ホルトの製本屋――ハンガリーの物語――

 

 

 エチェドの背後の丘陵地からハンガリー平原を見渡すと、この平原はマトラ山のふもとからソルノクへ、そこからさらにティサ川へと広がっている。この丘からは、一面に続くブドウ畑と麦畑の中に、大きな緑の島が見える。目にやさしいこの島は、森でも公園でもなく、大きな果樹園でもない。それはホルトというかなりの大きさの村で、そこでは、豊かに生い茂った木の葉の下に、白い家々が隠れているのである。

 この村にジムカ・カリマンという名のユダヤ人の製本屋が住んでいた。彼は色々と風変わりなところがあって、目立つ存在であった。彼はまたそのあたり一帯、そして県全体の、賢者であり、生きた歴史でもあった。

 彼の運命にはハンガリーのユダヤ人の運命が反映していた。彼はユダヤ人がまだ権利を与えられていなかった時代から生きていた。その当時、彼は多くのことを耐え忍ばなければならず、その当時の悲喜こもごもの物語が、彼の思い出の宝石箱の中にはたくさんしまわれていた。その後、ハンガリー人の大きな民族運動が起こったが、その運動の記念碑的著作となっているのが、もっとも偉大なハンガリー人と呼ばれたセーチェニ伯爵の『光』という本である。

 一八四八年の革命によって、新しいハンガリー憲法が制定され、封建国家が終焉した。革命の光はゲットーの暗い路地にも入ってきた。普段なら雷雨のときにメシアに来てもらうためにだけ開けられる窓を通して、ほぼ二千年間迫害されてきた者たちに自由と平等を与える、革命という救済者がやってきた。そして貧しさと不安の中で生きてきたユダヤ人の心は、この偉大な知らせの意味をすぐに理解した。

 ハンガリーのユダヤ人は祖国というものを見出した。その同じ日に、この不安と嘲りの中で生きてきた人々は、この祖国を守る勇気も見出した。

 何千という人々がゲットーをあとにし、ハンガリーの三色旗のもとに集まった。そういう人々の中に、ジムカ・カリマンもいた。彼はハンガリー義勇軍の一兵卒としてコッシュートの太鼓に従い、カポルナ、ヴァーツ、ティミショアラの各地で戦った。

 高揚と感激のあとに来たのは、敗北であり、停滞と抑圧のつらい年月であった。しかし、ユダヤ人はみずからの人権をかち取っていたし、それが誰のおかげなのかも忘れなかった。

 アウスグライヒ〔妥協〕により、ハンガリーに再び国王と憲法が与えられたとき、それをどこの誰よりも喜んだのは、ゲットーのユダヤ人であった。今度は戦争なしで自由がもたらされた。自由とともにやって来たのは、平和であり、和解であった。

 その当時、ユダヤ人はハンガリー語とハンガリー風の名前を用い始めた。ハンガリー風の名前といっても、今回はヨーゼフ二世の時代のようなひどいことは行なわれなかった。その頃は、役人たちが、ユダヤ人がつけなければならない姓の立派さに応じて、高い金を払わせたのである。だが今度は、立派な名前も、格好悪い名前も、払う金は同じであった。そこでカリマンは、彼の考えでは歴史上で最高である名前を見つけて、フニヤディ・シャーンドルと名のった。

 その当時彼はまた、ヴィラゴシュの降伏後、庭に埋めておいた銃と弾入れを掘り出したり、義勇軍時代の戦勝記念品の数々を、誇らしげにベッドの上方にぶら下げたりした。

 自由のあるところ、宗教上の平和も支配する。宗教間の相互の敬意と寛容は、再び啓蒙を生み出し、偏見を打破する。

 フニヤディことカリマンは、ホルトでは自由思想家と見なされていたが、実際には信心深く、宗教上の戒律をすべて厳格に守っていた。けれども、教えに基づいておらず、進歩とも相いれないように思える様々の慣習にはとらわれなかった。

 彼が帽子をかぶるのはシナゴーグの中だけだったし、タルムードの食事上の細かな規則にはあまり拘泥しなかった。普通一般の人々と同じ服装をし、妻が髪の毛を長く伸ばすことも許した。そして、自分の家ではいかなる種類の迷信もかたく禁じた。

 彼の姿格好には、英雄らしいところは少しもなかった。小柄で、やせていて、風采はあがらなかった。顔は青白く、そばかすだらけで、髪はブロンドで、口髭もブロンドであった。そして灰色の小さい目をいつもぱちぱちさせていたが、それはひどい近眼だったからである。彼が赤いケースから大きな眼鏡を取り出すのは、仕事をするときか、本を読むときに限られていた。そのため、街道の里程標を県知事と勘違いして、うやうやしく挨拶したり、一番のお得意様であるバルカニィ夫人とすれちがっても、白い服を着た夫人を、家の前に干してある洗濯物と思い込んで、気づかずに通りすぎてしまうことがあった。〔……〕

 

 

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