「考察」の編集とヴェルチュ論文

 

 第3章「8冊の八折判ノート」でも述べたように,カフカが八折判ノートから「考察」の編集を開始したのは,1918219日の直後であることが判明している。彼がこの日以降もかなりの数のアフォリズムを書いていて,締めくくりの覚書も書いていないのは,アフォリズム的考察を完全に終了させる気がまだなかったことを示している。にもかかわらず,彼はなぜこの日から「考察」の編集作業を開始したのであろうか?

 カフカは兵役免除の延長手続のために,218日にプラハに行き,19日にチューラウに戻ってきた(NSIIA 47)。プラハで彼は,ブロートには会えなかったが(ブロートは16日からウィーンに出かけていた BKB 235),ヴェルチュとは何らかの形で接触した可能性がある。というのは,カフカは2月初めにヴェルチュにこう書き送っているからである。

 

「本質的なこと,つまり講演そのもののことは,君は何も触れていないが,まさにそのことを僕は君に頼んでいたのだ。でも今はきっとできないのだろう。いずれ講演が全部終わったら,完全な原稿を送ってくれたまえ。しかし,それよりも前にそれに近いことができるなら,そうしてくれたまえ。」(Br 233<255>)

 

 カフカはヴェルチュが行なっていた連続講演の内容を教えてほしいと頼み,もし講演の完全原稿を送ることができないのなら,それに代わるものを読ませてほしい,と依頼している。カフカの要望に応えて,ヴェルチュがプラハでカフカに渡したのが(直接手渡さなくても,ヴェルチュがカフカの自宅に前もって届けておいた可能性もある),おそらく「体験と志向」という,我々が第3章で検討したあの論文であろう。というのは,カフカの「志向と体験」のアフォリズムは,まさにカフカがチューラウに帰ってきた219日に書かれているからである! そして,この日の直後から,カフカは「考察」の編集作業を開始している!! ならば「考察」は,ヴェルチュの論文に自分もアフォリズム集という書物で応答しようとするカフカの試みであったと見ることができる。しかしながら,チューラウでの編集作業は中断し,出版できるまでの形にはととのえられなかった(多くの作品が未完のままに放置されるのがカフカの常である)

 しかしカフカは,途中放棄していた「考察」の編集を1920年後半に再開した。そのきっかけになったのは,友人たちの哲学的著作と,ユーリエ・ヴォホリゼクとミレナ・イェセンスカーという二人の女性であった。

 

 

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