輪廻転生

 

 

 私たちは輪廻転生の問題に戻ります。

 

 大乗仏教の主要目的は自分だけの解脱ではありません。ブッダとなる努力をするのは、いつでも他の人々の幸せのためなのです。自分自身が生存の輪廻から解放されるということは、自分が存在することをやめる、ということではありません。彼は瞬間瞬間存続します。しかし、知者はもっと多くのエネルギー、もっと多くの智慧、もっと多くの慈悲を持つのです。

 

 それでは、人は転生の輪から解放されることが可能でありながら、また現世に戻ってきて他の人々に奉仕するのですね?

 

 はい、もちろんです。他者への奉仕が解脱の目的だからです。解脱とは、存在の輪廻を離脱して、どこか別のところに行ってしまうことではありません。解脱とは、有情を救うために、よりよいエネルギーをもって戻ってくることです。人は相変わらず存在の輪廻の中におりますが、もはや自分自身の否定的な感情や行動に影響されることはありません。

 

 彼が私に尋ねます――あなたは輪廻の教義を受け容れることができますか?

 

 はい、私にとっては、極東と仏教に関係するものはすべて実に自然に思えます。ひょっとすると、私がまさに過去世で東洋に生き、学んでいたからかもしれませんね。私の心には青春時代に願った夢がまた思い浮かんできます。一九三〇年のことです。チベットは私にとっては、地理的地図でも精神的地図でも、空白のシミにすぎませんでした。チベットに行くことは流行にはなっていませんでした。もっとも、ヨーロッパ人が初めてヒマラヤの高峰に登った、ということは耳にしていたに違いありません。私はアルプス地方に育ち、熱心な山登り娘でした。そこで、ヒマラヤに興味を持ったのです。そこには行けないだろうな、と私は考えました。私は「世界の屋根」という言葉に魅了されました。最高の山頂、もっとも高い場所。二〇歳のとき、私はある日、短篇小説を書きはじめました。若いヨーロッパ人のグループが、空虚で病的な文明に嫌気がさして、「世界の屋根」を目指して登りはじめ、なんとか生活できる高さの地点に共同体あるいは修道院をつくる、という物語です。私はその物語をなくしてしまいました。それについて知っているのは、友人がそのことについて私に書いた手紙からだけです。どうして私はこんな考えを思いついたのでしょう? 私はそれについては、登山家たちに関する時事的ニュース以外には何も読んでいませんでした。私にとっては、それが恋いこがれるような願望の源泉になったのです。ずっとあとになってから、私がチベットに行くのではなく、チベットのほうが私のところにやってきました。それも本を通してだけではなく、チベット僧ラマ・アナゴリカ・ゴヴィンダという人物としてです。彼は(奇妙な運命の摂理です)ローマ近郊の私の家に三日間泊まっていきました。私は彼に、マントラ(真言)とかそのほかの何かの神秘的なことを教えてくれ、と頼みました〔原註:マントラは諸仏の特定の宇宙的な諸力と側面を表現する、力のある音節あるいは音節のつながりで、しばしば仏の名称である。多くの仏教流派では、瞑想の形式としてマントラがたえず繰り返される〕。彼は笑って言いました、「向こうのほうからやって来るのを待ちなさい。それは必ず来ますよ」

 

 それは来ました。何年か前、私は中国南部の四川省に行きました。チベットの国境すぐ近くです。中国人の友人たち(チベットの敵ですが)が、国境を越えるのは危険だという口実で、私に国境を越えさせなかったときには、本当に心が引き裂かれました。また間もなく冬になるし、寒すぎる、と言って……。

 

 敵のせいであなたは国境を越えられなかったのですね。敵とおっしゃいますが、誰の敵ですか?

 

 

『ダライ・ラマ 平和を語る』

 

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