最初に読んだ『士師の書』

 

 カフカがキルケゴールの著作を初めて読んだのは1913821日のことである。彼は日記に,

 

「僕は今日,キルケゴールの『士師の書』を手に入れた。僕が予感していたように,本質的に相違しているにもかかわらず,彼の場合は僕の場合と非常によく似ている。少なくとも,彼は世界の同じ側にいる。彼は友人のように僕の正しさを裏づけてくれる」(T 578<229>)

 

と記している。

 ドイツでキルケゴールの著作が本格的に紹介されたのは,1909年から刊行が始まったオイゲン・ディーデリヒス書店の12巻本のドイツ語訳キルケゴール全集によってであった。ドイツ語圏における「キルケゴール・ルネッサンス」の風潮の中で,カフカもキルケゴールに関心を寄せたのであった。

 彼がキルケゴールの名を知り,『士師の書』を読むようになったのは,プラハの文学者仲間のヴィリー・ハースの勧めによる(Bi 435, 523)。また,彼は同じくハースに刺激を受けてパスカルも読むようになった。

 興味深いのは,ハースをはじめプラハの若い文学者たちに,パスカルやキルケゴールなどを最初に紹介して流行らせたのが,のちにカフカの恋人になるミレナ・イェセンスカーの夫で,カフカにとってはいわば恋敵の関係になるエルンスト・ポラク(カフカやハースと同じユダヤ人で,カフカも面識があった)であったことである。つまり,カフカのキルケゴール読書は間接的にはポラクに負っていたことになる。ただし1913年当時,カフカはミレナとはまだ会っておらず,最初の恋人フェリス・バウアーとの葛藤の最中であった。

 『士師の書(Buch des Richters. Seine Tagebücher 1833-1855 im Auszug)』はキルケゴールの日記のアンソロジーで,ディーデリヒス社版キルケゴール全集の翻訳者の一人であるヘルマン・ゴットシェートによって編集・翻訳され,1905年に同じディーデリヒス社から出版されている。まずこの書の内容について一瞥しておこう。

 この書は,最初に訳者による「緒言」,次に「キルケゴールの人柄」(これはキルケゴールの姪の追想,キルケゴールの日記から彼がデンマーク国王クリスチャン8世と交わした会話の記録,そしてやはりキルケゴールの日記から父ミカエルに関する記述という三つの部分から成り立っている),そのあとには日記からの抜粋が置かれ,最後は,キルケゴールの親友エーミール・ボェセンが病床のキルケゴールと死の直前に交わした会話の記録である「病院のキルケゴール」で締めくくられている。日記からの抜粋部分は,「キルケゴールとレギーネ・オルセン」,「キルケゴールとコルサール」,「キルケゴールの憂愁」,「キルケゴールと理想」,「キルケゴールと個々の人々」というように,テーマ別に分類されている。一覧すれば次のようになる。

 

『士師の書』の構成

 

緒言

キルケゴールの人柄(姪の追想/クリスチャン8世

との会話/父ミカエルについて)

キルケゴールとレギーネ・オルセン

キルケゴールとコルサール

キルケゴールの憂愁

キルケゴールと理想

キルケゴールと個々の人々

病院のキルケゴール

 

 キルケゴールの日記のアンソロジーをゴットシェートが『士師の書』というタイトルで出版したのは,『士師の書』にも掲載されているキルケゴール自身の次の一節によっている。

 

「もし私の日記を私の死後,出版しようとするならば,その題名は,『士師の書(Buch des Richters)』とすることができよう。」(BdR 71)

 

 「Richter」という語は通常,「裁判官」を意味するが,キルケゴールが上のように書いたとき念頭に置いていたのは,旧約聖書における「Richter」,つまり「士師(さばきつかさ)」のことであった(ドイツ語訳聖書の「Buch der Richter」は日本語訳聖書では「士師記」である)。士師とは,「カナン占領から王国設立までの期間,神によって起こされ,イスラエル人たちを敵の圧迫から解放する軍事的,政治的指導者」(新共同訳聖書「用語解説」)を指す。「士師記」には,彼らは「イスラエルを裁いた」と書かれている。

 「士師の書」という題名に関するキルケゴールの先の記述は1849年のものであるが(SKT 3:202),この時期,彼は自分の運命を時おり旧約の士師のそれと比較し,たとえば次のように書いている(『士師の書』よりも詳しいゲルデスのドイツ語訳『日記』より)

 

「よくよく考えてみると,次のことは奇妙である。私の人生を士師のそれと比較してみれば(もちろん私たちの間の本質的な相違を度外視してのことだが),その相違は,過去の時代の士師は,政府を裁くためにやってきたことである。私はまさにそれとは正反対の方向に対抗したのであった。そのことは理解されなかった(一私人がそんなことをするのは奇妙だと思われたのである)。私自身もそのことをあまり深くは理解していなかった。しかし,今や48年になり,それ以降となり,次のことがまったく明らかになった。もし神の摂理が将来,預言者や士師を遣わすとしたら,それはただ政府を助けるためにのみ,統治の可能性を援助するためにのみ行なわれるに違いない,ということである。」(SKT 3:184)

 

 この一節でキルケゴールは,1848年革命以降,ヨーロッパにおいて社会的混乱が目立ってきた新しい時代の中では,「士師」や「預言者」は,旧約聖書時代のように政府や権力者を裁く批判者ではなく,逆に統治秩序を維持するために助力する人間でなければならない,と言う。キルケゴールはこの箇所で,自分をこのような保守的「士師」になぞらえたのである。

 

 

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