『カフカ ブーバー シオニズム』

 

緒 言

 

 

 ハプスブルク帝国オーストリアの都市であったプラハで生まれ育ち、ドイツ語で著作したフランツ・カフカ(1883-1924)は、ユダヤ人であった。彼の日記や手紙を読むと、彼がユダヤ人としての自己のあり方をたえず問題にしていたことがわかる。彼のユダヤ性は彼の文学とどのように関わっているのであろうか。

 

 カフカ作品においてはユダヤ性が中心的な問題であることは、彼の友人で、彼の作品の最初の編集者であったマックス・ブロートによって早くから指摘されていた。ブロートはすでに1916年に、「彼の諸作品の中には一度として《ユダヤ人》という語は登場しないが、それらは我々の時代の最もユダヤ的な記録の一つなのである」と論じている。しかしながら、カフカを自分と同じシオニストと見なし、カフカ作品の中にユダヤ神学的な世界観を見出す彼の解釈は、明らかに行き過ぎである。

 

 その後も折に触れてカフカ作品の中にユダヤ人問題の描写を見る解釈がなされてきたが、カフカ作品とユダヤ性の関係について必ずしも説得力のある見解が提示されたわけではない。時には牽強付会の解釈さえまれではなかった。しかしながら、近年、このテーマに関していくつかのすぐれた研究が発表されるようになってきた。本書は、それらの先行研究に刺激を受けつつ、カフカのユダヤ人問題との取り組み、とくにシオニズムとの関係を解明することを目指している。

 

 彼の親しい友人たちはみなユダヤ人であり、その多くがシオニストであった。ブロートはもとより、小学校からギムナジウムまでカフカの同級生であったフーゴー・ベルクマンにしても、またカフカの妹のオットラにしても、シオニストであった。ユダヤ知識人としてカフカはシオニズムに無関心ではありえなかった。

 

 カフカがシオニズムに一定の理解と共感を寄せていたことは疑いえないが、他方、彼の日記や最初の恋人フェリス・バウアーへの手紙には、自分をシオニストではないとする記述も見られる。カフカはシオニズムをどのようにとらえていたのか? 当然のことではあるが、一人の人間においても、あるイデオロギーに対する態度は時期によって変化する。カフカのシオニズムに対する関係も同様である。私見によれば、カフカがシオニズムに大きく接近したのは、191617年と192324年の二つの時期である。

 

 1916年後半にカフカはベルリンの「ユダヤ民族ホーム」に関心を寄せた。このホームはマルティン・ブーバーのシオニズム理念で運営されていた。この時期のカフカにとって、中欧のシオニズムのリーダーであるブーバーとの知的な対決が重要な意味をもっていた。1916年終わりから19174月末/5月初めまで、彼は錬金術師小路(アルヒミステンガッセ)の小部屋を仕事場として活発な文学創作を行なったが、この創作期は彼のブーバーとの交流の時期と重なっている。ブーバーが主宰する雑誌『ユダヤ人』に作品を提供することによって、彼は一時的にシオニズムに参加したと見ることができる。

 

 しかしながら、カフカはブーバーのシオニズム理念に全面的にコミットすることはできなかった。彼は19178月に結核を発病し、9月から北西ボヘミアのチューラウという農村で半年以上の静養生活を送った。彼はチューラウで数多くのアフォリズムを書いたが、それらはシオニズムの問題圏にほとんど言及していない。彼の関心がシオニズムから離れたことがうかがわれる。

 

 カフカは晩年、もう一度シオニズムに大きく接近することになる。1923年、すなわち彼の死の直前にカフカは、すでにエルサレムに移住していたベルクマンを頼って、伴侶のドーラ・ディアマントとともにパレスチナに移住することを夢見た。晩年のカフカはたしかにシオニスト的である。

 

 本書は、カフカの191617年のシオニズムに対する態度を、錬金術師小路期の短編作品の中に探ろうとする試みである。本書は三部から構成される。第T部「民族と文学」はまず、カフカのユダヤ的出自、彼の周囲のシオニズム思潮の動向、そしてシオニストの友人たちとの交流の中における彼の文学的試行錯誤を記述する。191112年に彼は東欧からやってきたイディッシュ劇団に遭遇し、またベルリンのフェリスとの手紙による恋愛が始まったが、この二つの出会いによって、彼は自分の文学を発見したのである。第T部ではさらに、第U部以下の議論の背景となるブーバーのシオニズム思想が詳述される。第U部「《万里の長城》をめぐって」では、彼のシオニズムに対する態度を、「万里の長城が築かれたとき」(19172/3)という未完の作品の中にさぐる。結論を先取りして言えば、この作品はブーバー的なシオニズムの理念と対決する作品なのである。古代中国に題材を採ったこの作品がなぜシオニズムの文脈の中で解読できるのか――それは本書の論述によって納得していただけるであろう。この作品の分析を通してさらに、第V部「二つの動物物語のユダヤ問題」において、「ジャッカルとアラビア人」と「ある学会への報告」という二作品におけるユダヤ人問題が析出されることになる。

 

 なお、本書の最後には「万里の長城」の全訳を掲載してある。この目立たない作品をまだお読みではない読者は、第U部に入る前に一読しておくとよいかもしれない。

 

 本書はカフカ研究書であるが、錬金術師小路期の作品は、カフカのブーバーとの関係を抜きにしてはその意義を十全に理解することはできない。日本ではブーバーといえば、『我と汝』に代表される実存主義的な対話の哲学者として知られているが、本書が解説しているのは、彼のそれ以前のシオニズム思想である。

 

 シオニズムは現イスラエル国の建国理念である。イスラエルは中東のイスラム教諸国の中の唯一の非イスラム教国として、四度の中東戦争を戦い、国内には今なおパレスチナ人問題をかかえている。シオニズムは現在の国際政治においても大きな影響を及ぼしているイデオロギーである。このイデオロギーがいかなる起源から生まれ、カフカがそれにどのように対峙したかを本書は解明している。

 

 本書を通じて読者が、カフカ文学の解釈可能性と無類の面白さを発見すると同時に、シオニズムとユダヤ人問題について新しい視点を獲得することができれば、著者の喜びとするところである。

 

20105月       中澤英雄

 

『カフカ ブーバー シオニズム』

 

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