危機の克服

 

 ブロートの思想遍歴に戻ろう。

 ブロートは『女王エステル』と『大いなる敢行』を,のちに「撤回の書」(HChJI 61)と呼んでいる。この二つの作品で,彼は一面的な自由の宗教としてのユダヤ教理解を撤回したのである。しかし,シオニストとしてのブロートは,もはやショーペンハウアー的無関心主義に戻ることもできなかった。ブロートがそれまでの思想的遍歴と人生体験の総決算を行なったのが,「信条告白の書(Bekenntnisbuch)」という副題をもつ『異教・キリスト教・ユダヤ教』(1921)という,2巻からなる大部の宗教哲学書である。

 ブロートはここでは人間の生を,「高貴なる不幸」と「高貴ならざる不幸」の二つの領域に分割する。「高貴なる不幸」というのは,有限的な存在としての人間の本性から生じてくる不可抗力的な不幸である。たとえば,「心変わりの可能性,肉体の衰弱,最高諸機能の最低諸機能への依存性,高揚の中における疲弊,誠実たろうとする真摯きわまりない試みの中における虚偽」(HChJI 28)などがそうである。「高貴なる不幸の原動力は情熱である。それゆえ,性愛が高貴なる不幸の中心的領域であり,核心である」(HChJI 34)。ここには,女性問題をめぐるブロートの切実な体験が反映している。これに対して「高貴ならざる不幸」というのは,社会的な不公正や戦争などのように,人間の力で回避し,除去しうる不幸である。この「高貴ならざる不幸」においては,人間には「緊急なる義務と活動的な課題」(BSL 338)が要請される。ブロートが二つの不幸に「高貴な」と「高貴ならざる」という形容詞を与えるのは,そのおのおのを体験するときの感情によるのだという。言うまでもなく,「高貴ならざる不幸」はブロートの政治的活動の時期の関心領域に対応し,「高貴なる不幸」は危機の時期の関心領域に対応する。

 このように生を二つの領域に分けたあと,彼は「高貴なる不幸」には恩寵を,「高貴ならざる不幸」には自由を分配する。「高貴なる不幸」においては,人間の倫理的努力は無力なので,人は「静かな謙譲の心」(BSL 338)で,衝動と義務の対立を調停してくれる神の恩寵を待つしかない。しかし,すべての悲惨を神の意志として甘受し是認することは間違っている。神は本来,「高貴ならざる不幸」に対しては,神の代理者としての人間が,自由意志によってそれを積極的に除去するように委託したのである(HChJI 62)。ブロートにとって,ユダヤ教はもはや『ティコ』におけるような一面的な自由の宗教ではない。それは「高貴なる不幸と高貴ならざる不幸の宗教」(HChJI 57),すなわち恩寵と自由の両方を兼ね備えた宗教なのである。

 では,この恩寵とは具体的には何か。それは義務と衝動の分裂という,『エステル』で描かれた「人間であることの不可能性」の突如の解消である。

 

「生きることが可能になる――まったく予期もせず,理解もできないあり方で。――恩寵が生に介入したのだ。」(HChJI 195f.)

 

そのとき,衝動はもはや罪深いものではなく,神に許されたものとなる。すなわち,義務と衝動は神の恩寵において統一され,現世は神に祝福されたものとなるのである。こうしてブロートは,『ティコ』の自由意志の段階と,『エステル』と『大いなる敢行』の危機の段階を,『異教・キリスト教・ユダヤ教』の自由と恩寵の両立によって克服したのであった。

 

 

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