『あれか・これか』への嫌悪感

 

 次にカフカがキルケゴールに言及するのは,1918120日のブロート宛の手紙の中である。この手紙は最初に,1月初めのバウムのチューラウ訪問について報告している。

 

「そのほかに僕は,部分的にはこの〔オスカー・バウムの〕訪問の結果として,特別の援助の必要性から,オスカーの出発の前の晩から『あれか・これか』を読み始め,今はオスカーから送られてきたブーバーの最近の本〔複数形〕を読んでいる。3冊とも全部,不快ないとわしい本だ。これらの本は正当で正確だし,『あれか・これか』はとくに鋭利きわまりない筆致で書かれている(ほとんど全カスナーがその中から押し寄せてくる)。しかし,これらは絶望させるための本だ。緊張した読書にはありがちなことだが,世界で本というものはこれしかないという無意識的な感情を,いったんこれらの本に対していだいてしまうと,どれほど健康な肺でもそれこそもう息切れがしてしまうに違いない。こんなことを言うと,当然詳しい説明が要求されるだろうが,ただ僕のその他の状況から,こんな言い方が許されるのだ。本といっても,少なくともその本に対してわずかばかりでもこちらが本当に優越しているという状態でのみ,書いたり読んだりできるような本がある。しかしそれでは,その不快さはみるみるつのるばかりだ。」(BKB 228<247>)

 

 この手紙ではカフカは,キルケゴールの『あれか・これか』に対する嫌悪感を表明しているが,彼はのちに191835日頃のブロート宛の手紙の中でも,「『あれか・これか』の第1巻はいまだに嫌悪感をもってしか読むことができない」と書いている(BKB 240<258>)。カフカはこの著作に対してどうしてそれほど強い嫌悪感をいだいたのであろうか。その理由を知るためには,『あれか・これか』の内容を詳しく見ていく必要がある。

 『あれか・これか』のテーマはエロスと結婚生活の問題である。これはAという筆者によって書かれたと称する第1部と,Bもしくは判事ヴィルヘルムという名の筆者によって書かれたとされる第2部の二部で構成されている。

第1部は「ディアプサルマータ」と名づけられたアフォリズム集,幾篇かの美学論文,そして「誘惑者の日記」から構成されている。第2部は二本の長い書簡体の論文,ウルティマトゥムと題された短い手紙,そして牧師の説教を含んでいる。第1部の著者Aは若い美的生活者(プレイボーイ)であり,人生の多様性,差異性を美的,感覚的に享楽することを人生の目的としている。これに対してBは堅実な家庭生活者で,倫理的な課題を果たすことこそ,人間のあるべき生き方であると考えている。この著作は,Aの美学論文や日記を読んで,BがAに対して出した批判の手紙という体裁を取って,美的生活の多様性と倫理的生活の普遍性の間の「あれか・これか」の選択を読者に迫るのである。

 

『あれか・これか』の構成

 

第1部(Aの書類)

 序言

 ディアプサルマータ

 直接的,エロス的な諸段階――あるいは――音楽的=エロス的なもの

 古代の悲劇的なものの現代の悲劇的なものへの反射

 影絵

  即興の挨拶/マリー・ボーマルシェ/

  ドンナ・エルヴィーラ/グレートヒェン

 最も不幸な者

 初恋

 輪作

 誘惑者の日記

第2部(Bの書類)

 結婚の美学的妥当性

 人格形成における美学的なものと倫理的なものの均衡

 ウルティマトゥム

 我々は神に対していつも正しくないという思想のうちにある,教化的なもの

 

 カフカは『あれか・これか』を読んで不快に感じたが,ブロート宛の手紙にも示されているように,とくにその「第1巻(das erste Buch)」を嫌悪した。『あれか・これか』という作品は,カフカが読んだプフライデラー/シュレンプフ訳の全集版(ディーデリヒス書店)では,第1部(Erster Teil)と第2部(Zweiter Teil)がそれぞれ一書である二巻本であるが,それには第1巻,第2巻といった表示は使われていない。

ビンダーは,カフカが用いている「第1巻」という語を,「第1部」の冒頭の「ディアプサルマータ」と解釈し,とくにその中の,

 

「結婚するがいい――そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがいい――そうしても君は後悔するだろう」(EOI 34<1:71>)

 

という箇所が,フェリスとの婚約解消後のカフカの生々しい心境と酷似しているので,特別な不快感を覚えたのだろう,という推測をしている(Bi 527)

 この推測はもちろん間違いではないが,ただしカフカの言う「第1巻(das erste Buch)」は「ディアプサルマータ」に限定する必要はなく,「第1部(Erster Teil)」全体と見るべきであろう(Buchは文字通り「本」である)。アフォリズムの寄せ集めである「ディアプサルマータ」よりもむしろ,マリー・ボーマルシェ(ゲーテの『クラヴィゴ』),ドンナ・エルヴィーラ(モーツァルトの『ドン・ファン』),グレートヒェン(ゲーテの『ファウスト』)という,男に裏切られた三人の女性の悲哀を分析した「影絵」と題された美学論文や,「第1部」最後の「誘惑者の日記」も,カフカにとっては非常に「生々しい(gegenwärtig)(BKB 240<257>)ものであったに違いない。なぜなら,彼もフェリスに対して,主観的にはどうであれ,事実上はAと同じ「誘惑者」であったからである。カフカが『あれか・これか』に耐えられないのは,ビンダーも指摘する通り(Bi 527),「誰かが昨日殺人を犯したとすれば〔・・・・〕,今日はどんな殺人の話も我慢できない」(M 264 <204>)という心理によるだろう。したがって,キルケゴールのこの著書はカフカにとって,「少なくともその本に対してわずかばかりでもこちらが本当に優越しているという状態でのみ,書いたり読んだりできるような本」ということになるのである。

 カフカが『あれか・これか』を読み始めたのは,ブロート宛の手紙にもあるように,バウムのチューラウへの来訪がそのきっかけであった(それ以前に『おそれとおののき』を再読したのもバウムの手紙がきっかけであった)。バウムがカフカを訪ねたのは,彼の夫婦生活の悩みをカフカに相談するためであった。当時バウムは妻に性的な不満をいだいていて,離婚の危機にあった。カフカとの話合いの際に,バウムがキルケゴールに言及したのであろう。バウムに触発されて,カフカもキルケゴールの『あれか・これか』を読み始めた。性愛と結婚について論じているキルケゴールの著書は,カフカにとっては友人の問題を考える上での一つの手がかりであったが,この読書は当然彼に,自分とフェリスの問題のことも想起させずにはおかなかったであろう。彼は,「部分的には」友人の,そして自分自身の,こうした人生上の問題との関連においてキルケゴールを読んだのであった。

 

 

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