルキーレン 146
マルテッラート 147
み
耳(歌手の) 180
ミンネゼンガー 163
む
無理な発声 73
め
メセナ(芸術の保護者) 144
メゾソプラノ 160
メタル 148
メッサ・ディ・ヴォーチェ 157
メッザ・ヴォーチェ 157
メトロポリタン歌劇場 223
メトロノーム 159
メロディー 155
メロドラム 156
も
目的 313
モーツァルト歌手 166
模範 298
や
薬剤 154
ゆ
遊戯衝動と遊戯意欲 244
有節歌曲 262
ゆるやかさ 141
よ
抑揚 44
予言 208
ら
ラジオ向きの声 213
り
リズムとリズム的エネルギー 219
リートの造形 140
流行歌 226
流派論争 229
リリックな声 143
る
類型学 283
ルバート 221
れ
霊感 61
礼節と作法(コンサートホールでの) 266
レガートと線 138
歴史(声楽理論の) 96
歴史(ソロ歌唱芸術の) 97
レコード(声楽教師としての) 225
レツィタティーヴォ 218
レッスン(声楽の) 85
レッスンと心理学 209
練習について 284
ろ
ロマン主義 220
論理(造形の) 142